九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

1970さんへのお返事、お待たせしました。  らくせき

2013年06月27日 16時29分01秒 | Weblog
論点は政治とスポーツです。

たしかにスポーツは楽しい。人間関係も豊かになります。
TV観戦など、応援も含めて勝てば盛り上がり志気の高揚に役立ちます。
このために政治にも、よく利用されます。
国民栄誉賞なども、そうですよね。
この政治に利用されないようにするには、どうしたら良いのか?

スポーツは人間の「自由」を尊重する文化では?というのが私の考えです。

人間の自由を大切にするということが、スポーツが持っている大切な要素だとしたら、
自由を侵す政治からは自由であるほうが良い。

これがスポーツ楽しむ土台にあってほしいと思います。
では、この考え方はスポーツ自身が持っているものでしょうか?

残念ながらこれまでの歴史の答えはNOのようです。

では、この自由を保障するものはなにか?やはり政治が保障するしかないのでは?

つまり憲法が保障する必要があるようです。
では、どういう憲法がこれを保障できるのか?
人間の自由を保障する憲法ですね。

government of the people, by the people, for the people
リンカーンの言葉で言う「人民の、人民による、人民のための政治」でしょう。

現在の日本国憲法は、この精神にそったものです。こう言っています。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、
その権威は国民に由来し、
その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

リンカーンの精神はフランス革命に由来し、
日本国憲法もフランスの人民が流した血の生み出したものでしょう。

ちょっと強引に言ってしまえば、主権在民の憲法があってこそ
スポーツを自由に楽しめるということでしょう。

現在、自民党が目指す改憲は、この方向を逆転させるものです。
国家・天皇に主権を持たせようというもの。

この考えからはスポーツが国家に奉仕するものという考えが出てきそうです。

私のなかでは憲法とサッカーはある意味で同じ地平線上にあります。

ただ、問題はこんなに単純ではありません。

ナチス政権下で活躍した指揮者、フルトベングラーは、
ナチに協力したことを詰問するトスカニーニに対して、こう答えているそうです。

あなたは芸術をたまたま政権を握った政府のための宣伝、
つまりその飾り物に過ぎないとおっしゃるのですね。
ナチ政府が勢力を占めれば、私は指揮者としてもナチであり、
共産主義の下では共産主義者、デモクラシーの下では民主主義者となるわけですか?
いいえ、絶対そうではありません。芸術はこれらのものとは別の世界に存在するものです。

フルトベングラーは、非ナチ化裁判にかけられましたが、無罪になっています。
スポーツと音楽では少し違いますが、おおざっぱな点はお許しください。
これを、かなり粗雑な考えですが、お答えとします。


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ザックジャパン(92) 「選手固定批判」を批判する   文科系

2013年06月27日 15時48分48秒 | スポーツ
 ザックの「選手、レギュラー固定」をば、日本中のサッカーライターが批判してやまない。この擁護などありようがないという雰囲気もある。一方では、層が薄いままだと。他方では、闘莉王、阿部、佐藤など良い選手はいっぱいいるではないかとも。これに対して、以下のような考え方は出来ないものだろうかと、そんな批判をしてみたい。
①予選通過、コンフェデ終了まではこのやり方を通し、これから手直しするつもりだったのだ。その心は、なによりもこういうことである。
②イタリア・クラブの指揮経験しかないザックは、代表チームに無知であるとの自覚を十分過ぎるほど持っていたはずだ。代表合同練習の短さのなかでなにができるのかとか、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」というその敵・各国代表についても。
③そこでまず、少数メンバーによる日本チームを一定まで鍛えつつ、「その一本の物差し」でもってコンフェデまでは世界の様子を見ようというやり方を取ったのではないか。固定メンバーは、位置取りでも50センチ刻みの細かい指示さえあるザックの得意なところではあるが、それ以上に大きいその意味が敵・各国代表というものを知る一定基準、物差しだったと。
④以上には、こんな方針、戦略も含まれていたはずだ。「日本人はどこまでやったら、どれぐらい伸びるか」。それを知るにも、限定した人間でやった方が良く分かると。つまり、個性とか才能よりも、己が日本人を鍛えるやり方の究明の方を取ったのである。

 さて、これに対して人はこう言うだろう。あと1年は短い、もう何が出来るかと。そういう人に限って、ザックがなした以下のような手腕、業績をすっかり忘れているのだ。これを、上の議論の中で思い出しさえもしないのだ。例えば、就任直後アルゼンチンに勝利した前後の事情をごらん願おう。

【「日本サッカー・希望の星」と、ザック監督など(15) 文科系 2010年10月14日 随筆 「ザックにときめいている」
 日韓戦が終わって、僕はもうザックにときめきっぱなしだ。この4日に初めてあずかったチームで、8日にアルゼンチンに勝ち、12日には韓国と引き分けた。この結果の見事さは言うまでもないが、それよりも何よりも、そこからうかがえた彼の才能の煌めきをこう解釈して、1人でうなっている。結論を書けば、こんな表現になるだろう。
『ザックがイタリアで名をはせたのは本来、なによりもこういうこと。選手を育てながらチーム力を長期にじっくり積み上げていき、やがて大きく熟成させていくタイプの良い監督として。そういう人物が、こんな短期に、こんなに大きな結果を出したことが、先ず驚くべきことだと見ている。しかも、イタリア以外を指揮したことがないはずの彼が、文化も何もかも異なった遠いアジアのこの国において。こういう出来事は、サッカー界でも極めて珍しいものではないか。人として並々ならぬ才能、賢さを感じずにはいられないのである』
 つまり、大局も応急手当も両方ともを見ることができて、なおかつ短期速成の教育実践にも大成功してしまう人物。そんな人間は滅多にいるものではないと、組織運営になれた人ならば誰でもが気付くことだろう。僕は頭をひねってさえいる。(以下略) 】

 以上は、ザック来日直後の「事件」であった。南ア大会岡田武史監督が追及しつつ土壇場になって諦めた戦略を、ほんのちょっとした手直しで仕上げて見せたのである。岡田の「理想」は全員攻撃全員防御のハイプレス・パスサッカー。ザックは岡田が果たせなかったこの戦略をそのまま取り入れ、当時は最初たった二つの手直しだけを施して見せた。
①まず、守備の手直しはこういうもの。ワントップが敵ボールを左右どちらかのサイドに追い込み、追い込んだ選手以外で敵ボールのパスコースをふさぎ、ボールを奪い取る。このやり方では、中盤以後の選手にはボールへの正対や位置取りなど非常に細かい指示がなされている。
②攻撃は、味方のワントップとサイド選手とで敵陣に深さと広さを作らせ、縦パスとサイド攻撃から、縦に速く攻める手直しをした。

 さて、結びである。ザックはこんな風に考え、計画してきたのではないか。彼我を十分に知りつつ一定の「世界基準」というものを認識し確立してしまえば、その後はディテールの問題であって、その手直しなどいくらでもできると、そんな自信を持っているのではないか。チームとして一つの基準がある中では、1人の新レギュラーを新たに育てる事など簡単なことだとさえも。

 こんなザックである。彼の予想外に腰の引けたコンフェデの闘いさえ、大きな計算外ではなかったと思う。何せ相手は、世界の8、17、22位に対して我が代表は32位。イタリア戦を観ても、世界の物差しぐらいは十分に出来たと言えるだろう。その物差しから観た現下最大の壁はこれ、腰の引けない守備である。腰が引けてさえ居なければ、小さなミスも失点には繋がらず、怖いのは鋭いカウンターだけだ。そこで、抜群に脚の速いDF、ボランチを入れるかも知れない。オシムが日本に最も求め続けてきたものである。

 さて、こういう見方を実質十分に支持するものとして、(マスコミの作為的で執拗な「カズ」連呼にうんざりしている僕にとって)ナカタヒデのこんな声が嬉しい。
【 中田氏が分析、W杯でブラジル&伊に勝てる!  サンケイスポーツ 6月27日(木)
 コンフェデ杯で日本のブラジル、イタリア戦を観戦した元日本代表の中田英寿氏が、「手の届かない相手ではなかった」と、来年のW杯では両国に十分勝てるとの見解を示した。27日発売のスポーツ誌「Number」に話したもの。中田氏は「お互いが遠慮している」とMF本田とMF香川の連係向上を求め、「決して個々が劣っているとは思わない」「彼らならできる」と期待した。】
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復活、「規制の虜」(1) 原子力規制委員会を監督強化??  文科系

2013年06月27日 01時20分45秒 | 国内政治・経済・社会問題
 このブログで僕は「(原子力)保安院の大罪」と銘打ったシリーズを90回以上も書いてきた。11年6月4日の第1回から、確か12年11月20日の第93回まで。我ながら良くやってきたものと感慨も深いが、この原稿ほとんどが中日新聞の良心的記事に負うところが大きかった。この中日新聞と、兄弟関係にあるらしい東京新聞とは読めない地域も多いところから、その記事を全国的に発信するというそんな意図もあった。
 さて、フクシマに関する中日新聞の追及は今現在も執拗に続いている。中部地方の財界などが中央の支配勢力と利害がいくらか違っているのかも知れないなどと思ったりしてきたほどだ。例えば、中央は金融ゲーム勢力が完全支配しているが、東海地方はこれと比べれば健全な物作りの伝統がまだ残っているのかも知れないなどと。

 国論を二分したフクシマ事故。二分どころか、あれは確かに、ちょっと条件が付けば「原発なくせ9割」という方向だった。ところが総選挙でできた強大な自民党一党支配第一院体制になって以降、執拗なフクシマもみ消し工作が始まっている。本日の中日新聞第2面でも『自民議連「規制委への監督強化」 再稼働目指し国会に提言』とあった。国会に特別委員会を作って、規制委に対する監督を強化する提言、法律化を行おうというのだ。監督強化の中身はと観れば、事業者や自治体の意見をもっと聞くようにということとある。恐ろしいことだ。
 そもそも、原子力規制委員会とは何のために作られたものか。第一に、規制する各省庁が規制される事業者などに骨抜きにされて事故が起こったとの反省から生まれた「大国家機関」だったはずだ。第二に、各省庁からも独立した、強大な権限を与えられた委員会のはずだった。それを今は、国会がこの規制委に対して、事業者や自治体の意見をもっと聞くようにと監督強化だと!? 馬鹿も休み休み言え。規制委を作った時には、議院内閣制を土台とした内閣でさえこれにはなかなか手が出せないような組織にすると、そんな説明があったではないか。事故直後には、菅直人首相が干渉しすぎて保安院の機能さえ果たせなかったなどとの架空的大宣伝もなされつつ、非難囂々だったではないか。それが今はまた事業者や自治体の意見をもっと聞くようにと自民党中心の国会が監督強化だと!? 民主党政権の時は悪いことが、自民党政権になるとすべて良いことに変わるらしい。
 なお、原子力規制委員会設置法案については12年6月16日の、その人事については同年10月29日の、各々拙稿エントリーでまとめてある。

 さて、国民にあれだけ嫌われた原発を、たった一回の衆院選挙に大勝利しただけで、どうしてここまで復活・強行出来るのだろう。僕にはこれが不思議でたまらない。すると、これと同類のやり口について、多くの既視感があったと気づく。長良川河口堰、諫早湾干拓、八ッ場ダムなどなど、いったん官僚達が作った青写真、大計画は、国民がどれだけ大きく抵抗しても、結局日本では独立独歩を続けてきたのではなかったか!この独立独歩は、以下のようにうそぶいているごとくではなかったか。「どうせ国民は、トロイ。今の自分らのことしか考えていない」、「対して我々官僚だけが、長期的・国家的な青写真を描けるのだよ」。「よって、やがて国民はエゴに戻るさ」。こういうやり口、理屈で進められた国家的大計画すべての内実は、官僚たちの仕事とポストを自己増殖させること、これであったように見える。これはまたいつもいつも、事業者たちに官僚が逆規制される道でもあった。
 原発行政、原子力規制委員会、フクシマの事故処理でさえも、今また「規制の虜」に戻ろうとしている。
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