徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「海燕ホテル・ブルー」―夢か現実か判然としないある情念の物語―

2012-04-01 05:30:00 | 映画


 突風が吹き荒れて、4月を迎えてようやく春らしい季節の訪れだ。
 待ちかねていた桜が、一斉にほころび始めた。

 映画は、男たちの脆い共同幻想(?)を描いた不思議な作品だ。
 若松孝二監督の新作である。

 走っても走っても、たどり着けない。
 そこから抜け出すこともできない。
 広い。
 広いけれど、狭い。
 空漠とした、例えようのない閉塞状況・・・。
 そして、何かが壊れていく。
 確実に・・・。
 この作品は、結局何を言いたかったのだろうか。








          
幸男(地曳豪)は、現金輸送車を襲撃した罪で、7年の刑期を終えて刑務所を出た。
北陸の日本海に面した、冬の浜辺・・・。
あの時、現場から逃走した仲間の男を見出すが、すでに妻子と家庭を持っていたことを知る。
その足で、幸男は、強盗当日やはり逃走して雲隠れしている洋次(廣末哲万)を捜しに伊豆大島へ。
そこで、洋次は、言葉を一言も発しない謎の女梨花(片山瞳)とバーを営んでいた。
幸男を殺そうとして、洋次は逆に自分が殺され、幸男が洋次に代わって店を継ぐ。

身元調査の警察官がやってきても、梨花の記録は何もない。
そんな中で、雑多な事件が相次ぎ、結局、相手に復讐し復讐され、男たちは皆死んでしまった。
はじめて、梨花が言葉を発したのは、その時だけであった。
「愚かな人たち!」と・・・。

・・・最後に残ったのは、梨花ひとりだった。
人気のない庭園に立つ観音像の前で、梨花が手を合わせている。
顔を上げて、立ち上がると、着ている服をするりと全部脱ぎ捨て、観音像に歩み寄る。
そして、梨花の姿は菩薩像の中へ、すうっと飲み込まれるように消えていった・・・。

直木賞作家・船戸与一の原作が下地になっていて、映画の方は、かなり勝手に作られている。
何かと、問題作を発表する若松孝二監督だから、その勝手気ままも許されるのかもしれない。
ドラマは、よくわからい部分も盛り込んでいるが、この作品「海燕ホテル・ブルー」の底に流れているのは、永遠に繰り返される、愚直なまでの深い悲しみの情念ではないのか。

男たちが、次々と破滅していくその中心には、謎のような若い女を配置している。
女は、常に無言でかつ無表情だ。
その上、男たちのすぐ近くにいながら、どこかひどく隔たった場所に存在してる。
彼女は、過去の痕跡や記憶を一切持たず、ときには島の老女の分身のように映るし、振る舞っている。
そしていつも、夕日の残照の中で、血のように真っ赤なプールに裸身を浮かせ、無心に泳いでいる。
・・・かと思うと、広く黒い砂漠を、いきなり裸で走るそのあとを、これまた裸の男が追いかけるシーンがある。
体当たりの演技だ。

俳優陣は、メイクも衣装もなし、誰もが自分で、キャスト自身が考えたそうだ。
この映画は、むしろドラマなどというものではなく、怪異な(!)アートなのだ。
出演は「実録・連合赤軍」地曳豪「世界はときどき美しい」の片山瞳井浦新(ARATA)「赤目四十八瀧心中未遂」大西信満らで、若松組はいつも元気な面々だ。
この尊大な(?)元気は、十分買える。

女は、黙して何も語らない。
存在自体が、幻かも知れない。
ときには老婆となり、あるときは突然目の前から消失する。
時空を超えた難役と取り組んだ片山瞳は、若松組への参加は全く初めてだそうだ。
この作品では、台本なんてあってもないに等しい。
若松監督の指示は、いつだって「台本なんて信じるな!」である。
だから、脱がなくてもいい(?)場面で、脱がされてしまうこともしょっちゅうあるわけだ。

どうなのだろうか。
目の前の光景は、己が見ているのは、現実なのか。
他人が見ている幻なのか。
夢とも現実ともつかぬ、このドラマ(?)がいささか理解し難いのも確かだ。
「処女ゲバゲバ」から40年、新世紀の若松孝二による、この新たなる荒野の密室劇は、男たちの共同幻想なるものは、かくも脆く無残なものだったのか。
ともあれ、70代を迎えて、なお精力的な創作意欲は衰えず、若松監督は意気軒高である。


出演者もスタッフも監督も、誰もが精も魂も尽き果てて現場(撮影)を終える。
どうやら、映画が、監督の贅沢なオモチャになってしまっている。
良くも悪くも、遊び心たっぷりで・・・。
それが、素直な実感だ。
これだから、才能のあるなしに関わらず、若者たちが、我も我もと映画作りに狂奔する時代になったのかもしれない。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点