日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

福田新総裁決定後の万歳

2007-09-23 20:32:16 | Weblog
 外国の人にとって、日本人のしばしばする「万歳!」は、奇妙に見えるらしい。今回の福田新総裁決定後でも、その会の最後に万歳って感じで全員がしていて、その写真がクル一ズアップされいた。もちろん、対立した麻生氏も、笑顔で一緒にしている。これって、ちょっと考えてみると、面白い行動かな?!
 食事会で、皆でお皿にもったのを各人が勝手にとって食べる時、日本人の場合、最後に一つ残すことが多い。これって、外国の人に言わせると、何でって感じになるらしい。
 外国の人が日本に来て、日本のメチャきれい好きに驚いている。各人の家の中に入る時には、靴を脱ぐのは当然で、レストランに入れば、おしぼりが必ず出てくる。道路には、ゴミはない。ゴミを歩きながらポンポン捨てる人もいない。お水はどこでもただで飲め、紙幣も実にきれい。
 電車に乗れば、時間は極めて正確。5分も遅れると、「大変申し訳ありません」何て放送を前もってしている。銀行やデパ一トが開く時間も、決められた通りに開く。
 人の出入りの多い通りでは、宣伝が入ったティッシュペ一パ一がアチコチで無料で配られている。物乞いの人がどこにもいない。こんな国は、珍しい。
 ぶつかっても、向こうの方が、「すみません」と言う。バスに乗っても、大きな声で、車内で携帯電話している人は、実に少ない。日本人って、実に礼儀正しい国民だ。
 外国では、疑いが日本人にかかった時、日本人のことをよく知る人が、次の様に言ってくれることが多い、「日本人がそんな(悪い)ことする訳ないだろ」と。
 日本人、外国では、品物も人も、とても受けがいい様ですが(もちろん、例外はありますが)。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その218)

2007-09-23 08:38:21 | Weblog
○昭和59年7月16日(月)晴。
 150人時間内に来た。少なくなったと思う。午後は少しゆっくりしていた。それでも今日、7人が入れ替わった。入院出来るベッド数が少ないので、回転を良くして少ないベッドを有効に使うしかない。
○昭和59年7月18日(水)晴。
 午後講義に行ったが、眠っている人が多い。試験をすると出来る人は出来るが、出来ない人はサッパリ。准看の場合は、頭がスゴクいいのに、家庭の事情で進学出来なくて来ている人もいる。こんな人、高看以上に出来るって感じだ。出来なくても気にしない人、これを立ち直らせるのって至難の業だなあ。県による准看の検定試験は、簡単だから合格はするだろうが。
○昭和59年7月20日(金)晴。
 ナ一スの話だと、7月17日の深夜に腹痛で来た子どもを病院側の実情で診れないことを説明したら(病院側の説明として、当院は救急指定でなく告示で、小児科医1人で深夜もしているので、朝までどうしても待てない感じの一刻を争う時以外は、小児科医は診ていない。朝は、7時半過ぎれば、小児科ドクタ一が来るので、出来ればその時に来て下さいと説明していた)、○○新聞社勤務の者なんですがと言ったそうな。カチンと来た。ここでは、どんな人の紹介でも、親がどんなに偉くても、皆、平等に扱っている。院内のドクタ一の子どもにしても、順番を待っている。バックに権威あるものをちらつかせたり、偉そうな肩書きの名刺が付いていたり、初めからモノをくれる人、私の一番嫌いな患者のタイプだ。
○昭和59年7月22日(日)晴。
 昨日の17時から今日の17時まで、大分医大の助教授が来てくれた。岡山の山内先生の所で勉強したみたいで、新生児に詳しいらしい。大分医大から月に1回でも、本当に助かる。
○昭和59年7月24日(火)晴。
 約100人来た。やっと100人に達したって感じだ。考え方によっては、今が少ないのでなく、今までが多過ぎたのかなあ。小児科用に臨時で特別に作った部屋が空いている。他の科も、ホントによく入院している。産婦人科は多いし、外科も多い。ベッドが常に○00を越えていて、どの科も一所懸命に頑張っているのに、昨年の6月よりも今年の6月の方が、全体で売り上げが1.000万少なかったとのこと。どうなっているのかなあ。臼杵の○○先生が朝来て、周りから深夜も小児を診る様に言われて困っていると言われた。この先生は、行動力のある先生だと思った。深夜の小児の診療、どこも難儀しているなあ。
○昭和59年7月30日(月)晴。
 台風のせいか、150人も来なかった。午前中、100人スッと終わった。8月一杯は、水曜の午後の准看の講義は休みだ。自分の一番好きなことは、人に教えることかなあ?次が救急医療かなあ。こんな医者も珍しいだろうなあ。又、こんなに忙しくても全てそれを救急ノ一トに記載して統計を執り続けている医者もいないだろう。こんな感じでいつまで執り続けるのかなあ?(今も執っています)
http://www4.ocn.ne.jp/~kamiama/syounika-jikanngaitoukei-matome.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五橋祭

2007-09-22 22:13:48 | Weblog
 恒例の「五橋祭」があった(明日もある)。ハイヤ一踊りに28チ一ムが参加して、我が上天草総合病院は、5位だった(5位まで表彰される)。昨年も、一昨年も、賞はもらってなかったので、まあ、良かったのかなあ。参加したチ一ムの中では、その数だけは、ナンバ1(看護学生も参加しているので、150人余となっている)であった。
 私の太鼓は、これで3回目。ハイヤ一踊りに合わせて太鼓を打っている。休みなしで30分以上打つので、結構疲れる。しかし、いい汗をかいた。
 こんな感じで、毎年ずっと打てるといいなあと思いながら。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

政治家の常識は非常識?!

2007-09-22 11:43:30 | Weblog
 丸山和也弁護士が昨日の民放のテレビで、暴露していた。代議士になって、月に2日しか働いていないのに、給料月130万に、必要経費月100万、つまり、230万ももらったとのこと。これはおかしいと思って、返そうとするも、それは出来ないとのこと。このことに関して、今まで大きく問題になったこともないらしい。又、辞める時も、働き始めた時と同じで、1日しか働いてなくても、満額230万が出るとのこと。
 これって、一般庶民感覚から言って、おかしいのでは。
 自治医大出身の勤務医が言っていました、「私達、勤務先では、初めのボ一ナス、諦めています。それを県の方も計算して移動させている様ですので・・・」と。ある人の調べでは、(苦労して手にした)医学部大学教授のポストの正式な大学からの手取りは、平均1000万もないとのこと。
 医者の世界も非常識と世間では言われているが・・・、政治家の世界では、もっと・・・?!

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その217)

2007-09-22 07:55:59 | Weblog
○昭和59年7月1日(月)曇。
 100人ちょっと来た(昨日は180人余)。体がだらしい。今日も、血便(内痔核?)があったので、少し心配だ。体がむしばまれて行くなあ。1.600gの子が生まれたが、元気だ。明日は講義だなあ(水曜の午後は、病院は休診で、その時に、医師会立の准看護学校に小児科の各論の講義に行っていた)。
○昭和59年7月6日(金)晴。
 夜、忙しい。毎晩、数人が21:00近くまで点滴をされている。患者本位でよくやっている病院だと思う。医師1人なので、採算、合い過ぎるぐらいに合っているはずだ。お金よりもスタッフ(やる気のある若い小児科医)が欲しい。
○昭和59年7月8日(日)晴。
 県病の東保先生とアルメイダ病院の丸山先生と自分の3人が、県下の産婦人科学会で、産婦人科の先生達に講演をした。大分医大の木川産婦人科教授が言われる様に、今、新生児・未熟児医療に関して大分県で一番頑張っている3人だと思う。いつまでもこんな感じで頑張れるとは思わない。学会後の懇親会で、「お前所の産婦人科の医者、羨ましいヨ」とアチコチから言われた。それを聞いて、多くの産婦人科の先生方が、新生児の扱いで難儀しているのだなあと思った。そんなこと、今まであまり考えてもいなかった。そう言われれば、西田病院では、生まれた後は、産婦人科完全にノ一タッチで、全て小児科医が新生児を診ているなあ。
○昭和59年7月11日(水)晴。
 ピアノの練習をした。ソナチネの1番、何とか、最後の方まで弾けた。後は、練習だなあ。ミ一コも、上手になっている。子どもの上達の方が早いなあ。今日は講義がなかったので、久し振りにゆっくりと出来た。
○昭和59年7月15日(日)晴。
 小児科学会でバッチリ発表できた。何度もしてきているので、場慣れした感じだ。スライドを見ながら、数字を10程丸暗記して、原稿なしで、無駄なく話したのだ。これ、新しいタイプの話し方かも知れないなあ?!

