「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

和歌山城「爺3人・紀伊半島1周の旅」其の4

2018年08月31日 23時16分00秒 | 
和歌山城「爺3人・紀伊半島1周の旅」其の4



Tさん宅前、この車で紀伊半島2泊3日の旅に出発。
いよいよ旅が始まります。

20日の17:00にJR茨木駅集合した3人はTさんの車で万博公園の周辺をドライブした。
Fさんが勤めて山の上のテレビ局、跡地やTさん勤務の研究所など、懐かしい場所をドライブし、Tさん宅に。

Tさんおもてなしの料理を肴に飲み会。
お互い、酒量も減りました。
明日に備えて早めに就寝。



全行程をFさんとTさんが交互に運転してくれた。
大阪近辺の混雑や紀州の山や海岸線など、僕では無理だ。
お二方、お疲れ様、そして、有難う御座いました。

紀伊半島は紀州(和歌山)と伊勢(三重)。
地図上で確認すると半島の首根は西側が堺市、東は松坂市辺りだ。

紀伊半島の殆どは、旧紀州藩で紀州徳川家は徳川家康の十男徳川頼宣を家祖。
水戸徳川家の初代藩主・徳川頼房は家康の十一男で、正に兄弟だ。
水戸人としては敬意を表し、和歌山城を訪ねなければならない。

阪和自動車道路は間もなく和歌山辺りの右側の海中に関西空港が見えてくる。
空港は大阪よりも和歌山に近いと知った。

和歌山城
和歌山北ICを降り、紀の川沿いの道を進むと、山の上に城の姿が遠望できる。
紀州徳川家の居城は虎伏山(とらふすやま・標高48.9m)に立っている。



カーナビが案内した「不明門脇駐車場」は石垣に囲まれた枡形の中。
いかにも城郭の中、見事さに圧倒された。



案内板に添って、石垣の脇の階段を登る。



切り立った石垣があちこちに。
暑さの中、やっとの思いで、天守閣の下に。





天守閣などは1958年(昭和33年)に鉄筋コンクリートにより再建された。
写真を撮り忘れた、或いはうまく撮れそうにないからあきらめたが、川に囲まれた平地に聳えたつ山上からの眺望は城を構えた理由がよく分かる。



二の丸御殿
江戸城本丸御殿を模していたため、表・中奥・大奥に分かれていた。



御橋廊下
藩主が生活している二の丸と、庭園がある西の丸をつなげる傾斜のある橋。
江戸時代の図面をもとに復元され、実際に通ることができる。



西之丸庭園
紅葉渓庭園とも呼ばれる藩主の隠居所であった。
城の北西麓という地形を活かし、鳶魚閣や二段の滝が設けられている。
江戸時代初期の遺構を残す大名庭園として、国の名勝に指定。



豊臣・浅野時代の石垣には刻印された石垣石。
模様は約170種類、2100個以上、その大半が和泉砂石である。



石垣の前のお二人。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都・祇園辺り「爺3人・紀伊半島1周の旅」其の3

2018年08月30日 19時14分55秒 | 
京都・祇園辺り「爺3人・紀伊半島1周の旅」其の3



八坂神社:全国祇園社の総本社。
四条通りの突き当たりに建つ朱塗りの楼門は、八坂神社のシンボル。
ここに立つと、京都に来たと実感する。

骨董の世界に入門して10年位、京都と奈良を繁く訪れた。
神社や仏閣が次々と立て替えられ、修復が進んでかっての趣が失われる前に見て置きたいとの念が強かった。
勿論、博物館や美術館で名品を拝観するのも楽しみだった。

奈良の各地を訪ね、京都に宿をとった。
定宿としたのが八坂神社裏の辺りの小さな旅館。
今回は訪ねなかったが、錦の市場で食料を仕入れ、部屋で食べたりの愉しみもあった。
おっさん一人がやっている居酒屋なども旅の旅情。



