黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

凄いぞ! 我が町の「松山城」

2015-10-04 | 日記・エッセイ・コラム

昨日の午後 まちの歴史講座で

「松山城の全貌に迫るー近年の調査成果ー」を聞いて

 私の脳の整理箱にランプが付いた。

以前から 興味を持っていたのですが この小さな城に こんな面白いストーリーがあったのか。

埋もれた歴史が蘇ってくる…

講演は、岡寺 良氏 (九州歴史資料館) 中近世城郭についての研究調査では

多くが認めておられる方だとか。

 講演は大変興味深く あっという間の1時間でした。

大勢の方(70名くらい) ほぼ 70代 顔つきから見ても 歴史好き なタイプ?

 

 戦国時代に興味のある私としては 人間関係を中心の話のネタから 

 今回「戦」の分野に 焦点あり と その斬新かつ 緻密な「城郭」の「縄張り」 について興味津々

 ワクワクしてきました。

 そして この「松山城」が おそらくは 織豊時代のものと推定され ますます

 物語性が出てきたことでした。

 だって この時代は 本当に面白い「話のネタ」満載の時代ですから。

 次回 私の講演で「戦国時代の女たち」を取り上げ 話をするんですが 

 今回の この「松山城」は ただ「城」というだけの存在ではなく この城を巡って

 多くの武将たちが「戦いの拠点」としての物語が幾重にも重なっている そんな城だった。

 昨年 NHKの大河ドラマ「黒田官兵衛」が話題に 

 そうです この城も 官兵衛をはじめとして

 中国の雄 毛利 大内氏 地元の長野氏 大分の大友 薩摩の島津 

 

 最後は 秀吉の登場! こんな小さな松山城に きらびやかな武将たちが…

 考えただけでも 楽しくなりません? 

 そして 「城」は 戦いの場所 いかに 優れた縄張りによって作られていたかは

 時代を経て 発掘調査によって その全貌があきらかになり 

 

 

 「城」の 戦略的価値が あったのです。  (最初の 写真図面)

 まずは 「敵」を近づけないためには…「郭」の周囲を囲むように 緻密な縄張り(設計)の数々のアイデアが。

 この時代の「城」は そのものが戦略的に濃いものであり 攻めにくく 幾重にも 細工が施されている。

 「主郭」に至るまでの道は 直角に曲がる施し 上に進むには階段であり 周囲は土塁で固め 

 ある個所には 堀切 と呼ばれ(箱堀や 薬研堀)で 敵の足を止める役目や 「畝状空堀群」という縦の堀を。

 さらに くい違い出口を作る。 また 「馬出し」は 余裕の場所として 攻め 守りにも対応できる空間なども。

 つまり 全体の姿が「階層的」な築城方法であるのだ。

 その繊細にして かつ巧妙な縄張りの 詳細な説明を聞くと… これは凄い… 

 

  そんな巧妙なつくりの城も 終わりに近づくにしたがって 謎解きは?

  天正15年 豊臣秀吉 九州平定戦における 「臨時構築」の城であったとは… 

  そう言えば 秀吉は 過去にも 「三木城干殺し攻略」「備中高松城の水攻め」「鳥取城の渇殺し」など 

  城攻めの名人だったのだ。

  実際に この城の縄張りは?

  当時 黒田官兵衛が 豊前の国 中津に入国 そのころなのか?

  はたまた 慶長6年 関ヶ原以後 細川忠興の入国時? か。

  どちらかの 段階での改修であったと… 推理する… これも また その結果を期待しながら。

  よ~し、 この話 もっと 深く 追及して 戦国物語を語れる ストーリーにならないだろうか?

  勉強の価値あるね。

 

  久しぶりに 心躍る 楽しい 時間だった。

 

   

 

 

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 秋の気配が | トップ | 印象派の描く明るさが ここ... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。