日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

為になるかも知れない本(その299-5)

2008-03-13 08:58:39 | Weblog
 つまり、3回目には、自分でもビックリするくらいに上手く出来たのである。しかし、それまでに相当な努力を強いられた。兎にも角にも、お茶の勉強も高校の英語の勉強法と同じだろうと思って、予習をした。何度も数冊ものお茶の本を読み、分からない所は練習の時にそこに来た時に先生に質問し、分かるまでしつこく聞き、遅くとも一つ一つ確実に覚えて自分のものにして行った。パソコンを使ってお茶の習得にフルに利用した。お点前の順番をパソコンに入れ、本に書いていないことでも先生に教わったことを帰って毎回それに打ち込み、自分なりにまとめて行った。教科書よりも先生を信じ切った。木曜の練習日に一度も休むことなく(遅刻もすることなく)、真剣に練習した。家にも風炉と釜を買って置き、病院の小児科部長室にも茶箱セットを置いて練習した。殆ど毎日。習い始めて3カ月も経たない頃は、家族旅行の時にも、学会に行く時でも、お茶の教科書を持って行って、汽車の中で頭の中で順番を思い浮かべなから練習をして、時間が過ぎるのを忘れる感じになっていた。
 他人が出来ることが自分に出来ない訳がないと言う強い信念を持ち、人以上に練習すれば絶対に上手になれると言う自己暗示を掛け、上手になった時に点てて喜ばれている自分を思い浮かべ、どうしてもそうなりたいと言う強い願望を抱いて、正にナポレオン・ヒルの成功哲学そのものの考え方を利用してお茶の世界にドッポリと入ってしまった。
 お茶会に一度も行ったことがない人間がいきなり皆の前でお点前をするのはいくらなんでも気が引けたので、その前の10月23日(日)に大分の「豊の国壮」であった観月茶会に出席していた。かなり緊張し、客になるのも疲れるなあとその時思った。しかし、養賢寺でのお茶会を無事終えて、その後、11月23日(日)の勤労感謝の日に別府の「豊泉壮」であったチャリティー茶会では、立礼席と薄茶席と濃茶席、いずれも次客の隣(三客)に座らせてもらったが、今度は少し自信が付いたのか上がらず楽しめた。
 お茶の上手な人には結構男性が多く、お茶は元々は男性のものであった。津久見の岩崎市長さんは茶人であるし、佐伯の佐々木市長さんも、自分が2回目にお点前をした時にお客になってくれたし、我が病院の西田院長にしても、客の作法を知っておられる。茶室では刀を置けば武士も平民も皆平等である。お茶の本質を知ってくると、人の上に立つ人はどうしてもお茶がしたくなる様であり、又そうあれべきだと思う(別に茶道でなくて、道の付くものや、禅などの精神修養になるべきものでありさえすればいいと思うが)。
 三船敏郎主演の千利休の映画を見たが、全て男性で、千利休が茶道の道を守る為に自害している。戦場で、利休の点てたお茶を飲んだ武将が、もう何があっても利休居士のお茶を頂いて悔いを残すことはないという場面があった。弟子が利休の極めた茶道の道を知ろうとした時、利休は、自分で切り開くしかないというようなことを言い、茶道が何たるかを教えなかった。天下の征夷大将軍豊臣秀吉も、茶道の道では刀を置き、にじって入り、頭を下げねばならなかった。
 中森芳次の「一日生涯、豊かに生きる」(講談社)には次の様に書かれている。・・・「このお茶を一杯飲むまでに27人の手を煩わせている。植える人、摘む人、鉄瓶を作る人、炭を作る人などと並べて祖父はとうとう27人を数え上げた。それからは、お茶を飲む時はいつも多くの人の手を経てきたことを感謝しながら飲むようになった。これはお茶に限ったことではない。普段私達は、そんなこと気にせず、何だかんだと文句を言いわがままを言っている。感謝することは何に対しても出来る。考えて行けばきりがないくらい感謝の種はどこにでもころがっている」・・・
 ある日の朝日新聞の天声人語に、ゴルバチョフ書記長とレーガン大統領が日本のお茶をすれば、お互いに相手の事がよく理解できて世界は平和になるに違いないというようなことが書かれていたが、正にこれはお茶の本質を言っている思う。
 お茶を差し出す亭主が失敗した時には、それは緊張させた客の責任であるし、客が堅苦しく窮屈に思って時には亭主の責任なのである。
 釜田先生が、ある時こう言われた、「・・・今でも、悔やまれる。○○茶会で、私が正客の時に、初心者の人だったんでしょうね、上がってしまって、抹茶が殆ど茶碗に入っていなかった。緊張してしまって、手が震えて抹茶がお茶碗から出てしまって、ホント、悪いことした・・・」と。で、先生と一緒にお茶会に行くと、(先生は多くの場合、正客になることが多く)冗談を言い、皆をドット笑わせ、周囲の緊張を解いておられる。
 今年の終わりまでに「西田病院お茶同好会」を結成し、来年の1月から院長宅で西田病院の職員により茶道の練習をすることになった。病める患者さんに対して茶道の精神で今以上に素晴らしい医療が出来ればと願っている。