新橋通り、町並みが保存されて、いかにも古都の佇まいだ。

新門前から縄手通りには骨董・古美術商が軒を連ねていた。
この日は、月曜日ということもあってか、休業の店も多く、閉店してしまったところもある感じで、古美術の世界は幾分寂しい感じもする。



縄手通りの古美術「柳孝」
伝説的な古美術商ゆえ敷居が高く、外からウインドを眺めるだけ。



器、花、掛物が素晴らしい。

以前に、先輩に連れられ何度が店内に入ったことが有る。
客の要望に従い、番頭さんの手で、次々を品物が運び込まれた。
在庫の多さに驚いた。



四条通りの古美術「近藤」

信楽の大壺の魅力を世に広めた店だ。



今でも見事な信楽の壺が。



須田剋太の書作品。
絵も書も、素晴らしい。



「赤井南明堂・京都店」
奈良の赤井南明堂の弟さんの店で、仏教美術関連が多い。



祇園切通の「おいと」

カウンタ―席だけの小さな店だが、一見さんお断り。
京都風なシステムだが、合理的な面もある。
最初は紹介者が責任を持つ、と言うことで後は自己責任。

骨董商の案内で行き、カウンターの奥の掛物と器に生けられた花に魅了された。



偶々、雑誌に紹介されたものを切り抜きで保存して有ったのを写した。
その良さの一部でも伝われば、

外と店内にある「おいと」の看板の灯具。
魯山人作と聞いたようにも思いが、真偽は不明。

今も使われている、であろう器は荒川豊蔵の息子さんの「水月窯」。
料理に合わせ、使いこまれた美しさも魅力だった。

入り口傍の椅子に坐った「おいと」さん、と思われる着物姿のご婦人が客をあしらっていたが、

ここ何十年と行ってないが、再訪したいとの念は強い。
京都に数泊した際でもないと、難しい。



高瀬川沿いには、昔ながらの落ち着いた店も多い。

何れにしても日中だから、夜の風情はない。

京都駅から大和大路~東大路。
東山・祇園辺りの懐かしい処を貸自転車で巡った。



東本願寺の本堂は流石に巨大。



貸自転車を返却し、待ち合わせのJR茨木駅を目指し、JR京都駅。
京都駅を降りれば、市内電車が走っていた時代から大変わり。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東山散策「爺3人・紀伊半島1周の旅」其の2

2018年08月29日 15時59分07秒 | 
東山散策「爺3人・紀伊半島1周の旅」其の2



念願だった東本願寺の別邸・渉成園の書院式回遊庭園は一部は改修工事であったが、豊臣秀吉が築造した、京都を取り囲む「御土居」の遺構が園内に存在しているのを知り、京都の街歩きの楽しさを再確認した。

京都国立博物館・門及び旧本館。

片山東熊の設計になる煉瓦造平屋建て、フレンチルネサンス様式の建物。
1897年(明治30年)に開館した。
この歴史的な建物は文化財として保存されている。
何時まで使用されていたのか?内部に入った経験はない。

それに代わる、常設館が耐震化の必方から取り壊され、平成知新館(谷口吉生設計、着工2009年1月31日・竣工2013年8月)が開館。
約5年経過したが、未だ入館の機会がないままだ。
この日(㏳)は月曜日で残念ながら、休館日。



豊国神社から国立博物館西側の巨大な自然石などを積んだ石垣。
かつての大仏殿の石垣の遺構だが、とてつもなくでかい。



豊国神社(とよくにじんじゃ)
神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る。
豊臣家滅亡とともに徳川家の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の勅命により再興された。



国宝・唐門
元は南禅寺塔頭金地院にあったもので、豊国神社再建にあたって金地院から移築される。

方広寺(ほうこうじ)
豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として木食応其によって創建。
現在は狭く堂宇もわずかだが、当時の敷地は広大なもので、妙法院はもちろん、現在の豊国神社、京都国立博物館、そして三十三間堂の敷地をも含むものであった。



