日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

為になるかも知れない本(その66)

2007-04-15 08:22:19 | Weblog
phone/}○専門3年、12月17日(火)晴。(33年前の日記です)
 あと130ペ一ジ、頑張らなくちゃ。しかし、人間、やる気になれば何でも出来る感じだ。あまり眠っていないが、死ぬことはないだろう。小児科、それに精神科が最大の山だなあ。
○専門3年、12月25日(水)晴。
 二内、バッチリ出来た。まともな問題だったので、今までの科目の中で、一番出来たかも知れない。(何々に付いて書けと言った論文形式の試験が多かったが、二内は、問題数が多くて、細かく出題されていた)。公衆衛生学だけは、時間帯が10時30分からとなっているなあ。今までの16の内、眼科と精神科が出来なかったが、特に、精神科がサッパリであった(ノ一トの内容がそのままガッポリと出て、教科書中心にしていたので、この科目だけ落としてしまった)。思うに、不断の努力と規則正しい生活をすることが大切だなあ。
○専門3年、12月29日(日)雨。
 ○○先生(高校の時の生物の先生)と話した。○○先生こそ、実力のある人間味豊かな素晴らしい先生なのだ(○○先生は、医学部に在籍していたが、医学部を卒業することなく、教員の道を選ばれた。しかし、先生の二人の子どもさんは、現在、共に医師になられて活躍されている。)。あの時には、先生の良さが分からなかった。あの時(自分が高校生の時)は、どうであれ(○○先生がまかり間違っても給料の低い先生にだけはならない様にと授業中言った時から、私はその先生をずっとそれまで誤解していた)、今は、まごうことなき立派な先生だ。今は、先生の言われる様に、生物も医学も分子生物学から出発なのだ。今、鶴城は、実験を充分にしている。今は、160人も国立に合格すると言う(自分の頃は、その半分にも満たなかった)。鶴城は完全に変身した感じだ(大分県自体の普通高校の在り方が変わったせいもあるのか?)。
○専門3年、12月30日(月)雨。
 K小児科に行った。朝の8時から忙しく診察していた。便所に行く以外は休まない。昼は餅だけを食べただけみたいだ。ここに来る患者さんがあまりにも多い為、毎朝、公の警備員の人が交通整理をしている。兎に角、すごい数で(300人の子どもに親が付くからして・・・!)、病室に上がる階段にもビッシリ座っていて(14床の入院設備あり)、寒いのに中に入れなくて外で待っている人もいる。小児科は、体力だなあ。気力だなあ。とにかくスゴイの一言だ。開業以来(20年間経っているのに)、入院患者さんがいるので24時間完全に家を留守にしたことは一度もないと言う。救急車も来た。深夜も急患が来ている。よく体がもつなあ。K先生の背中が丸くなっているのが心配だ(自分が小学校の時は、開業始めたばかりの時で、往診に来てもらっていた。姿勢のいい先生だったが・・・)。先生の奥さんが、「夜中、寝ているのを見ると、このまま働き過ぎて死んでしまうのではと思うことがある。疲れ切って、息が時々次第に浅くなって止まっていて、アアッと思っていたら、又、息をして、・・・」と言われる。又、奥さんが頼むのに診てくれなくて、手遅れで自分の子どもさんが肺炎になった話をされていた(息子さんは、現在小児科医としてK先生の跡を継がれている)。「主人は、午後は疲れているので誤診するから午前中に来なさいと患者さんによく言うんですよ。これを私達が言ったらいけないんですが・・・」と奥さんが笑いながら言われる。すごいスピ一ドで診ている。冬なのにはしかの人もいる。Koplik斑を初めて見た。この日は、夜の9時近くまで殆ど休むことなく診療しておられた。

*当時、大分県には、沢山診ることで有名な小児科の先生が3名いた。多い時には、しばしば300人近く診る先生で、中津市のI先生、別府市のM先生、そして、佐伯市のK先生であった。M先生は、24時間365日19床の入院設備を持ってしていることで超有名で、又、佐伯市のK先生も、14床の入院設備を持って、県南の臼杵市や津久見市からも沢山の患者さんが来ていた。K先生に診てもらうまでが、患者さん側にとっては、大変な苦労だった様だ。
(その後、自分が郷里の佐伯に帰って、佐伯市の救急病院勤務時代に、K先生は、とうとう体を壊されてしばらくの間、休診されてしまった。その間、自分一人で県南の新生児を含む小児医療をすることになってしまったが・・・今考えれば、その時、私は、正に過労死寸前の状態であった。)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする