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太平洋戦争、右流ねじ曲げ理論に   文科系

2018年07月18日 00時34分36秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 以下文中にもある通りに、右流太平洋戦争理解の「最も大きなねじ曲げ部分」をまたまた描き出します。こういう議論をするから、「連合国史観」とか「東京裁判史観」という言葉が、恥ずかしげもなく使えるのだと。ちょうど、日本の朝鮮征服史に全く無知なのに慰安婦強制への反論を大音声する人が出て来たら、この征服史を又再掲したいと思い立つように。右翼系の学者・論客がこれらを知っていて知らない振りをしてきたから、その結論部分だけを受け売りしにここに来るような人々が、以下のような事実にほとんと無知なのです。
 なお以下の拙稿は、当時このように連載したものの第5回目のものです。

①「対英戦争と対米戦争の関係」10年11月15日
②「日米戦争における戦争責任の問題」11月16日
③「日米同罪論について」同17日
④「アジアのため?」18日
⑤(これが、以下の今回のものです)20日
⑥「太平洋戦争と天皇」22日
⑦「『自虐史観』『洗脳』の危うさ」23日
⑧「東條英機首相への熱狂ぶりと、その源泉」24日

(このどれもバックナンバーとしてここでお読み願えます。右欄外のカレンダー下の「年月欄」をスクロールして10年11月をクリックすると、すぐ上のカレンダーがその月のものに換わりますから、読みたい日をクリックして頂きます。すると、エントリー本欄がその日のエントリー全てに換わりますので、目的のものを探してお読み願えます)



【 太平洋戦争、右翼のデマに(番外編) 文科系 2010年11月20日

 しゃにむに、密かに、不意打ち開戦へ

 前回のこのまとめ部分は、日米の戦争責任論議における最重要点だから、説明が要りますね。
「なお、この(1941年11月)5日の御前会議の存在は、東京裁判の当初の段階では米軍に知らされていなかったということです。ハルノートとの関係、「日米同罪論」との関係で秘密にしておいた方が都合良かったと、著者(岩波新書「シリーズ日本近現代史全10巻の第⑥」「アジア・太平洋戦争」、⑥の著者は吉田裕一橋大学大学院社会学研究科教授)は解明していました」

 米国務長官ハルの覚書が駐米日本大使に手交されたのが41年11月26日、外務省がこれを翻訳して関係方面に配布したのが28日でした。対して当時の日本政府はその行動を、このように説明してきました。ハルの、この4要求を「最後通牒」で「高圧的」と断定。それゆえ「自存自衛の為」(12月8日、宣戦の詔勅)の開戦を、12月1日の御前会議で決定、と。誰が考えても、国の運命を決めるような大戦争の決断経過としては動きが急すぎて、不自然です。この不自然さを、著者の吉田氏はこう解明していきます。

 そもそも1国務長官の覚書とは、1国の最後通牒などと言える物では、到底ない。よって、10月に退陣した近衛内閣が進めていたように、アメリカとの条件交渉の余地はまだまだ充分過ぎるほどに存在していたのである。対して、入れ替わったばかりの東条内閣が、ハル・ノートを最後通牒と断定し即戦争を決めたように語られてきたわけだが、これは完全に日本のあるタクラミに基づいている。その狙いは、
・生産力で10倍を遙かに超える差がある強大なアメリカの戦争準備が整わぬうちに、戦争を始めたかった。日中戦争進展にともなって臨時に大増強した太平洋周辺戦力はアメリカを上回っていたからだ。
・それも、完全に油断させておいて、不意打ちで開戦したかった。日本側は、十二分に準備を整えておいた上で。
・東条内閣は、発足20日も経たぬ11月5日の御前会議でもう12月初頭の開戦を決めていて、戦争にまっしぐらだったのである。その日に決まった「帝国国策遂行要領」をその証拠として、著者はこう書いている。
『「帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設する為、此の際、英米欄戦争を決意し左記措置を採る」とした上で、「武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す」と決めていた。引き続き外交交渉を継続するとされていたものの、実際には、その性格は開戦決意をカムフラージュするための「欺騙外交」としての側面をつよめてゆくことになる』
 なお、前にも述べたように、この11月5日の御前会議は、東京裁判当初までアメリカには隠されていたものである。以上のように軍人内閣のやり方は、「出来るだけ速く、密かに、しゃにむに戦争へ」「相手とは交渉を続けるふりをして油断させつつ」「それも、相手に知られない不意打ちで」というものであって、このことはその4にまとめた以下の事実によっても証明されている。
『よく知られているのは、真珠湾への奇襲攻撃である』。開始8日午前3時19分、対米覚書手交4時20分というものだ。この点については従来から、こういう説があった。対米覚書の日本大使館における暗号解読が遅れたとされてきたのだ。これにたいする本書の解明はこうなっている。
『外務省本省は13部に分かれた覚書の最終結論部分の発電をぎりぎりまで遅らせただけでなく、それを「大至急」または「至急」の指定をすることなしに、「普通電」として発電していたことがわかってきた』