方広寺梵鐘、廃絶につながる逸話の多い梵鐘らしい。
大和大路通りを北上し、五条通りを横切る。





踊り念仏で知られる空也ゆかりの、六波羅蜜寺。
空也は、平安時代中期の僧で阿弥陀聖、市聖、市上人と称される。



六波羅蜜寺の空也像。

首から鉦を下げ、鉦を叩くための撞木と鹿の角のついた杖をもち、草鞋履きで歩く姿。6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられている。
この6体の阿弥陀像は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。

この姿の像が沢山あるが、それらの中のオリジナルともいわれるのでぜひとも拝観したいと思っていた。
確かに、鎌倉時代の肖像彫刻として秀でている姿だ。



建仁寺(けんにんじ)は臨済宗建仁寺派大本山の寺院で、臨済宗を伝えた栄西を開山とする。
俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渉成園「爺3人・紀伊半島1周の旅」其の1

2018年08月26日 21時35分55秒 | 
渉成園「爺3人・紀伊半島1周の旅」其の1



中・高時代の同窓生三人で、年に1度は旅をするようになった。
Fさんの快気祝として大阪の法善寺横丁の「正弁丹吾」で食事会を開いた。
「これから先どれだけの命か分からないから、元気なうちに旅をしよう」.

との話がきっかけとし、東京湾1周・琵琶湖1周・伊豆半島1周と旅を重ねた。
今年は「紀伊半島」を一周することに。
集合はTさんの宅の最寄り駅「JR茨木駅」に夕方5時集合。
自宅を6時に出発し茨城空港発に。



スカイマークの神戸便・茨城空港7:35~神戸空港8:50着。

ポートライナーで三宮へ。



神戸市内や摩耶山・六甲山。

神戸空港やポートアイランドは全て埋め立て地。
ポートピア'81(神戸ポートアイランド博覧会)が開催される数年前(76年ころか)子供達を連れた夏季旅行で立ち寄った際は建物をほとんど見かけなかった。
その頃を思えば、想像もつかない大発展だ。

スカイマークの就航で、札幌・博多・神戸を経由する旅が便利になったのは有難いことだ。
他の航空会社を含め、便数が増えるようであれば嬉しい。




三宮からJR京都駅に。



浄土真宗・大谷派「東本願寺」



道路の反対側の「京都みやびや」で貸自転車を借りる。
大体の旅で貸自転車を利用する。
時間が大幅に短縮され、目的地に到達する道中も楽しい。

東本願寺の別邸・渉成園(しょうせいえん)



9世紀末に嵯峨天皇の第12子・源融が奥州・塩釜の風景を模して作庭した六条河原院の故地とされる。
付近に今ものこる塩竈町や塩小路通などの地名は、その名残りという。

寛永18年(1641年)、徳川家光から東本願寺に寄進される。
承応2年(1653年)、石川丈山によって書院式の回遊庭園として作庭される。

これらの歴史を有する庭園、念願が叶った。



西門の正面にドーンと目に入る「高石垣」
切り石・礎石・石臼・山石・瓦など、多様な素材をくみ上げた石垣。



周囲に枳殻(カラタチ)が植えてあったことから、「枳殻邸」(きこくてい)とも通称される。



この築山を含め、園の北東から南西につながる島などは豊臣秀吉が築いた「御土居」の跡と言われる。

「御土居」に関してはブラタモリの放送で知ったが、高低差や自然の構造を上手く利用し短期間で作り上げた豊臣秀吉の計画は見事なものだ。]





池と数棟の茶室、書院などが巧みに配置されている。



「塩竃の手水鉢」
全国の同様の手水鉢の本歌(オリジナル)と言われる。



「塩竃」
横穴の底に「井筒」(いづつ・井戸枠)、その形が塩を製造する塩竃とそれの屋に似ているとして呼ばれたが、現在は水は枯れてしまった。





「縮遠亭」
北大島の高台に建つ、眺めの良い茶室。



「傍花閣」
楼門作りの個性的な建物。



南大島を望む「印月池」には睡蓮の花が。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊藤涼太郎選の華麗なボレーで勝利。

