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日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

為になるかも知れない本(その299-1)

2008-03-09 12:23:59 | Weblog
(昭和63年12月号の西田病院月報に記載)

 今からしたことは多い。時間と体力とお金が許す限りいろんな事を経験してみたい。過去を振り返ってみても、もっと真剣にしとけばよかったと思う事、無駄だったと思う事、いろいろあった。その人その人で状況(年齢や場所や時間)に応じて新しく出来る事があると思う。
 西田病院に来て、結構いろいろとしてきたけど、しっかりとモノになった事、何があったかなあ。
 家を建てたこと、子どもが出来たこと、新生児・未熟児センターを創設したこと、西田病院に小児科を新設したこと、あとは・・・ない。
 今から、仕事の合間に、外国旅行、手話、陶芸、本出版、外国語など、いろいろな事に挑戦して行きたい。
 忙しいからしないといけない、忙しい人間ほどそれに釣り合うだけ遊ばないといけない。そうしないと、生きる上で、バランスが取れなくなると思っている。
 
 今年(昭和63年)の6月から、宮崎医科大学の○代慎○郎先生と二人で小児科をするようになってから、今までと違って心にゆとりが出来、お茶とヨガを始めた。ヨガは、水曜の(午後は、病院休み)14:00~16:00まで向島公民館で、お茶は木曜の18:00~20:00頃まで、鎌田宅で、パソコン(9月からの西田病院月報の原稿は、全てパソコンに打ち込んでいる)は、毎日打っている。現在ちゃんと先生に付いて教わっているのは、ヨガと英会話とお茶で、英会話はもう外国の人から3年半も教わっているのに、ちっとも進歩していない。その点、お茶は自分で進歩が目に見えるのでとても嬉しい。
 事務室の○田豊美さんからお茶をかなり前から勧められていたのだが、忙しくてその気にどうしてもなれなかった。しかし、お茶を姉が大学の時にしていたこともあって、お茶の面白さについてはよく耳にしていた。
 今年(昭和63年)の6月9日(木)に、教授で県の副幹事長をしておられる(息子さんは、昭和64年から県の青年部の部長)釜田宗百先生の門を勇気を出して叩いた。お茶のおの字も知らなかった自分が、習い始めてまる5カ月も経っていないのに、図々しくも11月3日(木)の文化の日に、皆の前で3回も薄茶席の亭主になってお点前をしてしまったのである。それも、修行寺として有名な養賢寺での栄えある裏千家青年部20周年記念茶会にである。
 自分が千歳棚薄茶点前をする事が決まってから本番まで少ししか日がなくて、自分の事を最も信頼していると思ってきていた妻でさえ、「今回は断って次の時にしたら、先生に恥をかかせるだけよ」と、何度も言われた。しかし、先生は自分の才能を認めてくれたのであろうか、「大丈夫、笑う人などお茶席では一人もいない。柄杓を落としたり、順番を間違えたり、ベテランでも棗を取る時に棗の蓋から下をバサッと落としたり、いろいろよ。心配は皆している。そんなこと気にしなくていい」と言って、励ました頂いた。
 本番の前日、もう一人(男性)の人と7回も、養賢寺での本番の場所で練習した。帰っても練習し、当日朝も行く前に家で練習した。しかし、何回しても失敗するのである。ちゃんと出来ていた所でさえも、する度ごとに自信がなくなってくるのである。それに、時々順番を間違えるなどの大きな失敗をし、自信らしい自信がどうしてもつかない状態になってしまっていた。

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為になるかも知れない本(その298)

2008-03-08 12:21:02 | Weblog
 娘の作文(お父さんファイトォ!)
 大分県佐伯に帰って来た時、子どもはまだ一人(長女)で、それもまだ1歳であった。宮医大にいた時も、夜12:00頃に帰り、朝の8:00までには病院に行き、祝・日曜も病院に行っていたので、その時に生まれた長女の起きた顔を見ることが少なく、おもつを換えたり、離乳食をあげたり、風呂に入れた思い出がない。
 西田病院に就職してからの最初の数カ年間というものは、深夜(それも3:00~6:00に)毎晩の様に家に電話が掛かってきて、その度毎に家族全員が起きていた。「子どもが親を見る目は冷蔵庫の氷よりも冷たい」と言われているが、その長女が(現在29歳、結婚後に、カイロプラクターになる為に、現在アメリカ大学院在学中)が自分をどう見ているかは、親である私にとっては最も今まで気にしていた事である。63年の5月(当時9歳)に書いているこの作文を見る限り、よく見ているなあと感心するより、親の価値観がそのまま子どもに行く感じがして、親の責任を感じないわけにはいかない。

