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試験雑感

2007-05-27 14:05:58 | Weblog
試験って、どういう意味合いを持つものだろうか?
 高校3年生の多くが受ける大学入試の試験、定年前の団塊の世代がそれを解こうとしても、解けないし、又、解く気にもならない。
 大学での試験にしても、何かすっきりしない。教官が教えた所が主に出題される。その教官の研究テーマや興味のある所が沢山講義で話され、それが主体に出題される。教官が出題した問題の質に付いての議論は、殆どない。つまり、教官の教師としてのチェックが日本の場合は、殆どない(研究が中心だから)。欧米だと、とても厳しい。教官は、最後に、生徒からチェックを受ける(私が受けたトロント大学でも、そうだった)。チェックの結果が良くなければ、次の年には、教えることからはずされる運命にある。
 アメリカのカイロプラクタ一の学校に行っている娘の話だと、在学4年間の間に、4回も国家試験があり、1回目は、1年半目に、基礎医学の生理学や生化学や解剖の試験が、これが大変らしい。そして、2回目と3回目は、臨床の試験で、筆記試験だけ、最後に、カイロプラクタ一として最も大事な臨床の筆記と実技試験がある。後は、卒業して、実地を本格的にして一人前になれるとのこと。アメリカの様に、学校での講義、即、国家試験の成績に結びつく様なものであるべきだ。国家試験の問題は、娘の話だと、ちゃんと学校の講義を聴いていれば、大丈夫とのこと。
 日本の医師の場合は、医師国家試験が1回だけ、それも、臨床の筆記試験だけで、実技はない。しかも、その問題、厚生労働省の思惑通りで、落とす為の試験の要素が強く、それなりに受験勉強をかなりしていないと、かなり要領のいい受験秀才でも、合格しない。ある地方の新設の国立大学卒の人が言っていた、「もう、大学、国家試験の為の予備校って感じでしたよ」と。国立でもこんな感じの所があるぐらいなのだから、私立では、尚更であろう。
 大学の医学部での試験のあり方もおかしいが、医師国家試験のあり方も、絶対におかしいと私は思っている。土台、医師国家試験で、何%取れば合格になるのかさえ、自分の受けた時は、全く不明だった(今もそうかな?)。
 フランスの場合は、1週間程、口頭試問中心の国家試験がある様だが。日本では、ヒポクラテスの誓いに似た様なことを言わせることもない。入学した時は、患者さんの為にと思って入学した人が大部分でしょうが、実態を知ってしまうと、どうしても、訴訟が多かったり、休みが取れなかったり、重労働だったり、給料が安い所、更には、へき地医療、救急医療などは、避けたい気持ちになるのも頷ける(もちろん、行政の問題や、個人の問題や、いろんな問題が確かにありますが)。単なる試験では、どうしても判定できないものの方が(発想力や総合力ややる気や協調性や謙虚さなど)沢山あると思います。

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