2018年08月19日 06時23分04秒 | 水戸ホーリーホック
伊藤涼太郎選の華麗なボレーで勝利。




水戸ホーリーホックの8月はアウェイで徳島と福岡に2連敗。





7月29日愛媛を迎えて4∸1で快勝して以来、久し振りのホームゲームは千葉を迎え、勝ち点3を狙いたい。

黄色のユニの千葉のサポーターはかなりの数がスタジアムを埋めた。
観客数が6122人だったが、2千人は千葉のサポか。

一進一退、どちらも点が入らず。



ハーフタイムに水戸商工会議所・南部ブロック提供の“必勝花火”

花火の御利益か、終了間際、後半に投入された伊藤涼太郎選手の華麗なボレーで待望の先制点を奪った。



その後はGKも含めた猛攻を受けるも、1-0で終了した。
水戸のGK松井選手も再三の好セーブ。



決勝点を上げた遼太郎は今シーズン9点目でチームトップ。

後半投入されたバティスタ選手は長身で足も速く期待できそう。

順位は12位に上昇し、一桁も射程内。
9月1日(土)は首位の松本だ。


このゲームは「水戸市民の日」で水戸市民。通学の学生は無
料。
チーム開設以来の超満員で応援したい。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾畠春夫さん(78)はボランティアの鑑。

2018年08月18日 15時30分09秒 | ボランティア
尾畠春夫さん(78)はボランティアの鑑。





山口県周防(すおう)大島町家房に母親らと帰省し12日午前から行方が分からなくなっていた同県防府市の藤本理稀(よしき)ちゃん(2)が15日午前6時半ごろ、近くの山中で見つかった。
発見したのは大分県からボランティアで駆けつけた尾畠春夫さん(78)。
日本中が心配した2歳児は、3日ぶりに奇跡の生還を果たした。

県警などが連日150人規模の態勢で捜索したが、見つからなかった。
幼い命を救いたいと大分から駆け付け、わずか20分ほどで発見したのだ。

尾畠さんは40歳で登山を始め、60歳前に由布岳登山道の整備ボランティアを始めてからボランティア歴約25年のベテラン。
60代半ばまでは、大分県内で鮮魚店を経営していた。

各地で災害が起きるたびに足を運び、遺品探しや泥かきに汗を流してきた。
11年の東日本大震災では発生当初から約2年間宮城で復興活動。
16年の熊本地震や昨年7月の九州北部豪雨。
今年の西日本豪雨が発生した際も被災地に駆けつけた。

軽ワゴン車に食料や水、寝袋などの生活用具を積み込み、助ける相手側に迷惑をかけないのが信条。
「自己完結するのが真のボランティアだ」と言う。
活動費は自分の年金から捻出している。

行動力だけではない、その信念にも称賛が集まった。
理稀ちゃんの家族から食事や風呂を勧められたが、断固として断ったのだ。
尾畠さんのボランティアとしての流儀がある。





ニュースを断片的に繋ぎ合わせたが、ボランティア活動の鑑としか言いようのない清々しい人物だ。
歳も78歳で私も同じだが、山道の歩き方や被災地で活動の姿などは50代の人以上かもしれない。
精神も肉体も並外れて若々しい。
尾畠さんの存在を心に刻み、己の日々の行動の道標としたい。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

杉浦時彦さんの眼「骨董・新古美術・我楽多余市」余聞

2018年08月16日 13時02分43秒 | 水戸今と昔
杉浦時彦さんの眼「骨董・新古美術・我楽多余市」余聞



水戸市の上市で、お洒落で元気な洋服屋さんグループを展開している「AT WORK GROUP」。
グループを率いる社長・杉浦時彦さんの感性は鋭い。
会社主催の「春祭・夏祭・秋祭・冬祭」など、お祭り大好き人間。
8月3日から5日までの「水戸の黄門まつり」も大忙しだった。

