徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「メイジーの瞳」-ちっちゃな賢い少女の瞳が語りかけるもの―

2014-02-19 21:35:00 | 映画


 離婚した身勝手な両親に振り回される6歳の少女が、新しい‘家族’を獲得するまでを描いている。
 原作は、1897年に発表されたヘンリー・ジェイムズの小説で、スコット・マクギー、デヴィッド・シーゲル両監督が現代のニューヨークを舞台に甦らせた。

 少女の目線で描かれるこのドラマは、多様化する家族のあり方を真摯に問いかけてくる。
 子供は、親を選ぶことができないのか。
 これは、自分なりの親を見つけた少女の物語である。
 子供は何も知らないようでも、実は何でも知っている・・・。(!?)
 ちょっと恐ろしくも、また素晴らしい実話だ。
 そんな家族のありようが、この作品には描かれている。




メイジー(オナタ・アプリール)の母親スザンナ(ジュリアン・ムーア)はロック歌手で、父親ビール(スティーヴ・クーガンは美術商だ。

二人とも自分の仕事や遊びを優先し、ついに離婚に至る。
ビールはシッターの女の子マーゴ(ジョアンナ・ヴァンダーハム)とすぐ再婚し、スザンナも若いバーテンダーの恋人リンカーン(アレキサンダー・スカルスガルド)と親しい。
裁判の末、メイジーは、二組のカップルの家を行き来する二重生活を余儀なくさせられる。

メイジーは戸惑いつつも、両親の新しい恋人とも親しくなり、ときには弾けるような笑顔さえ見せるるようになる。
彼女は、実の父母といる時より、むしろ若い継父母と一緒にいる時の方が、心安らかに過ごせるようになり、そのことが意外なことに、若い継父と継母の距離までも近づけていくのだった。

メイジーという少女を演じる、オナタ・アプリールが素晴らしい。
彼女はただ見つめ、うなずき、短い返事をするだけなのだが、自分自身の抑制された喜びや悲しみの感情を驚くような精密さ(!)で表現しているのだ。
子供だと思っていても、何でも知っている。
勿論、何でも知っているようで、知っていないということもある。
そんな不可思議な淡々しい心情を、彼女はどこまでも自然で巧みに演じている

幼いメイジ-をほったらかしてコンサート・ツアーに出ていたスザンナが、不意に戻ってきて、継父母と穏やかな日々を送っているいる彼女を連れ出そうとするシーンでは、メイジーは母を恐れる。
だが次の瞬間、その恐れを察知して衝撃を受けた母を、メイジーが一転して、憐れむような慈しみともとれるつぶらな瞳で見つめる・・・。
このシーンの素晴らしさは、何とも言えないくらいぐっとくるものがある。

大人にとって子供は鏡である。
この物語は、離婚した親を持つ子供の現代的な姿を描いているので、ある種の息苦しさは否めない。
そんな中で、メイジ―にとっては新たな父母となる若者たちが、柔らかく、温かくやさしさを解き放ってくれる、そこが救いである。
実の父母は親として失格でも、心の底では我が子への愛情だけは失っていない。
それだけは確かだ。

・・・幼い頃に、大人の醜さを見てしまったメイジーは、この先どんな大人に成長していくのだろうか。
彼女と、4人の父母の関係はどうなるのか。
アメリカ映画「メイジーの瞳」は、全編を少女の目線で描いている点がよく、4人の大人たちの間に身を置いた彼女が、けなげに生き抜いていく姿がどこまでも素直に表現されている。
自然にそこにいる感じで、何ひとつ過剰な演技を求められていない。
そして、幼いメイジーは身勝手な両親よりもそれぞれの新しいパートナーと心を通わせていく。
新しい家族が生まれる予感がする・・・。
さて・・・?

     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点