蔵書を古本屋に売るために、ダンボール詰をやっているとき、大正元年から昭和47年までの朝日新聞縮刷版を持っているのに気づいた。このブログの投稿に利用しようと思って、売却することをあきらめた。
この縮刷版のなかから面白そうな記事、同じ月日の記事などをアトランダムに選んで連載していこうと思っている。その第一弾がこれである。
昭和20年2月17日
「敵有力機動部隊近海に出現」
「関東、静岡各飛行場を艦載機波状攻撃」
「延べ千機以上で来襲 硫黄島に上陸を企図か」
東京の初空襲は昭和17年年4月18日のことであった。航空母艦に搭載された陸軍の軽量化した戦略爆撃機B25が東京などを爆撃し、そのまま中国大陸まで飛び着陸したのだ。サイパン陥落後、その空港から飛来したB29によるいわゆる「東京大空襲」が、昭和20年の3月10日と5月25日にあったが、この艦載機による空襲は2月17日のことであった。
記事の一部を引用する。「敵機動部隊はまだ本土近海を遊弋中であり17日も引続きその来襲がある事を覚悟しなければならぬ。敵は一部に宣伝ビラを散布した。その内容は勿論取るに足らぬ荒唐無稽なものであるが、戦局の進展と共に今後も電波などによって各種の宣伝戦を活発に挑んで来る。‥‥この種宣伝ビラを拾った者は必ず警察の係官に届けられたし」
この縮刷版のなかから面白そうな記事、同じ月日の記事などをアトランダムに選んで連載していこうと思っている。その第一弾がこれである。
昭和20年2月17日
「敵有力機動部隊近海に出現」
「関東、静岡各飛行場を艦載機波状攻撃」
「延べ千機以上で来襲 硫黄島に上陸を企図か」
東京の初空襲は昭和17年年4月18日のことであった。航空母艦に搭載された陸軍の軽量化した戦略爆撃機B25が東京などを爆撃し、そのまま中国大陸まで飛び着陸したのだ。サイパン陥落後、その空港から飛来したB29によるいわゆる「東京大空襲」が、昭和20年の3月10日と5月25日にあったが、この艦載機による空襲は2月17日のことであった。
記事の一部を引用する。「敵機動部隊はまだ本土近海を遊弋中であり17日も引続きその来襲がある事を覚悟しなければならぬ。敵は一部に宣伝ビラを散布した。その内容は勿論取るに足らぬ荒唐無稽なものであるが、戦局の進展と共に今後も電波などによって各種の宣伝戦を活発に挑んで来る。‥‥この種宣伝ビラを拾った者は必ず警察の係官に届けられたし」
「沖縄タイムス」の昨日の記事から
2007年2月17日(土) 夕刊 5面
「ついに来てしまった」/強行に住民ら怒り
【嘉手納】“最新鋭”を誇る米空軍のステルス戦闘機F22Aラプター二機が十七日正午すぎ、地元の反対を押し切って嘉手納基地に着陸した。地域住民は「負担軽減に逆行している」と一斉に反発。長年、同基地の騒音に悩まされてきた新嘉手納爆音訴訟団は「道の駅かでな」に街宣カーを繰り出し、「住民の我慢は限界にきている」と怒りの声を上げた。
「とうとう来てしまった」。F22の飛来を目撃した、道の駅かでなの売店で働く南純子さん(68)=嘉手納町南区=は「米軍再編は住民の負担軽減を訴えているが、嘉手納は強化が進む一方。なぜ嘉手納にばかり負担を押し付けるのか」と怒りをあらわにした。
同基地に隣接する嘉手納町東区の島袋敏雄自治会長(62)は「最新鋭の戦闘機やその要員が配備されることで、事件・事故の危険性は高まる。日米両政府は地元住民の不安の声をしっかりと受け止めてほしい」と話した。
街宣カーの壇上で抗議の声を上げた新嘉手納爆音訴訟団の仲村清勇団長(69)は「やりたい放題の米軍に、住民の怒りは限界にきている。これ以上の負担は絶対に許せない」と訴えた。
「『基地縮小』、『負担軽減』という言葉の意味が分かっているのか」。嘉手納基地からの騒音に日々、悩まされる北谷町砂辺区の松田正二自治会長は怒りをぶちまけた。「われわれはいつも裏切られてばかり。日米両政府で決めたことは、嘉手納基地の負担軽減だったはず。しかし、現実は誰の目から見ても強化でしかない。不信感でいっぱいだ」と吐き捨てるように言った。
嘉手納基地の北側に位置する沖縄市白川の黙認耕作地では、朝から畑にくわを入れる姿が見られた。F22が飛来する様子を真下から見た男性は、「意外と静か。でもここで働く人は皆耳が遠くなっているから、そのせいかもしれない」と苦笑する。
※ 「米機動隊の襲来」と「米最新ステルス戦闘機の沖縄配備」の二つの記事。
これが、65年の日本の歴史を物語っていないでしょうか。
これはお宝だ。
その時代の空気を知るためにもとても貴重ですね。
今、中日新聞が朝刊に「政暦」というコラムを載せていて同日の戦後政治事件を書いています。
それでも、とても懐かしいのだから、千里眼さんの
「日本の歩み・・今月・今夜」楽しみにしています。
父は名古屋で新聞記者をしていて、
現在の名古屋大学病院の屋上から
見物していたと言っていました。
そのあと、大空襲が来るなどとは
誰も真剣に考えていなかったようです。