そんなこんなで「骨董・新古美術・我楽多余市」に顔を出す暇がなかったが5日までの会期が一日延長したので、最終日に御来廊。



僕の黒い「絽」だか「紗」の着物をえらく気に入って「俺も着たいんだよ」
白の丸首シャツが見えてしまっている、だらしない着方なのに。
“だらしなく、グダグダとした着方が、僕の着こなし”と言い訳。
本業の洋服ばかりでなく、着物にも大いに興味あり、らしい。



まず眼を留めたのが、日本でも有数の古美術蒐集家であった山上鎮夫さんが手作りした連弁。



この作品について大須賀発蔵さんが僕の個人誌「雑艸」に「掌(てのひら)の連弁」を寄せている。





土器や土師器などの土ものにも関心あり?



中國の宋時代や韓国の磁器の写し、といってもかなり程度の良い作品など。



洋画家・鷲田新太(1900‐1977)の「俑」は僕の大好きな作品。



水戸懐かし保存会の根本英樹さん登場。
今回の集いに何度も来ていただいた、有難う。



ウズベキスタンで購入した敷物の上に並んだ、多数の我楽多。

モノは金銭的な価値が優先することではない。



1987年発刊のエッセイ集「直しや雑記帳」と1994年発行の個人誌「雑艸」



「直しや雑記帳」発行の記念にと福地靖さんが贈ってくれた、僕の肖像。
当時は頭髪も髭も沢山で、背中を丸めた悪い姿勢は今も変わらず。



川又南岳さんと友人のドイツ人の作品。
川又さんには、個人誌「雑艸」の題字を書いて頂きました。
創刊2号まで出ましたが、其の後は休止状態。



竪琴を奏でる木彫の楽人像。
後藤一彦さんによれば、南方産の銘木・タガヤサンであろう。との説
Wikipediaによれば、タガヤサン(鉄刀木)は、タイ、インド、ミャンマー、インドネシアなどの東南アジア原産。
唐木のひとつで、代表的な銘木で、表面に黒褐色の面と少し淡い金色を帯びた筋が通ることによる縞模様がみられ、この金色を帯びた黄色い筋は横断面にも見られる。
に適合しているように見える。

今回の展示物で一番謎の多い品だ。
Emiko Sasakiさんは、髪形や文様からして西域のものであろうと。
確かに衣服の文様は中央アジアの匂いが。

●これらの写真は全て杉浦さんだFBにアップしたものをコピーし説明を加えた。
飽くなく、全てに興味を示すのが彼の特徴で原動力なのだ。

注)上市・下市(うわいち・しもいち)

8月11日、水戸南町の「茨城新聞 みと・まち・情報館」で「再発見!坂道と水辺が織りなす水戸の風景」と題して「水戸まちづくりの会」事務局長の須藤文彦さんが講演した。
その際「水戸の上市・下市という呼び名が最近、最近は使われなくなった」との話を聞いて、妙に納得した。
水戸駅を中心として、駅南や北口、耳にするが「上市・下市」の復活が「中心商店街の活性化!」などのお題目よりピンとくる。
暫くぶりに使用することに決めた。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八月十五日(水曜日)

2018年08月15日 21時53分14秒 | 水戸今と昔
八月十五日(水曜日)








この欄の4枚の絵と文章・並びに俳句は画家の福地靖さん。
僕の尊敬する絵描きさんであり俳人。

1945年8月14日、政府はポツダム宣言を受諾し、翌15日の正午、昭和天皇による玉音放送によって日本が無条件降伏したことが国民に伝えられた。
これにより第二次世界大戦が終結した。

