30歳という若さで青春を駆け抜けた詩人中原中也と、25歳で生涯を終えた画家で詩人の富永太郎展をこのあいだ神奈川近代文学館で見た。
中原中也に興味があったが、富永太郎と二人をならべて「二つのいのちの火花」としたのはよかった。二人には共通するものと相反するものとがあったように思われてならない。
幾度も通いなれた元町の商店街をぬけ、あの外人墓地にそった急な石畳の階段を登り詰めると、やがて港の見える丘公園である。 この公園を横切って文学館の前にたつと、なにかほっとする安らぎが感じられて、そこで亡き二人の天才としばらくの間向かい合うこととなる。
中也はランボー等フランス詩に傾倒し、自らも沢山の才知きらめく詩を残した。 彼は、かの小林秀雄のもとに走った不思議な妻との三角関係に懊悩しつつも、結局自分のもとから去っていった彼女を、永遠の女性として讃えていたのだった。
自筆の作品、書簡からにじみ出る彼の美学と哲学を読み解くことは容易なことではないと思われた。
中也の詩論をライフワークに考えていた大岡昇平も、「武蔵野夫人」などの名作は残したが、志半ばにして他界してしまった。彼も生前の中原中也を良く知る一人だった。
それにしても、この文学館の静かな空間は、何なのだろうかと思った。
窓際で飲む一杯のコーヒーがうまかった。
そうだ。あのイギリス館のわきの広い薔薇園は、いろいろな種類の薔薇がいまごろ絢爛とした花盛りを迎えていることだろう。
汚れちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる
汚れちまった悲しみに
なすところなく日は暮れる・・・・
(中原中也)