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

医師の半分は医師と結婚

2007-09-21 10:25:57 | Weblog
 医師の2人に1人は、医師同士で結婚?!日経メディカルオンラインによると、以上の法則が何故成り立つのかを証明していた。
 新しく1.000人医師になったものがいるとする。その内、女性は、今や約35%(正確には、33%)、つまり、1000×0.35=350人もいる。で、女性医師が男性医師と結婚するのは、約70%(正確には、ある調査では、67.9%)、つまり、350人×0.70=245人が、男性医師と結婚していることになる。つまり、1.000人の内、男性医師が650人いて、その内の245人もが、女性医師と結婚することになる。で、245人の男性医師と245人の女性医師で、490人となり、1.000人の内の約半分が、医師同士の結婚となる。
 でも、実際は、女性医師の離婚率高いので、どうなのかなあ?
 気になるのは、意識調査で、女性医学生の7割が、男性医師との結婚を望んでいるのに対して、男性医学生は、3割足らずしか、女性医師との結婚を望んでいないとのアンケ一トがある。これはあくまでも学生時代のことで、卒後はどうなのかなあ?周りを見ても、看護師さんと結婚している人の方が多い様な気がするけど・・・。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その216)

2007-09-21 08:48:54 | Weblog
○昭和59年6月18日(月)晴。
 170人余診た。ルンバ一ルもした。RDSのベビ一も助かりそうだ。月報の原稿を明日の朝までに書き上げて出さないといけない。お腹の調子が良くない。過敏性大腸炎だなあ。
○昭和59年6月20日(水)晴。
 講義をした。疲れた。月報は出したし、学会のスライドも出来上がった。土曜には、(宮医大から)○○先生が(代診で)来る。ベビ一も落ち着いている。
○昭和59年6月22日(金)雨。
 ハ一パ一の生化学の19版を勉強した。内容がスゴク変わっている。あれから10年も経っているからなあ。医学の進歩はスゴイなあ。量もスゴク多くなっている。RDSの子、nasal CPAPをはずした。調子いい。ベッドがなくて、外来で布団を敷いて寝泊まりしている人もいる。この病院の空床現在0。この不景気の時代にスゴイなあ。
○昭和59年6月23日(土)雨。
 200人程をテキパキと診た。雨が降っている。喘息の子が多い。今は、梅雨の真っ直中。○○君の代わりに○○君(専門は先天異常)が来た。○○君(専門は新生児)は医局長になって、忙しいのかなあ。
○昭和59年6月27日(水)雨。
 けいれん重積の子が元気になったので、送らずに済んだ。喘息が多くて、朝の1:30にも診た。早く梅雨が明けて欲しいなあ。講義、超特急で進んだ。あまり早過ぎて、付いて来れないんじゃないかなあ。眠っている人も少なからずいる。自分も講義しながら眠たかった。月報の原稿の校正をした。
○昭和59年6月30日(土)
 疲れた。朝7:45分に行くと、(生保の)○○の父親と口喧嘩になった。お金の要らない人って、時間外が多くて、何であんなに態度が大きいのか!まあ、カッとなった方が負けだが。昼寝ていたら、分娩室から仮死とのことで呼ばれて、しばらくそこにいた。何とかうまくいった。夕方、交通事故で気胸の人が来た。呼吸困難が何で起きているのか分からなかった。ドレ一ンを入れたら、急に元気になった。外科の○田先生(専門は、小児外科など)、スパッと入れて、さすがだなあ。この病院、定員以上に入院している。来ても入れる所がない。この先どうなることやら。(代診がないので)明日も、1人で頑張らないといけない。(この土曜の夜、入院できなくて外来で8人も宿泊していた)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その215)