水戸が空襲に遭った8月2日の前に父方の親戚に疎開し、空襲の体験がないまま終戦を迎えたが、その時は4歳で記憶はほぼない。

焼け野原にバラックの家屋が建ち、各自の家では空き地に畑を作り、ナスやトマト、カボチャなどを作った。

白米を食べる機会はなく、米よりムギやサツマイモが多い食事だった。
当時を振り返れば、現在の暮らしは王侯貴族に勝る。

戦争体験の無い人が多数を占める世の中だが、戦争は絶対に許されない行為だ。

8月13日~8月15日は月遅れのお盆で、先祖を供養する日。
我が家は新暦で7月だが、季節感とすれば8月が適しているようだ。
午前中に新盆を迎えた親戚の佛さまをお詣りした。







午後からは茨城県立歴史館に。
明治元年(1868)から150年。
「見て学ぶ明治展」





明治43年に利根川や那珂川流域が水害に遭った。
特に茨城県の南部や西部に大きな被害を与えた。
今年の西日本の水害は大惨事だったが、この水害もかなりの大規模。



常磐線に面した蓮池が花盛り。

大賀ハス(オオガハス)は、1951年(昭和26年)千葉県千葉市検見川(現・千葉市花見川区)にある東京大学検見川厚生農場で発掘された種が広がった。
「縄文時代の船だまり」だったと推測されるので「縄文蓮」と呼ばれる。
太古と変わらぬ美しさを、毎年楽しめることはこの上ない喜びだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木村 功さんの眼「骨董・新古美術・我楽多余市」余聞

2018年08月14日 10時17分42秒 | 水戸の今と昔
木村 功さんの眼「骨董・新古美術・我楽多余市」余聞



『izumi gallery』入り口。

円筒埴輪の残欠にヤクシマススキとムクゲを生けた。
暑いのと伐った後の処理が悪く、水が上がらず。
花は毎日生け替えたが、1日と持たなかった。

水戸市泉町2丁目スマイルタワー3階『izumi gallery』で7月27日~8月6日まで開催された「骨董・新古美術・我楽多余市」。



期間中は多くの方々にお越しいただいた。



何人かの方々がブログやFacebookに投稿されたが「水戸市くろばね商店会」で喫茶・花留談を営む木村 功さんは偕楽園、弘道館をはじめ市内各地で開催されるイベントなどの詳細をカメラに収め「くろばね商店会」のHPに発表されている。
水戸市内のイベントなどの撮影ではプロの写真家をしのぐ質量と思う。

7月29日に来廊された写真を拝借し、それらに順不同となるが簡単な説明を付け加えた。

正面の竪琴を奏でる楽人像。
木彫だが出生は不明。
訪れた後藤一彦さんによれば、南方産の銘木・タガヤサンであろう。
Wikipediaによれば、タガヤサン(鉄刀木)は、マメ科ジャケツイバラ亜科[の広葉樹。
タイ、インド、ミャンマー、インドネシアなどの東南アジア原産。
唐木のひとつで、代表的な銘木で、表面に黒褐色の面と少し淡い金色を帯びた筋が通ることによる縞模様がみられ、この金色を帯びた黄色い筋は横断面にも見られる、に適合している。

今回の展示物で一番謎の多い品だ。
Emiko Sasakiさんは、髪形や文様からして西域のものであろうと。
確かに衣服の文様は中央アジアの匂いが。

画家の福地靖さん、片岡洋一さん、



彫刻家の木内克さん、後藤清一さんなどの写真やデッサンなど。



別冊太陽「101人の古美術」平凡社刊。
日本を代表する古美術蒐集家の一人として山上鎭夫さん が掲載されてある。

水戸市梅香に在住した眼科医。
ご自宅を訪問して蒐集品を拝見させて頂いたことが度々ある。
埴輪の残欠はコレクションの一部ではない。



土器・須恵器など。
それらの土ものに野草を生けて楽しんだことを回想して。

今回は花の少ない時期、縄文土器に名残のシモツケソウを挿しました。

筧次郎さんに影響を受けて無農薬の畑を試みました。
友人の畑をタダで借りて休日菜園。
雑草だらけで「雑草園」と自称した。



10年ほどでギブアップしたが其の記録を本にしようと,画家の福地靖さんにカットを依頼し、見事な絵と文章を5枚書いて頂きました。
残念ながら資金不足で本には成らなかった、思い出の作品群。
今回の展示でも、好評でした。