 私のお父さんは、小児科医です。1日に90人~150人ぐらい、かんじゃさんが来ます。お父さんが行っている病院の小児科には、私のお父さん1人しかお医者さんがいません。たいへんです。
 お父さんは、朝、6時に起きて、6時20分に家を出ます。本当は、9時30分までに行けば良いのですが、早く行って、勉強をしています。夜も、8時に行きます。時々、真夜中によび出されることもあります。
 お父さんのしんさつは、とっても早いです。1人、1分~2分ぐらいです。
 早いのは、しんさつだけでなく、書くのもなんです。そのかわり、私には「と」も、「へ」も、読めません。お父さんも、後でカルテが読めないそうです・・・・・。
 お父さんは、帰るとたいてい、ソファーにねころがって「ミーちゃん(私のニックネーム)もうふもって来て!」と、言います。
 ねている間、とてもびんかんで、小さい小さい音でもすぐに目がさめます。ですから、どろぼうが入っても安心かな!?と思います。
 お父さんの好きなことは、三つ。これがないと、生きていけないそうです。一つはねること。「気持ち、いいんだもーん!」だそうです。
 二つめは、食べること。お父さん、どっちかって言うと、太ってるんです。ダイエットして、10キロほどへったのですが、やめてしまい、このごろいつも、「ミーちゃん、明日からまたダイエットすることにした!」と言うので、私もいつも、「いつもそう言ってるの、だ、あ、れぇ?」と言います。すると、お父さん、負けずに、「明日からぜったい!」と言ってしないのです。
 三つめは、音楽を聞くこと。真夜中、トイレに行くと、音楽がかかっていることがあります。この三つが、お父さんの好きなことです。
 それと、お父さんは、とても教育にきょうみがあります。そのことを、お客さんが来れば、つかまえて長々と話しています。時々講演もしています。今、「学校の先生になればヨカッタ!」と言っています。いつも、「学校のことだけすれば、じゅくなんか行かなくていいの!じゅぎょうをきちんと受ければいいの!」と、言ってくれるのです。
 お父さんが、やろうっ!と思ったことには、かならず終わりがあります。たとえば、星のこと。冬の六角形を知って、すごい!と思い、本をたくさん買って来て、勉強したのですが、今は・・・・やっていません。本で読んだことは、おぼえていますけどね・・・・。
 そして、これはいいことです!お父さんの病院の小児科に、もう一人、お医者さんが来るのです!あとわずか。早く6月になればいいのに!と思います。
 6月までガンバッテ!お父さん、ファ・イ・トォ!!
     (平成元年4月号の西田病院月報より)


*その後、2年間だけ、医大から小児科医が来て助かったが、再び一人となり、やむなく開業。開業も19床の入院設備を持ってした為に、採算が合わなくなって8年半でやむなく閉院。その後、再び勤務医となり、その間、趣味に没頭し、海外旅行の魅力も味わって今日に至っている。今後は、壊れた自分の体をいたわりながら、仕事量をセーブし、家内も大切にして、悔いなく過ごすつもりでいる。



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為になるかも知れない本(その297)

