「日本会議は全体主義」というエントリーで、以下のように箇条書きできる内容を書いた。これに対して、同じく下記概要のようなアサッテの方向向いたピント外れのコメントが返って来た。なぜこれほどにピント外れになったのかをよく考えてみたら、実に面白いことに気づいた。哲学で言えば、凄まじい主観主義なのである。この独り善がりが、実は途方もなく怖い。
拙稿の概要
①日本会議は、「世界に類例をみないわが国の誇るべき宝」である天皇を敬愛する「同朋感」のない人を切り捨てた憲法を目指している。その意味で、全体主義を目指していることになる。
②あまつさえ、そういう「同朋感」のない人こそが、戦後に現れたやの「(彼らが観る)諸社会悪」の原因であり続けてきたとも延べている。
③このような理念を中心に据えた国家観は、ゲルマン民族の優位を説いたヒトラー全体主義とどこが変わるか。両者の差は、「異質」国民の統制や、他民族蔑視やを自制する程度の差しか残っていないことに気づかないのである。この無意識こそ、今後に向かって実は最も恐ろしいものだ。
彼の批判の見出しと、内容
①『愛国心は。世界の常識』
「愛国心は世界の常識」を延々と展開して、最後の締めが『ゆえに、日本会議は全体主義とは無関係です』。これって、批判になってるの?
②『天皇は、日本の代表です』
日本の代表=総理大臣。総理大臣の代理=皇室。ならば、日本の代表=皇室。とこう来て、最後が『総理大臣は国民の代表ですから、我々国民が、皇室を日本の代表にしてきた、というのは、客観的な事実です』。これもまた、拙稿への批判になってるつもり?
拙稿へのこのような「批判」に反批判というのも大人げないほど。簡単に済む。
①僕のエントリーのどこにも、「愛国心」など書いてない。この否定はもちろん、肯定も。
こうして思うに「天皇への敬愛」こそが無条件で愛国心そのものなのであって、この敬愛がない人は愛国心がないと言いたいのだろうが、そういう説明はどこにもなく「言うまでもない必然の論理」のように語っているのが笑えた。ちなみに、僕は人並みの愛国心は持ってます。もちろん、僕がこれを持っていないという証明は彼の文章のどこにもありません。
②僕は天皇が日本の代表ではないなどとはどこにも書いていない。憲法に「象徴」という「立派な」言葉が存在するから、そんなこと書けません。「政治権能のない象徴」という「代表」である。
ところで、こう認めたら、僕のエントリーのどこに彼は一体反論できたことになるのだろう。彼には、「天皇への敬愛」がない人は天皇をこういう代表とは認めないと僕についても勝手に決め込んだのだ。逆に、代表と認めれば敬愛すべきだとも?
日本国で僕が敬愛するのは、日本国民。天皇も1人の国民という程度には敬愛してますが、少なすぎるのでしょうね。
みなさんも、この反論、全然反論になってないと思われるはずだ。
ところでシンさん、答えるなら僕のようにちゃんと答えてよ。長ったらしい訳の分からぬ文章を不親切にも4~5本も読ませるのではなく、一文にまとめて筋が分かるように要領よくお願いしたいもの。要領よくとは、初心に返って、僕の「日本会議は全体主義」の上記「拙稿概要」3点に即して反論することね。それも、最も見事な批判は、いつものような3点からの思いつきつまみ食いじゃなく、3点全部批判し切ることね。できれば一枚の紙で。いつもそうやってくれれば、討論が深まって、君の国語力も上がると僕は思う。ましな高校生の国語能力なら、それくらいなことはちっとも難しくはないはずだ。相手が、僕のように君が言ってないことまで君の心を読み込んでくれるほど親切な人なんだから
そのような事実は、全くありません。(^0^)
戦前の国家神道は、宗教の自由を認めず、強要したことに問題があるのであり、その点は、日本会議の全メンバーが共有しています。
そもそも安倍総理も、石破総理候補も岸田総理候補も菅総理候補も、
日本会議のメンバーですよ。
反日であれば、非国民になるなどという事は、全くない。
反日も、言論の自由、思想の自由、表現の自由、政治活動の自由として、保護される憲法を日本会議は、目指しています。
そのような事実も75%は、外れています。(^0^)