福地靖さん、川又南岳さんの作品。
川又さんには、個人誌「雑艸」の題字を書いて頂きました。
創刊2号まで出ましたが、其の後は休止状態。





須恵器・弥生土器・土師器など。

花写りの良い器だが、暑さで日持ちしません。



今回はモノと、それにまつわる「お話の場」。
月刊水戸編集部の上田さん、水戸懐かし保存会の根本さんと。



サントピアの洋服「直し屋」にまつわる雑文集、
『直しや雑記帳』B6判224頁・1987年刊。



泉町2丁目の中央ビルで開かれた『直しや雑記帳』出版記念の集いを報じた「新いばらきタイムス」の紙面。
300人が参集し盛大に行われた。
“あんたが主役”のいい気分でした。
30年前の話です。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「骨董・新古美術・我楽多余市」余聞

2018年08月13日 19時03分25秒 | 骨董・古美術
「骨董・新古美術・我楽多余市」余聞



「木彫の恵比寿像」
東京浅草「浅草寺」脇の磯蔵酒造直売処・日本酒文化専門店・窖(あなぐら)の店内に安住の地を得た。

水戸市泉町・スマイルタワー3階で7月28日~8月6日まで開催された「骨董・新古美術・我楽多余市」はFacebookのみの広報(一部の友人には電話連絡も)だったが、多くの友人に来ていただいた。
来訪者によるFBやブログにアップされ、会場の様子など良い記念になった。

「モノを肴にした語り場」ではあったが、「蒐集品の身の振り先」の意味合いもあった。
磯蔵酒造ブログ【蔵人日記】の2018年08月07日「蒐集家の宿題」と題した記事は、過分なお褒めの部分もあるが「モノを肴にした語り場」
「蒐集品の身の振り先」など、当初の狙いを理解した内容なので、蔵主の磯貫太さんの了解を得て、全文を転載させていただくことにした。

磯蔵酒造ブログ【蔵人日記】の2018年08月07日「蒐集家の宿題」全文。

『買物が苦手な私は、モノを集める習性は持ち合わせていないが、しかし、モノを捨てるのも苦手なので、身の回りは、高校生くらいからの本やレコード盤を始め、中には今やサイズ的に着れない衣類まで、かなりの数の「お気に入り」で溢れかえっている状況。
カミサンこそ、そう言う事を五月蝿く言う性格ではないが、ワタクシに何かあった際に「誰が片付けるのか?」を考えると、気が重くなる。

そんな先日、ワタクシが高校生の頃より遊んで頂いている、とてもファッショナブル(この言葉は彼のためにこそ有る!と断言しよう)で、個性的で、人間味あふれる友人(父と同世代だがあえて今回は友人と呼ばせていただき生意気を言おう)が、「骨董・新古美術・我楽多余市」と称し、長年集めた蒐集品の展覧会を開くというので、早速出かけて来た。

ギャラリーと称された雑居ビルの一室には、彼の80年近い人生を表わすかのように、彼が訪れた様々な場所、そして彼が関わったたくさんの人々、との思い出いっぱいな珍品の数々が処狭しと並んでいた。
魅力的な品々に「売るのか?」と訊けば、「欲しいと言うなら、その人間と話し、所蔵するに相応しいかどうかを判断する。値段は交渉次第だ。」と、恐ろしく高飛車な「我楽多余市」だ。

そんな展覧会で彼は、訪れた客に蒐集品にまつわる四方山話を嬉しそうに話し、時には客が差し入れる酒(彼は街で無類の呑んベエで知られている)を、待ってましたとばかりに、用意してあった(笑)ぐい呑みで、人生の機微を肴に一杯やりながら、そこにいた「友人を友人に紹介し友人にする事」を、心から楽しんでいるようだった。

そして、しばらくして気づいたのだが…しまいには「これはあんたに似合うな」とか「これはあそこに置いて欲しいな」とか言いながら、蒐集品の嫁ぎ先を強制的に決め、無料配布しはじめ…いや、そのほうが多いのではなかろうか!?

そうかっ!こういう身の回りの整理の仕方(彼はまだまだ元気ですが)があったのかっ!
カッコイイ男はどこまでカッコイインダ?!

と、心底感心したので…久しぶりに仕事とは関係ない長文を書いてみました。

因にワタクシは「お前は人と盃を交わしてばかりだからな」と、随分と時代のある「盃洗」と、
そして「浅草の窖に似合うぞ」と木彫りの「恵比寿さん」をお預かりした。

写真がその恵比寿さん。
浅草は「日本酒文化専門店 窖」で皆様のお越しをお待ちしてくださっております。
私が長年お世話になっている楽器屋さんが「良い楽器はお金を払って一時期借りているだけ。
一緒に墓に入れるなんてもってのほか。
必ず次の弾き手に渡す義務がある」と言っていたが…

これらを、何時、何処の誰に、どうやって引き継ぐのか…
それは彼が私にくれた大変な宿題。』
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

須藤文彦さん講演会@水戸南町「茨城新聞 みと・まち・情報館」

2018年08月13日 05時53分31秒 | 水戸の今と昔
須藤文彦さん講演会@水戸南町「茨城新聞 みと・まち・情報館」









8月11日(土)10時30分から、水戸南町「茨城新聞 みと・まち・情報館」で「再発見!坂道と水辺が織りなす水戸の風景」と題する講演会が開催された。講師は『水戸まちづくりの会』事務局長の須藤文彦さん。





平成11年3月に設立された同会は「上市に橋なし、下市に坂なし」という水戸に古くから伝わる言葉に注目し、水戸の歴史的遺産としての坂道と橋について調査研究を続けている。
「上市・下市」という呼び名も、水戸の独特な言い回しだが、最近では使われな傾向なのも寂しく感じる。

研究の成果を、平成14年3月に『水戸の坂道』として発行した。
平成23年に『水戸の橋ものがたり』の発行。
この度、およそ7年がかりで『水戸の坂道、水辺の風景』を上梓した。

須藤さんは、お笑い芸人が良く使う、パラパラとスケッチブックをめくる手法で分かりやすく解説した。









文化の定義・地質と水脈・水戸の三ハカセなど、広範囲にわたる話に満員の聴衆は魅了された。



学者でないからこそ出来ること、を実践した「水戸の三ハカセ」と呼ばれた三人の方々。

『明治大正の水戸を行く』 (1959年)の著者・前田香径さん。
『泉町物語』の著者・望月芳雄さん。



『水府巷談』『水府異聞』『水府綺談』の著者・網代茂さん。
新いばらきタイムス社の副社長として、記者の目と耳をもとにして水戸を描いた三部作は、水戸市史とは違った角度からの切口で水戸を知ることができる。

と三氏が書き残した著作によって往時のことを知りえる、と業績を称えた。



『彰往考来』は徳川光圀が唱えた。
「過去をあきらかにして、未来を考える」との意。



歴史を知ることにより、水戸誇れる町に、との願いが込められている。



聴衆として参加していた「水戸の井戸博士」西原 昇治さんが水戸の地層がいかに水を貯える地形であるか。
などを補足説明、台地でありながら1本の水路もなく、井戸のみで生活用水を賄った「水戸・上市」の地形と地層の特殊性をわかり易く解説。



ゆるく、毎月第一・第三土曜日に開催される「水戸まちづくりの会」。
次回の集いに参加の呼びかけもなされた。

聴講の多くが出席してみようと思ったに相違ない。

水戸南町「茨城新聞 みと・まち・情報館」では講演会やコンサートなどが毎月開催されている。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする