論点は政治とスポーツです。
たしかにスポーツは楽しい。人間関係も豊かになります。
TV観戦など、応援も含めて勝てば盛り上がり志気の高揚に役立ちます。
このために政治にも、よく利用されます。
国民栄誉賞なども、そうですよね。
この政治に利用されないようにするには、どうしたら良いのか?
スポーツは人間の「自由」を尊重する文化では?というのが私の考えです。
人間の自由を大切にするということが、スポーツが持っている大切な要素だとしたら、
自由を侵す政治からは自由であるほうが良い。
これがスポーツ楽しむ土台にあってほしいと思います。
では、この考え方はスポーツ自身が持っているものでしょうか?
残念ながらこれまでの歴史の答えはNOのようです。
では、この自由を保障するものはなにか?やはり政治が保障するしかないのでは?
つまり憲法が保障する必要があるようです。
では、どういう憲法がこれを保障できるのか?
人間の自由を保障する憲法ですね。
government of the people, by the people, for the people
リンカーンの言葉で言う「人民の、人民による、人民のための政治」でしょう。
現在の日本国憲法は、この精神にそったものです。こう言っています。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、
その権威は国民に由来し、
その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。
リンカーンの精神はフランス革命に由来し、
日本国憲法もフランスの人民が流した血の生み出したものでしょう。
ちょっと強引に言ってしまえば、主権在民の憲法があってこそ
スポーツを自由に楽しめるということでしょう。
現在、自民党が目指す改憲は、この方向を逆転させるものです。
国家・天皇に主権を持たせようというもの。
この考えからはスポーツが国家に奉仕するものという考えが出てきそうです。
私のなかでは憲法とサッカーはある意味で同じ地平線上にあります。
ただ、問題はこんなに単純ではありません。
ナチス政権下で活躍した指揮者、フルトベングラーは、
ナチに協力したことを詰問するトスカニーニに対して、こう答えているそうです。
あなたは芸術をたまたま政権を握った政府のための宣伝、
つまりその飾り物に過ぎないとおっしゃるのですね。
ナチ政府が勢力を占めれば、私は指揮者としてもナチであり、
共産主義の下では共産主義者、デモクラシーの下では民主主義者となるわけですか?
いいえ、絶対そうではありません。芸術はこれらのものとは別の世界に存在するものです。
フルトベングラーは、非ナチ化裁判にかけられましたが、無罪になっています。
スポーツと音楽では少し違いますが、おおざっぱな点はお許しください。
これを、かなり粗雑な考えですが、お答えとします。
たしかにスポーツは楽しい。人間関係も豊かになります。
TV観戦など、応援も含めて勝てば盛り上がり志気の高揚に役立ちます。
このために政治にも、よく利用されます。
国民栄誉賞なども、そうですよね。
この政治に利用されないようにするには、どうしたら良いのか?
スポーツは人間の「自由」を尊重する文化では?というのが私の考えです。
人間の自由を大切にするということが、スポーツが持っている大切な要素だとしたら、
自由を侵す政治からは自由であるほうが良い。
これがスポーツ楽しむ土台にあってほしいと思います。
では、この考え方はスポーツ自身が持っているものでしょうか?
残念ながらこれまでの歴史の答えはNOのようです。
では、この自由を保障するものはなにか?やはり政治が保障するしかないのでは?
つまり憲法が保障する必要があるようです。
では、どういう憲法がこれを保障できるのか?
人間の自由を保障する憲法ですね。
government of the people, by the people, for the people
リンカーンの言葉で言う「人民の、人民による、人民のための政治」でしょう。
現在の日本国憲法は、この精神にそったものです。こう言っています。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、
その権威は国民に由来し、
その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。
リンカーンの精神はフランス革命に由来し、
日本国憲法もフランスの人民が流した血の生み出したものでしょう。
ちょっと強引に言ってしまえば、主権在民の憲法があってこそ
スポーツを自由に楽しめるということでしょう。
現在、自民党が目指す改憲は、この方向を逆転させるものです。
国家・天皇に主権を持たせようというもの。
この考えからはスポーツが国家に奉仕するものという考えが出てきそうです。
私のなかでは憲法とサッカーはある意味で同じ地平線上にあります。
ただ、問題はこんなに単純ではありません。
ナチス政権下で活躍した指揮者、フルトベングラーは、
ナチに協力したことを詰問するトスカニーニに対して、こう答えているそうです。
あなたは芸術をたまたま政権を握った政府のための宣伝、
つまりその飾り物に過ぎないとおっしゃるのですね。
ナチ政府が勢力を占めれば、私は指揮者としてもナチであり、
共産主義の下では共産主義者、デモクラシーの下では民主主義者となるわけですか?
いいえ、絶対そうではありません。芸術はこれらのものとは別の世界に存在するものです。
フルトベングラーは、非ナチ化裁判にかけられましたが、無罪になっています。
スポーツと音楽では少し違いますが、おおざっぱな点はお許しください。
これを、かなり粗雑な考えですが、お答えとします。