2007-09-20 06:52:14 | Weblog
○昭和59年6月3日(日)晴。
 (昨日は160人余)外来を40人程診た。病棟のMCLSの子も調子がいい。かなり眠たい。昨日も、ホントに眠たかったなあ。
○昭和59年6月4日(月)晴。
 朝3:00に叩き起こされた。それでも、ミ一コといつもの如く散歩した。1日1日がとても早い。ここで10年間、頑張ることになるのかなあ?
○昭和59年6月5日(火)曇。
 頭が痛い。睡眠不足のせいだろう。朝、患者さんで忙しくて、眠ったのは2:00頃かなあ。事務長が大分医大に行った。1カ月1回、来てもらえないかとの交渉に行ったのだ。
*6月から、第3土曜の17:00から24時間、大分医大からきてもらえる様になった。
○昭和59年6月7日(木)雨。
 腹の調子が良くない。喘息が多い。頭がピリピリしていたが、それはなくなった。健康ってありがたい。恵ちゃんが風邪気味だ。心配になる。いくらお金があっても、当たり前だが、健康の方が大切だ。MRから頼まれて書いた治験のお金が入った(治験を頼まれて、しばしばそれを書いていた。その申告は、年末にちゃんとしていた。又、そのお金の大部分を、スタッフとの食事会に使っていた)。
○昭和59年6月8日(金)晴。
 腸重積の子も、無事に退院となり、今日の外来もあまり多くなく、レセのチェックもサッと終わった。(事務員がしっかりしていたので、レセのチェクはさほど難しくなかった。保険に入っている人の入院証明書の記載が結構多くて、忙しい時には難儀していた。)
○昭和59年6月11日(月)曇。
 夕方7:30に電話があって、直ぐに行ったが、2歳前の子で、溺水で心停止を既に起こしていた。外科の○田先生と一生懸命に蘇生をしたら、心臓が動き出し、自発呼吸も出てきて驚いた。親御さんは、悦んでいる。しかし、助かってもひどい後遺症が残るだろうし、99%は駄目だと思う。外科の先生も、忙しそうだ。(産婦人科の)院長も、夜、帝王切開で忙しそうだった。この救急病院、どの科の先生もよく頑張っているなあ。
○昭和59年6月12日(火)曇。
 やはり、溺水の子は、努力の甲斐なく亡くなった。心停止が長く続いて助かった例は、今までに自分にはない。助かっても、ひどい後遺症が残る。蘇生をすれば心臓は確かに動き出すが、しかし、数日したら心停止となる。死を家族が直ぐに受け入れることが出来ない。こんな時、医者の仕事は、その心の準備を家族に与える為のものでしかない。(外科の先生は、ある程度まで一生懸命にして、それでももう駄目だと悟ると、それ以上のことはしなかった。○○科の先生は、最後まで、徹底的にしていた。自分の仕方は、もう挿管しても先がはっきりと見えている時には、親に子どもの手を最後まで握ってもらっていた。)
*挿管をしている状態だと、初めの24時間は、どの母親も、一睡もしないで深夜でもしっかりと起きて、医療側がする処置を真剣に見ている。しかし、3日目位になっても状態がいい方向に行っていないと、母親も疲れた表情になり、深夜医者が行っても、そのまま寝ているケ一スが多くなる。それ以上になると、深夜、母親の代わりの人が付いていることが多くなる。それらの変化を私はつぶさに見てきている。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その214)

2007-09-19 07:48:32 | Weblog
○昭和59年5月17日(木)晴。(今から23年余前の日記です)
 腹の調子が悪い(過敏性腸炎)。何度もトイレに行った。もう朝7:30から病棟を回診するのが習慣になってしまった。月報も書くのが習慣になってしまった(来た月から、小児の時間外統計も載せて、ずっと書き続けていた)。忙しい時には、いつも不安になる。この先1人で本当にやっていけるかどうかと。
○昭和59年5月19日(土)雨。
 200人ほど診た。土曜は多いなあ。体の調子が少しいい。昼寝を毎日して、夕寝も時々するといいみたいだ。まとめて睡眠が取れないので、小刻みに取るしかない。隣の家の○○さんは、夕方ビ一ルを飲むと直ぐにそのまま寝てしまって、早い時は2時に、どんなに遅い時でも5時までには起きて、城山の頂上までいつも昇っている。すごいなあ。
○昭和59年5月20日(日)晴。
 頭が少し痛かった(血圧に注意していなかったが、血圧が高かったせいもあったと思われる)。30人ほど診た。完全なる運動不足だ。体力をつけないといけないなあ。
○昭和59年5月22日(火)晴。
 150人程来た(昨日は、149人)。少し風邪気味だ。明日は、講義があるなあ。水曜は、ずっとこれからしばらく講義がある(毎回、下調べをしていた)。もう1人いれば、ホントに楽なのだが。
○昭和59年5月26日(土)晴。
 津久見の○○医院の紹介で、肺炎の子が来た。白血球が3万以上もあった。検査上、(器械が)ちょっと多くなると実際よりも多く出ているのかなあ?今日は150人程診た。今日は、○○先生が来てくれて、ゆっくりと食事会が出来る。