*その後、「西田病院お茶同好会」は自分が会長になって結成されたが、お茶会が(不幸な出来事があった為に)一度も催されることなく、会長の私が退職して、残念なことにそれ以後閉会してしまった。


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自分を信じれる医師

2008-03-13 08:30:27 | Weblog
 朝起きると、ウグイスが鳴いていた。はっきり言って下手。数日前から鳴いているのだが、まだ、上手でない。
 小学生の時にメジロを飼っていた。続けて高い声で鳴いていたが、初めからそんな感じで出来た訳じゃない。日増しに上手になって行った。そして、1カ月もすると気持ちよさそうに高らかに長く鳴ける様になっていた。
 医療も同じだと思う。
 3月11日(火)22:00からのNHKのプロフェッショナル「仕事の流儀」で、67歳の小倉記念病院の院長でもあり、心臓カテーテルでの日本の草分け的存在でもある、心臓内科医「延吉正清」先生が紹介されていた。
 仕事場でも、常にリラックスしている。ニコニコしていて、腰が低い。心カテ直前に気軽に、「全然心配ない」と患者さんに言っている。 見えない一点を射抜く。それが出来るのは、自分の力を信じ切れるから。自分の力が信じれる様になるには、経験しかないと言う。正に、プロの言葉。
 4万5千件程のスゴイ臨床経験を持ち、記録もきれいに整理している。ここまで来るにも、それなりに苦労している。
 北九州市で次男防として生まれ、京大出た後に、心不全で亡くなった妊婦を受け持って、自分の無力さを感じる。その後、33歳で心臓の造影検査を始めている。41歳の時に、それで血管を傷つけ、外科の先生のお世話になる。周りから、「あいつは命を危険にさらしている」と言われる。先生自身が、ストレスで心房細動にもなる。当時アメリカで盛んに行われていた心臓カテーテルの検査を見るために、独り、自腹で、アメリカに行って修行を積む。そこでは、手取り足取り教えてもらった訳でなく、唯見るだけ。
 自分といつも親しくしている人も、延吉先生からしてもらっている。1時間近く掛けてしたが、通らなかった。しかし、してもらった本人は次の様に言っていた、「あんなに完璧に分かりやすく説明を受けたこと、初めてだった。親身になって一生懸命にしているのが分かった。今回どうして上手く行かなかったかもよく理解できた。頭を下げられて、再挑戦を言われた。素晴らし先生」と絶賛していた。
 絶対ミスをしない。1000人したら、1000人が全て成功しないといけない。諦めたら医者ではない。命を与えられているのは主治医のみ。これが先生のポリシーだと感じだ。
 先生は、将来自分を越える弟子を沢山育てる為に、今も頑張られている。今、18人もの研修生がそこで学んでいる。一人で、どんなプレッシャーにも打ち勝って出来る医師を沢山養成する為に。降圧剤を飲みながら。

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