水戸の桜の再発見
「ポタリング」と云う言葉を最近になって知った。
自転車を用いる「散歩」的なサイクリング、自転車散歩らしい。
それなら、何時もしていることだが表現のしようがなく「チャリブラ」とでも呼ぼうと考えていたから、いい名前と思った。
「水戸桜川千本桜プロジェクト」から「水戸・桜・ポタリング2014」の案内を戴いた。偕楽園・千波湖畔から上流を散策し、桜の景色を眺め歴史を知ろうという試み。
4月6日(日)午前9時15分に護国神社の鳥居前に集合と云うことだったが、花の時期にありがちな前線通過で空模様が怪しい。
当日の7時頃に集合時間が9:45に変更になるとの知らせ。
その頃には雨も上がるでしょう、との読み。
予想通り開始時間には晴れた。
参加者は10数名、行動するには良い人数かもしれない。
護国神社境内に「一遊亭」の碑。
偕楽園創設時、対を成す桜山に「好文亭」と同様の「一遊亭」を設けるも、経費面の都合か、ほどなく廃棄されてしまったらしい。
「一遊亭」の跡地に茨城県護国神社が昭和16年に建てられた。
桜山から偕楽園方面を望むと、桜の花があたかも雲の様に見える。
今でも数本の松が残っているが、当時はもっと多かったようだ。
各地で桜の植樹は行われるが、松は少ない。
松の緑との対比が必要だ。勿論、コブシも。
桜山の北側の崖下「玉龍泉」。
当時としては珍しい噴水、近年再建された。
偕楽園内「左近の桜」。
かなりの巨木だが、子供の頃の記憶には無い。
昭和38年に植樹された、と記されている。
土地と手入れ次第で50年経過で見事な樹勢だ。
将来を考え、植樹の際に間隔を広く取ることが大切と思う。
偕楽園の南崖の下の池。
ユキヤナギと桜も素晴らしい。
膳棚、光圀時代の桜の名所。
当時は川幅も広く、龍が住むと云われた深い淵だったらしい。
流れが変わってしまったが、周辺はその当時を偲ぶことが出来る。
膳棚より少し下流に架かる「わかばやしばし」珍しい木の橋だ。
桜川遺蹟碑。
廃藩置県後は光圀由来の桜も少なくなり、流域も荒れてしまった。
大正4年(1915)川和田村青年会は桜川の名前の由来を知り、桜を復興させ、ことを書き記した石碑を建立した。
撰文は水戸中学の校長も務めた菊池謙二郎。
光圀由来の桜、見川小学校。
元禄10(1696)年、城に仕えていた老女高尾が亡くなり妙雲時で葬儀が行われた。一周忌に光圀の指示で植えられたという枝垂れ桜。
大木ではあるが、代を継いだ可能性がる。
森林保護団体の樹木医の指導で樹勢を回復した。
光圀由来の桜をみ見終わる頃、天候が急変。
俄かに真っ暗となり雨が降り出した。
雷雨を伴い雹も混じったが、ほどなく回復。
三々五々に終了。
護国神社境内に出店していた「水戸天狗党」(ソバ打ちのグループ名)のざるそば1枚を食べ、変な取り合わせだが、隣のケバブも食べた。
「偕楽園公園センター」での「能面展」を再度にわったって拝見し、約10キロ㍍のポタリングを無事終了して家路に。
水戸の隠れた魅力を発見できました。