2008-03-08 12:14:47 | Weblog
 西田病院で研修した○○○○君は、卒業時に「フリートーク」と題する小雑誌を発行したが、その中での内容。

 誤 解
 世の中には、よく誤解されいる事がある。僕自身もよく誤解されたし、逆に誤解する事もあったように思う。だから、この話も誤解を恐れずに書く事にしたい。
 昭和59年4月、僕は鹿児島大学に入学した。僕の実家は種子島の中でもさらに田舎の方にあったし、両親とも大学を出ていないので、これはちょっとした事件だったようだ。ところが、入学するといろんな話を聞くようになった。
 鹿児島大学は国立である。また、国立大学はどの学部でも授業料や入学金は同じと定められている。つまり東大も鹿大もこの点では同じである。ところが、僕が入ったところが医学部だったため、僕の両親は私立大のような高い入学金を払っているものと誤解されていたらしい。
 また、医学部を出て医者になれば皆すぐにお金持ちになるという人がいるが、これも誤解だと思う。医者の未来は考えているほど甘くないとよく耳にするし、ある病院の研修医は3日に1回当直があり、毎日ほとんど寝る暇もんないくらい働いて、ボーナスもなくもちろんアルバイトもできない。
 「医学部に行って医者になるより公務員になった方が良かったのに」と、わざわざ助言してくれる人もいたが、これも誤解であろう。医者で公務員の人なんていっぱいいる。
 「お前なんか、医者になって手術が出来るものか」これも実際に僕がある人に言われたことだが、手術をやるだけが医者の仕事ではないはずだ。それにしてもずいぶんとひどい事を言うもんだ。
 「あと何年かたつと、もう口も聞いてくれなくなるんだなあ」これに至ってはなぜこんな事を言うのかさっぱりわからない。多分こんな人が昔いたのだろうが、まずありえないことだ。
 書いているうちに、だんだん腹が立ってきたのでここらでやめにしたい。くれぐれも誤解なさらないように。僕も気をつけます。


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ヒブ感染症

2008-03-07 08:48:50 | Weblog
 ヒブ感染症の対策が遅れている。ヘモフィルス-インフルエンザb型菌による感染症を、医療関係者の間では、その頭文字を取ってヒブ(Hib)とよく言っている。
 これが原因で、中耳炎や副鼻腔炎や喉頭蓋炎やクループや気管支炎や敗血症や髄膜炎の原因菌として、多くの小児科医を悩ませているありふれた菌である。
 同じく、中耳炎や副鼻腔炎や肺炎の原因として同じ様に見られる肺炎球菌も、同じ様な感じで小児科医を悩ませている。
 何故かと言えば、耐性菌が多く、耐性菌にも効くと思われる強い抗生物質を使用すると、いい菌も死んでしまって、免疫力が落ちるからだ。
 熱があったり咳がある場合は、抗生物質を処方するべきかどうか、処方するとしたら何を処方するべきか、絶対的な方法がないだけに、多くの小児科医は悩んでいる。
 1890年に、インフルエンザ患者さんから見つかった菌からその名前が付いたのであるが、実際は違っていたのだが、平成19年1月にフランス製の予防ワクチンがやっと承認され、今年の夏頃に発売される予定。
 年間約1000人発症する髄膜炎の原因菌として、その約6割をも占め、死亡したり後遺症を残したりする例が多いからだ。(細菌性髄膜炎の60.3%がインフルエンザ菌、31.1%が肺炎球菌)
 実際に鼻汁などで培養してみると、頻回に検出される。健康に過ごしている人にもかなりの割合でそれを(肺炎球菌と同じ様に)持っていると思われる。
 それが、いろんな原因で免疫力が低下したりすると、発病することになる。
 確かに、それに効く抗生物質は、その時はいいのだが、それによりいい菌も死んで、細菌同志のバランスが壊れて、免疫力が低下することが充分に考えられる。と言って、実際にそれに感染している場合、あげざるを得ないケースも多い。
 一番確実な方法は、ワクチン接種をし、耐性菌の問題などからも不必要な抗生物質を極力避け、免疫力を高める為に、規則正しい生活をし、早寝早起きを心掛け、気の持ち方や食事や運動や睡眠などにも気を配る必要があると思われるが、実践となると、今の時代ではなかなか難しいと思われる。
 取り敢えず、今している三種やMRワクチンの様に、無料にして、出来るだけ時期を早めてそのワクチンを実施することが必要と思われる。 ところで、現在、ヒブのワクチンが世界の100カ国以上で導入されている。先進国で導入の措置がとれていないのは、日本だけ。その導入により、脂肪や後遺症を大幅に減少させた上に、年間82億円が削減できると計算されているのに。
 髄膜炎の原因菌として一番多いインフルエンザ菌に次いで多い肺炎双球菌の小児用ワクチンも現在世界77ヶ国で使われている。これも承認されるまで何て、日本の官僚のコチコチの頭では、10年後かなあ。
 (医療機関は、経営上、このワクチン導入により、今以上に厳しくなるでしょう)

*インフルエンザ菌や肺炎球菌に対する耐性菌の割合、世界の中で日本が断トツ多い。中耳炎や副鼻腔炎の起因菌として、現在日本では、インフルエンザ菌と肺炎球菌で7割余を占めている。


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為になるかも知れない本(その296)

2008-03-07 08:36:49 | Weblog
 西田病院小児科研修記(その4)  M4(○○○○)
 「悪いことはいわないから小児科はやめときなさい。きついし採算は合わないし・・・」「母校に残れば、何の心配もいらないのに。大学を出るなんてどうかしている」
 周りの多くの人はそう言います。しかし、敢えて、専攻に小児科を選び、研修は大学以外の病院を選びました。
 卒業生の7割以上が母校に残る中で、この様な選択をしたのは10人ほどしかいません(小児科は2人)。
 今は期待と不安で毎日が過ぎています。研修医時代の2年間は文字通り地獄の日々でしょうが、西田病院で田原先生から小児科を学んだという自身と持って頑張るつもりです。
 最後に、西田病院の今後のご発展をお祈り致します。ありがとうございました。 

 追加:以下は、中部病院医誌1989より引用。
 病院実習を終えて  M4(○○○○、京大)
 救急に力を入れている病院は、病院のレベルが格段と上がると聞いていましたが、中部病院の様子を見学させていただいて実感としてそれがわかりました。
 突然患者が飛び込んで来て、医師の技能が問われる。そこには医師と患者の1対1の関係があるだけで、医師の権威も何もない。緊急を要する患者を前にして必然的に患者中心の医療になる。また、その医療を支える人々、医師、看護婦のみならず、検査や事務までを含めたシステムも患者中心のものに変化していかざるを得ない。患者を中心に、それぞれの人がそれぞれの役割分担をこなし、うまく回転している。そんな、ある意味ではComfortableな姿が中部病院にはあります。
 中部病院はどうしてこんなに学生に人気があり、Extern希望も多いのでしょうか。その理由の根底には、大学病院や大学の医局に組み込まれて硬直化している中・大病院の姿に満足しきれないものを感じているからではないでしょうか。それを満たす為に、私を含めて学生たちは中部病院を訪れ、それぞれに満足して、何かを学びとって帰っていく。こういう所から将来の日本の医療が育っていくような気がしてなりません。
 他の多くの病院と大きく質が異なっているといっても、個々の先生方は取り立てて特別なことをしているわけではありません。一つひとつのProcedureを基本に忠実に性格に行うだけです。これがまた当たり前のようで実に難しいものだと思います。
 例えば、私は呼吸器と感染症の部門を主に見学したのですが、起因菌に非常に厳しくこだわっていらっしゃる。また、抗生物質の選択にも多くの検討を加えていらっしゃる。こんなにも厳しく、しかも基本に忠実に従っていらっしゃる姿勢を、私は他の病院も含めて初めて見たような気がします。自分の今まで勉強してきた内容や姿勢のいい加減さを痛感しました。今後の勉強の方向がきって変わっていくことと思います。



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海外旅行

2008-03-06 12:38:05 | Weblog
 今までの海外旅行、15回。
1、1989/3/29~4/1。シンガポール(JTB)、家内と二人で。
2、1999/7/15~7/17。茶道関係者4人で韓国ジョイロード旅行。(この年の5月31日までをもって、たはら小児科医院での診療を終える)
3、1999/7/26~8/11。オーストラリア(シドニー宿泊、ブリスベーン宿泊、グランドストーン宿泊、ヘロン島宿泊)、長女と長男と、佐伯市の姉妹都市のグラッドストーンでの国際フェスティバルで篠笛・和太鼓演奏。(この年の9月末より、福岡県大川市高木病院の勤務医となる、東大小児科のスタッフと一緒に2年7カ月間一緒に仕事をする)
4、2000/10/18~10/24。カナダのトロントにある「日加文化会館」で、「鼓舞龍」の一員として、篠笛・和太鼓で海外演奏、ナイアガラ観光。
5、2001/5/18~5/20。韓国浦項市にて、茶道関係者14名で合流茶会をし、その時に篠笛・和太鼓演奏。
6、2001/9/20~9/25。韓国清州市にて、学校や施設で篠笛・和太鼓の演奏。独り旅行。
7、2003/12/5~12/11。アメリカのホノルル。佐伯市とホノルル市の友情都市調印式にて、篠笛演奏、パンチボールにて篠笛・和太鼓演奏。 佐伯市民と。
8、2004/9/5~10/22。タイのチェンマイ、サンデーマーケットにて、路上で篠笛・和太鼓演奏。現地で30回ほど、タイ語の個人レッスンを受ける。独り旅行。(2004年の8月~2005年7月まで、完全なる無職、自分のかってからの夢を叶える為に、イスタンブールから出発の予定であったが、トルコ語を教わっていたAPUの学生さんの都合が付かなくなり、やむなく、タイ語を教わっていたAPUの学生さんの父親により、タイのチェンマイのゲストハウスを紹介されて、そこに宿泊)
9、2004/11/4~11/30。ニュージーランドのオークランドにて、フェスティバルや学校や施設で、30回余、篠笛・和太鼓演奏。独り旅行。
10、2004/12/9~12/28。韓国釜山市、大学と語学学校にてハングル語(猛?)勉強。独り旅行。
11、2005/1/22~2/8。バングラデシュのダッカで(ベンガル語を教わったAPUの学生さんの家で)ホームステイ、篠笛・和太鼓演奏。独り旅行。
12、2005/2/9~2/17。マレーシアのクアラルンプール(キャメロンハイランドで2泊)。独り旅行。
13、2005/3/1~3/31。インドネシアのバリ島(ウブドで2泊) 。独り旅行。
14、2005/4/18~5/18。イタリアのフィレンツェ(ローマ、シエナ、ピサを観光)で、イタリア語の語学学校で研修。独り旅行。
15、2005/6/11~7/31。カナダのバンクーバー(ヴィクトリアで2泊)とトロント(ナイアガラ観光、モントリオールで2泊、ケベックで2泊)の英語の語学学校で研修。独り旅行。
*APU(=アジア太平洋大学)に来ている外国の人から、ベンガル語、インドネシア語、タイ語、アラビア語、トルコ語を、英語で教わっていた。将来現地に行くつもりで。エジプトとトルコに1カ月以上ロングステイする予定であったが、まだ、実現してない。


 出来るだけ職場よりも遠くに行った方が、ストレスが取れる感じです。旅行の素晴らしさは、実体験することです。せっかく生きてきたのに、アチコチ行かないで終わるのは、何とももったいない感じがしています。行く前も行った時も行った後も楽しみましょう。
 旅行会社のスケジュールで行くよりも、自分なりのオリジナルの旅行をした方がいいと思います。お金も安いし、自由もききます。
 独りだと(配偶者や恋人同志で行くのもいいと思いますが)、いろんなトラブルがあります。しかし、それを楽しむ感じに思えれば、その後、きっといい思い出となるでしょう。
 最低限の言葉は大切です。「こんにちは」、「ありがとう」、「さようなら」が直ぐに現地の言葉で出てくることです。後は、時間を掛けて、「いくら?」と数の数え方の言い方を覚えて、電卓相手に買い物をしたり、「どこ」と言う言い方を覚えて、自分の二本の足を使って地図を片手にアチコチ行ってみるといいと思います。
 有給休暇を取りましょう。年間20日ちゃんと保証されている所が多いと思います(就職する前に、職場にしっかり確認してもらっておくことです)。そんなにある訳ですから、しようと思えば、海外旅行は出来るはずです。遊ぶことは、決して無駄ではありません。エネルギーの源です。仕事を人一倍している人は、人一倍遊ぶべきです。今の私は、堅くそう信じています。

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為になるかも知れない本(その295)