「アジア・太平洋戦争」の開戦原因に関わる経過を、最後にもう一度まとめておく

1 「日本が、中国侵略から南部仏印侵略へという動きを強行した」
「このイギリス権益の侵害に対してなされた、アメリカによるたびたびの抗議を無視した」
「こういう日本の行為は、ドイツの英本土上陸作戦に苦闘中のイギリスのどさくさにつけ込んだものでもあった」
 この間の上記の経過は、本書では結局、こうまとめられている。
『結局、日本の武力南進政策が対英戦争を不可避なものとし、さらに日英戦争が日米戦争を不可避なものとしたととらえることができる。ナチス・ドイツの膨張政策への対決姿勢を強めていたアメリカは、アジアにおいても「大英帝国」の崩壊を傍観することはできず、最終的にはイギリスを強く支援する立場を明確にしたのである 』

 そのアメリカに対しては、交渉するふりをして、その太平洋周辺戦力が不備のうちに、不意打ち開戦の準備を進めていった。
 その直前の様相は、こういうことであった。
『(41年7月28日には、日本軍による南部仏印進駐が開始されたが)日本側の意図を事前につかんでいたアメリカ政府は、日本軍の南部仏印進駐に敏感に反応した。7月26日には、在米日本資産の凍結を公表し、8月1日には、日本に対する石油の輸出を全面的に禁止する措置をとった。アメリカは、日本の南進政策をこれ以上認めないという強い意思表示を行ったのである。アメリカ側の厳しい反応を充分に予期していなかった日本政府と軍部は、資産凍結と石油の禁輸という対抗措置に大きな衝撃をうけた。(中略)以降、石油の供給を絶たれて国力がジリ貧になる前に、対米開戦を決意すべきだとする主戦論が勢いを増してくることになった。』】
(これは2018年1月という今現在の余談ですが、アメリカの上記のような対日行動は、現在アメリカが北朝鮮に対している行動に何と似ている事でしょう! 「在米日本資産の凍結」と言い、「日本に対する石油の輸出を全面的に禁止」と言い。)


 なお、20世紀における大日本帝国軍隊の仮想敵国が以下のような変遷を辿ったことも、今回改めて付加させていただきます。 
 1907年4月4日以降 『(仮想敵国の)第1はロシア、米・独・仏がこれに次ぐ』
 1918年6月29日以降『ロシア、アメリカ、中国』
 1923年2月28日付けで、日本帝国の国防方針がこう改訂されています。
『想定敵国 陸海軍共通のものとしてアメリカ、ロシア・中国がこれに次ぐ』
(出典は、岩波新書同上シリーズ第5巻「満州事変から日中戦争へ」99頁。著者は加藤陽子・東京大学大学院人文社会系研究科教授)

 
 以降1931年の満州事変から、そのリットン調査団報告採択に国連総会で唯一反対して33年日本の国連脱退と続きますが、これ以降の日本は国際法違反の確信犯になっていきます。太平洋戦争は、東京裁判においてこの満州事変の時期から裁かれたのです。国際法違反の確信犯になった時期から裁かれるのは、理の当然というものでしょう。

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