アイソン彗星を見るため、ここ1週間の間の気象状況を予想しながら
夜明け前から空を眺めていました。1日目が一番、条件が良かったです。
水星と思われる星が水平線上に明るく輝いていました。その右上に何か
ぼやっとしたものが、あるような気がしました。カメラで撮れるような
生易しい被写体ではありませんでした。1997年の冬、見たヘール・ボップ彗星
に比べたら(比べたら気の毒ですが)屁みたいなものでした。
と、今なら思います。酒飲んで帰ってきた夜でした。空気がカチッとした、冷えた、
星がたくさん見える夜でした。それは思わず後ずさりするほど、圧倒的な迫力でした。
彗星の核はやや横より上に見えるものの、そこから広がる尾は夜空の半分、
天頂に至るまで、識別できました。これほど大きいとは、怖くなるくらいでした。
時代も世紀末、これでカルト信者が集団自殺したと聞きます。空を見上げる余裕が
ない程、忙しかったのかも知れませんが、あの時1回しか記憶がありません。
あの彗星はとても珍しい星で、あと100回生まれ変わっても、見れないかも
知れません。何しろ、一晩中肉眼で見える日が、1年半も続いたのです。
北国では冬の間は稀にしか星空は見れないから、それで記憶に薄いのかも
知れませんが、実に、実に、もったいないことをして過ごしたものだと
思います。
しかし、いつも見えると言うことは、当たり前になってしまうわけで、
毎日が当たり前になってしまう事は、こんなに恐ろしいことなのか、と
思わずにはいられません。今日でもそういう事は、実にさりげなく、
起こっているのだと思います。
沖縄米軍への思いやり予算だとか、中国というドブに捨てたODAだとか、
温暖化はシーオーツーのせいだという前提のもとに、まじめに議論されている
COP19だとか・・・。