25%は事実ですが、
75%間違ってれば、そのような事実はない、と、形容すべきでしょう。
日本会議が、悪いと言っているのは、
①
自国の防衛を他国に委ねる独立心の喪失
②
権利と義務のアンバランス
③
家族制度の軽視
④
行きすぎた国家と宗教との分離解釈
です。
なお、日本会議は、諸悪の根源、という表現はしていません。
「同朋感」なる言葉は、日本会議は使っていません。
キミのいう同胞感とは、天皇に対する敬愛の事だと思いますが、
①から③は、天皇に対する敬愛とは、無関係です。
④は、天皇と神道は、切り離せないものです。
神道とは、天皇は神だ、という宗教なんです。
従って
イエスは神だ、ブッダは仏だ、
ならば、天皇は神だ、となります。
また、
イエスも人だ神ではない、ブッダも人だ仏ではない、
ならば、天皇も神ではなく、人となります。
この当たり前の事をキミが受け入れられない、
または、抵抗があるのは、
行きすぎた国家と宗教との分離解釈
に、原因があります。
4つあげているうち、当てはまるのは、一つだけですから、
75%は、外れています。(^0^)
25%は事実ですが、
75%間違ってれば、そのような事実はない、と、形容すべきでしょう。
ヒトラーはドイツ国籍のユダヤ人を、ドイツ人ではないとして、徹底的に迫害しました。
日本会議は、反日も、言論の自由、思想の自由、表現の自由、政治活動の自由として、保護される憲法を日本会議は、目指しています。
日本会議とヒトラーは真逆です。
ちなみにゲルマン民族の優位は、そのような事実は全くありませんが、
日本が世界最古の国であるという事は、客観的な事実です。
そもそも日本会議は、反日すらも保護しようという自由を尊重した憲法を目指しているのであるから、全体主義ではない。
家族制度を重んじるという事と全体主義は真逆です。
忠ならんとすれば孝ならず、
孝ならんとすれば忠ならず。
これは、永遠の真理で、
言い換えれば
全体主義を重んじれば、家族主義ならず、
家族主義を重んじれば、全体主義ならず。
となります。
息子を戦場へ送りたい人だけが戦場へ送ればいい、
こんなバカな話はありません。
政治家は、子供を戦場へ送らない、
市民は、子供を戦場へ送れ、
これでは、落選します。
全員、子供を戦場へ送ろう。
結局、こういう事になります。
全体主義は、家族制度を軽視する事になります。
全体主義は、家族制度よりも国を重んじる、それが、全体主義なのです。
家族制度を重んじる日本会議は、全体主義ではない。
僕が
コメントで細かく、分けているのは、
引用する際に、
一部分を切り取って、印象操作されないよう、
原稿用紙2枚以内にしているんだから、
引用するならば、
コメントの一部分ではなく、
コメント全部を載せて下さいよ。
コメント全部、
載せたって800字だぞ。
600字や400字の事だってあるぞ。
ただ、
そうは言っても、
800字超え取るだろうが
というコメントもある。
だめだ、原稿用紙2枚におさまらん、と、結構長文にしちゃった事も何回もある。
そういう長いコメントの場合は、
そりゃあ、一部分を切り取られても、文句はいわないけどね。
ちなみに愛国心について、は、573字
天皇は、日本の代表は607字
ちなみに、
キミの今回のピント狂いすぎ反論に、困った話は、
1506字
キミの前回の改めて、「日本会議は全体主義」は、
1223字
次の君の主要論点への僕の批判へのお答えがないのは、討論義務違反。自分のは散々他人に読ませといて、それに答えた部分を逃げるのは駄目。全部君が、箇条書きで語ったことなのだから。
『 彼の批判の見出しと、内容
①『愛国心は。世界の常識』
「愛国心は世界の常識」を延々と展開して、最後の締めが『ゆえに、日本会議は全体主義とは無関係です』。これって、批判になってるの?
②『天皇は、日本の代表です』
日本の代表=総理大臣。総理大臣の代理=皇室。ならば、日本の代表=皇室。とこう来て、最後が『総理大臣は国民の代表ですから、我々国民が、皇室を日本の代表にしてきた、というのは、客観的な事実です』。これもまた、拙稿への批判になってるつもり?
拙稿へのこのような「批判」に反批判というのも大人げないほど。簡単に済む。
①僕のエントリーのどこにも、「愛国心」など書いてない。この否定はもちろん、肯定も。
こうして思うに「天皇への敬愛」こそが無条件で愛国心そのものなのであって、この敬愛がない人は愛国心がないと言いたいのだろうが、そういう説明はどこにもなく「言うまでもない必然の論理」のように語っているのが笑えた。ちなみに、僕は人並みの愛国心は持ってます。もちろん、僕がこれを持っていないという証明は彼の文章のどこにもありません。
②僕は天皇が日本の代表ではないなどとはどこにも書いていない。憲法に「象徴」という「立派な」言葉が存在するから、そんなこと書けません。「政治権能のない象徴」という「代表」である。
ところで、こう認めたら、僕のエントリーのどこに彼は一体反論できたことになるのだろう。彼には、「天皇への敬愛」がない人は天皇をこういう代表とは認めないと僕についても勝手に決め込んだのだ。逆に、代表と認めれば敬愛すべきだとも?
日本国で僕が敬愛するのは、日本国民。天皇も1人の国民という程度には敬愛してますが、少なすぎるのでしょうね。
みなさんも、この反論、全然反論になってないと思われるはずだ』
どう? 反論になってると思うの? こんな文章読まされるのは大変な迷惑だが?
こうして思うに「天皇への敬愛」こそが無条件で愛国心そのものなのであって、この敬愛がない人は愛国心がないと言いたいのだろうが、そういう説明はどこにもなく「言うまでもない必然の論理」のように語っているのが笑えた。ちなみに、僕は人並みの愛国心は持ってます。もちろん、僕がこれを持っていないという証明は彼の文章のどこにもありません。
日本は世界最古の国であり、
このうち、国民主権の期間は、百年にも満たない。これは、言うまでもない、必然の論理である。
千数百年にわたって、日本は天皇主権の国であった。
また、
千数百年にわたって、日本は宗政一致の国であった。
神道は、天皇は神、という宗教なのです。
従って、
宗教と政治の完全な分離はできない。
完全な分離を行うという事は、日本の伝統的な文化は全て消滅させるという事になってしまうからだ。
どこの国でも、文化財の保護に多額の税金を使っている事は、言うまでもない。
従って、日本の伝統的な文化と皇室は、切っても切り離せないのであり、
愛国心=皇室への敬愛となるのは、
あまりにも当たり前な言うまでもない事だ。
ちなみに、
皇室への敬愛と無関係な愛国心というものがあるなら、それがどのようなものなのか、ぜひ、お話を伺いたい。
ところで、こう認めたら、僕のエントリーのどこに彼は一体反論できたことになるのだろう。彼には、「天皇への敬愛」がない人は天皇をこういう代表とは認めないと僕についても勝手に決め込んだのだ。逆に、代表と認めれば敬愛すべきだとも?
日本国で僕が敬愛するのは、日本国民。天皇も1人の国民という程度には敬愛してますが、少なすぎるのでしょうね。
さて、百年にも満たない国民主権の時代でも、天皇は日本の代表である、という合意が、僕とキミとでできた訳だ。
では、具体例をあげるが、
山田さんは、日本の代表にふさわしい、
といえば、それは、山田さんを敬愛している事になる。
同じ事で、
天皇は日本の代表と認めるが、天皇を敬愛していない、というのは、論理的に成り立たない。
国民主権の時代でも、天皇は日本の代表であると認める者は、全員、天皇を敬愛している事になる。
これが、論理的帰結である。
『こうして思うに「天皇への敬愛」こそが無条件で愛国心そのものなのであって、この敬愛がない人は愛国心がないと言いたいのだろうが、そういう説明はどこにもなく「言うまでもない必然の論理」のように語っているのが笑えた』
『彼には、「天皇への敬愛」がない人は天皇をこういう代表とは認めないと僕についても勝手に決め込んだのだ。逆に、代表と認めれば敬愛すべきだとも?』
神道天皇国教を憲法の柱としてどうしても入れたいと叫び合っている人々とは、理論としての話は無理ということね。何が何でも入れてやろうというのも宗教のうちなのだから。「1000数百年続いたもの」だから、新憲法として改めて入れるべしという唯一の言い分も、おかしな論理なのだしね。
でもまー、今の国民主権を押しのけなければ出来ないことだし、「神道天皇が入っても信教の自由は認めるし、言論の自由なども認める」等というのも未来に向けた嘘っぽい話だし、こんなモノ実現するわけないとしときましょうか。
ありがとう。ちょっと考えます。