*小児科では、スタッフとしばしば食事会をしていた(スタッフに掛かる費用を出来るだけ少なくし、幹事は、細かなことまで全て自分がした)。又、夏は、1泊のキャンプ(津久見市の黒島など)を、冬は、1泊の忘年会(宮崎市や住吉浜リゾ一トパ一クまで行っていた)を、遠くでしていた。小児科では、スタッフが皆超人間的に働いていたが、ブツブツと陰で苦情を言う人はいなくて、他の科から羨望の眼差しで見られていた。

○昭和59年5月28日(月)雨。
 満35歳になった。信じられない。いつの間にこんなに歳をとってしまったのかなあ。気が付いたら、家があって、そこに女房がいて、子どもも2人いるって感じになっている。給料も、こんなにもらって、いつもボ一ナスみたいだなあ。寄付もそれそう応にしないといけないと思う(大分合同新聞の歳末助け合いに、毎年10万していた)。早く家と土地の借金を払い上げてしまいたいなあ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一人暮らしのお年寄り再考

2007-09-18 09:21:17 | Weblog
 仲睦まじい老夫婦であっても、必ずどちらかが先になくなる。人間は、最後は、やはり1人になってしまう。多くの場合は、男性が先に亡くなるケ一スが多いが、必ずしもそうとは限らない。お年寄りの1人暮らしの割合は、どんどん増加しているし、今からも、もっともっと増加し続けて行くだろう。お年寄りの男性だけの一人暮らしの例も、まれなケ一スと思われなくなるだろう。しかし、その為の国の政策となると、極めて貧弱である。
 介護であるが、今の介護医療制度では、家族が看て、それでもダメなら公的でと言った感じになっている。しかし、その家族が頼りなければ、残されたお年寄り自身が、前もってそれなりに対策を練っておく必要がある。奥さんがいなくては生きられないお年寄りは、もう、時代遅れなのである。
 今後、加速度的に増加している一人暮らしのお年寄りの自立が大きな問題になるだろう。多くのお年寄りの本心は、いつまでも慣れ親しんだ土地で過ごしたいということである。歳をとって行けば行く程、その思いが強くなる。そこでは、見慣れた景色、いつも行くお店、親しいお茶友達、いろんな行事など、長年培って来た生活パタ一ンが体にしみついている。それを今になって捨てることなど、多くのお年寄りにしてみれば、とても出来ないことなのである。
 ホ一ムレスのお年寄りの男性に、市の方が、不自由だろうとそれなりの建物を作ってそこに収容したのだが、当の本人がその窮屈な生活に耐えられなくて、又、元のホ一ムレスの生活に戻ったとの例がある。老夫婦のどちらかが亡くなった時、それまで疎遠だった子ども達から、「1人では寂しいでしょうから、私達と一緒に今から住もう」との誘い、あるお年寄りにとっては、これが、「悪魔の誘い」に思われるケ一スが現実にある。
 昔人生50年が、今は、男性でも80歳(正確には78歳)近くなっている。家族であってもそれなりに気を使わないといけないなら、いっそ、今まで通りに1人で住んだ方がいいと思っているお年寄りは、想像以上に多いのではないだろうか。今の時代、電子レンジ、掃除機、洗濯機、24時間オ一プンのコンビニなど、お金さえあれば、衣食住に不自由しない。
 65歳以上のお年寄りの16%は、まだ、現役バリバリで、世の中を変えて行きたい、社会の為にもっと役に立ちたい、前から抱いている夢を実現したいなどと思っている(中には、独身を生かして、大恋愛をしたいと思っている人もいる?!)。これらの集団は、世の中にとっては、とてもとても貴重な存在であるはず。
 福田次期総理にしても、71歳で、頭角を本当に出そうとしているではないか。歳をとれば、記憶力は若い時程確かにないが、総合力では、歳をとっている方が上のことが多い。もちろん、体力は落ちているので、体力勝負のことは出来ないのは確かなことであるからして、時間を決めて体力に見合ったことをすればいいと思う。
 そう言えば、小泉前首相も宮崎県知事も、独身だけど、とても元気だなあ。
 若者畏(おそ)るべし、しかし、お年寄りも、畏るべしかな?!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする