松美の言絵(いえ)

私は誤解されるのが好きだ。言い訳する手間が省けるから。

金足村と追分

2018-09-23 07:09:35 | 日記・エッセイ・コラム

 ここ追分は歴史的にはとても新しい。私の親がここに来たのが昭和20年代。秋田のベッドタウンとして、今でも7号線から海側の潟上市追分は宅地化が進んでいる。
 多分男鹿線(船川線)が開通した昭和5年ごろから、鉄道の分岐でもある追分に周囲の人々が集まって来たのではないだろうか。

 それ以前は江戸時代後期の旅行家・菅江真澄の絵にもある通り、何もない砂丘地帯だった。

 一方で金足村は古い。土着の村人は縄文まで遡るだろう。そこに一つの大きな流れとして弘治年間(1555年)に大和国小泉村から奈良家がやってきた。最初に住み着いたのは、吉田君の潟上市だった。潟上市豊川から一山超えて金足村へ入り、辺りを開墾した。その一族の当主が、博物館分館の旧奈良家住宅だ。

 金足村は秋田市の北のはずれとして合併するが、元は南秋田郡として潟上市や井川町と一緒の扱いだった。つまり金足農業ナインの重要メンバーは学校周辺で育った人間なのだ。

 ところが追分では秋田北中が入ってないではないかと、駄々をこねるひねくれものがたまに居る。確かに卒業生がメンバーに居ない。それは寂しいことだ。ヤクルトの石川を輩出した強豪・北中が居ないのは寂しい。でもそれは贅沢と言うもんでしょう。

 今でもそういう議論がされるほど、後遺症は深く浸透しているのです。これは金農ロスとは言わない。あの熱は静かに、夜の街では続いている。

コメント
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