2008-03-06 10:03:20 | Weblog
 西田病院小児科研修記(その3)  M4(○○○○)
 早いもので、私が初めて西田病院を訪れてから一年が過ぎ、今回三度目の研修となりました。三回の研修日数の総計は約二週間となります。この間、田原先生をはじめ、西田病院小児科のスタッフの皆さんには大変お世話になりました。
 私は今卒業を控えて、自分の進路を決めるべく各地の病院の見学を行っています。ここに来る前にも救急医療で有名な沖縄県立中部病院で二週間勉強してきました。そしてこの沖縄県立中部病院が私の第一志望の研修病院となりました。それともう一つ、私の志望する科は小児科です。一年前の私は、大学のある内科の先生に憧れ、その先生のもとで血液凝固の研究をするか、基礎の学者になるかと迷っていました。ところが、田原先生を知り、西田病院に来てから、私は小児科をやりたいと思うようになりました。なぜ私は小児科を選んだのか、それは田原先生がたまたま小児科医であったからだと思います(なんと単純な!しかし人生とは案外そんな事で方向が変わるのかも知れません。)
 それと最近考えている事があります。私のように病院まわりをしていてはたして力が付くのかどうか。その間に国家試験用の問題集でもやっていた方が能率的ではないのか?その答えはすぐには出ませんが、このような事がありました。
*成績は同程度のA君とB君。A君は主に本で勉強し、B君は病院見学をよくしていた。
(その1)
教授:(子どもの体の白い斑点を指さし)これは何ですか?
A君:尋常性白斑です。
B君:水痘のあとです。
(その2)
教授:心臓の音の所見は?(同じ人で)
A君:雑音なしです。
B君:収縮期雑音があります。
(その3)
教授:外来で出来る心臓の検査をあげなさい。
A君:心臓カテーテル検査・・・
B君:心電図、胸写、エコー・・・
 自分のやっている事が正しいと言うつもりはありませんが、面白いと思われた例をあげてみました。
 最後に鹿児島大学の学生を何度も快く引き受けて下さいました西田病院の皆様に厚く御礼申し上げます。
                     平成元年8月9日



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為になるかも知れない本(その294)

2008-03-06 08:08:13 | Weblog
西田病院小児科研修記(その2)
 M3(○○○○)
  春休みが来ました。鹿大の専門三年生の場合、春休みは人によって天と地の差があります。昨年の九月の試験に全勝していれば進級決定ですが、大多数の人は追試の嵐と戦わなければなりません。かくいう私も追試三つを抱えることになりました。このような追試の合間をぬって春期の病院研修計画を立てました。やはり、夏休みにお世話になった西田病院に行きたいと考え、3月13日~3月16日のスケジュールを組んでもらいました。というのも、前回の研修の後に、殊小児科においては飛躍的に力が付いたと思ったからです。この事は小児科の(大学の)臨床実習でよくわかりました。この点、小児科部長の田原先生はじめ西田病院のスタッフの皆さんに心から感謝しています。唯、まだまだパワー不足に加え、生来ののんびりした性格(生まれが南方系ですので)の為、数多くの与えられた機会をつぶしてしまったような気がします。例えば、病棟の患児の見方、処置の仕方、エコーの勉強などです。今後の大学内外における勉強の際に反省として生かしていこうと思います。
 また、西田病院全体としての症例の多さ、豊富さや、救急をしているとう言う点などを考えても若手の研修医にとっては非常に良い研修施設となるのではないかと思います。最後に田原先生、小児科の皆さん、そして西田病院全体の益々の御活躍をお祈り申し上げます。本当にありがとうございました。
 平成元年3月16日

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それが正解かな・・・

2008-03-05 18:54:35 | Weblog
 次女と長男の二人の子どもを見ていると、自分と全く違った価値観で生きている感じだ。自分の場合は、人間の限界の様に、受験の時から競争の中でもまれ、職場に入っても、朝早くから遅くまで馬車馬の如くに仕事をしてきた。それもストレスを抱え、運動不足で、イライラしながら。
 笑わない、話さない、直ぐ怒るって感じの医者のイメージの時代が長く続いた。その結果、中性脂肪やLDLが上がり、心電図にも異常が見られ、血圧も薬なしではコントロールが出来ない状態となり、体ボロボロって感じになってしまって、もう、壊れた体は元に戻れない。周りにも仕事のし過ぎで亡くなってしまった同業者を沢山見てきた。
 一方、二人の子どもは、(正職員でなくて)仕事は安月給でその日暮らしみたいな感じだが、生きる上で趣味(次女はバイオリン、長男(高卒)はギター)が楽しくてしょうがない感じで、人と競争することなく、毎日(友達と一緒に時々演奏していて)楽しそうに過ごしているし、ニコニコして周りからも好かれ、友達も多く、とても幸せそうだ。これが生き方としては正解かなあとも思う。
 医者がイライラしていれば、患者さんはホントに不幸だと思う。その時は、一生懸命にしてきた様に思ってきた自分の医療が、実際は、患者さんをかえって悪くしていた例も多かったのではと思っている。自分の難しい顔が免疫力を落とす様に働いたのではないか、不必要な抗生物質で耐性菌を作ってきたのではないか、検査をし過ぎていたのではないか、不必要な入院をさせたのではないか、医療費で生活を苦しくさせたのではないかなどと思って、自責の念に駆られています。

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為になるかも知れない本(その293)

2008-03-05 08:38:35 | Weblog
 以下は、西田病院に勉強に来た医学生の手紙の内容。彼は、無事国試卒後に沖縄県立中部病院に行き、初めの1年間のラウンドを終えた後に小児科で研修。

 西田病院小児科研修記(その1)
 M3(○○○○)
 専門3年になって、実際に医療の現場を見たいという希望から、夏休みに向けての計画を練り始めたのが4月であった。手始めにいろいろな先輩に話を聞いたり、研修病院の本を広げたりもして自分の希望と予算の事などを考えた。その結果「続・為になるかも知れない本」という本で知った、田原正英先生のいる西田病院小児科で、一週間の自習が受けられることになった。
 鹿児島出発の日、時間を間違えて予定より二時間ほど後の汽車で無事大分県佐伯市に到着した。佐伯駅からタクシーで10分位行くと西田病院に着いた。病院の前の店で電話して着いた事を知らせると、しばらくして田原先生が現れた。私の見た第一印象は、思っていたよりもやせた先生だということだった。
 その後小児科部長室に案内され、一週間の計画表を渡され、簡単な説明の後、早速外来見学が始まった。既に数名の子どもが診察を待っていた。ホットする暇もなく次々と診察しながらの医学講義が始まった。それに、患者さんが実に多い。聞けば先生がこの病院に来た当初は一日に10人くらいしか患者さんが来なかったそうである(それまでは西田病院には小児科はなかった)。それが今では1日100人ぐらいは普通になっている。
 さて、一週間の実習の中で特に肺の聴診の仕方と心エコーについて学ぶことになった。それまでが不勉強だったせいもあって、先生の考えておられた到達目標におよそ届かなかったが、鹿児島に戻ってから、小児科や循環器に対しての苦手意識がかなりなくなっていたのには自分でも驚いた。また勉強の仕方としては、小児科部長室にあるビデオを使って概略を掴んで、その後で実際の検査を見学されてもらった。今は医学教育用のビデオがかなり作られていて、ここの病院では、医師や看護婦さんの教育に利用しているそうである。実際、田原先生自身外来の合間をぬってビデオで勉強されていた。
 また、診察時間が朝7時半から始まるというのも初めてのことだった(ここでは、小児科と外科は、朝7時半より外来が始まる)。私は朝7時に小児科に来て、夜10時頃に帰るという生活をしていた。今は、宮崎医大や大分医大から医師を派遣してもらって12時間交代でされているそうであるが、それまでは一人で小児科をされていたそうである。もともと西田病院は、救急患者に対する24時間体制をとってきた所であるが、田原先生もまた、ある時は、急患を診る為に外来に寝泊まりしていたこともあると言う。その上、新生児未熟児センターや入院患者の方も診ている。
 診察も早い。聴診器のあて方が何でそのスピードで判るのかなあというほど早いので、自分でやってみたところ、いくらやってもそんなに速くできなかった。「神風診療」と先生はおっしゃっていたが。と同時に看護婦さんがよくトレーニングされているという印象を受けた。
 そうこうしている内に予定の一週間はアッと言う間に過ぎ、帰る頃になって来る前にも少し勉強しておけばよかったと思った。そして、機会があれば、再び勉強に行きたいと思っている。

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