「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

報仏寺は花の寺@水戸市河和田町

2023年04月06日 20時15分00秒 | 神社仏閣
報仏寺は花の寺@水戸市河和田町



水戸市河和田町の報仏寺は仁治元(1240)年に浄土真宗の開祖親鸞の直弟子のひとり唯円(ゆいえん)によって開かれた念仏道場が始まりで、唯円は『歎異抄』の作者とも言われる。
現在地は河和田城跡で南北朝時代に大掾氏の家臣によって築かれた。



現在地より南西に約500Mの原野が道場の伝承地とされ、1911(明治44)年住人達の尽力で整備され、碑が建てられた。





24輩の寺として多くの参詣者が訪れるが、枝垂桜の名所としても知られる。
4月5日に訪ねたが、今年は開花が早く、ほゞ散ってしまった。
しかし、隣の山桜の大木は見頃を迎えていた。









山桜の他にシモクレン・ユキヤナギ・山椿・ダイコン花・菜の花など季節の花が咲き誇る。樟の大木もあり若葉が匂うように茂っている。
手入れの行き届いた境内は何時も季節の花が咲いており、水戸一番の「花の寺」だと思う。しだれ桜は見逃したが、報仏寺をもって今年の桜行脚は一段落だ。
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笠間市宍戸の唯信寺・光明寺・完全寺の枝垂桜

2023年03月25日 23時26分23秒 | 神社仏閣
笠間市宍戸の唯信寺・光明寺・完全寺の枝垂桜

笠間市宍戸の唯信寺・光明寺・完全寺の三ヶ寺は隣り合わせに立地しており、枝垂桜の名所として知られる。花の時期はかなり混雑するが3月25日(土)は朝から小雨模様のうえに、肌寒さを感じる日で心静かにお参りできた。





真宗大谷派外森山唯信寺。
親鸞聖人24輩の一人唯信(ゆいしん)の創建。





堂脇には親鸞聖人の像が建っている。





接ぎ木か実生かは分からないが、大きい木から幼木までたくさん植えられてあり、枝垂桜の他にも椿や草花も多く、花の寺と言える。



隣接する光明寺、山門脇の巨木の樹勢は衰えた感じだ。





本堂の前の、もう1本の巨木は勢いがある。
手前に川端康成筆の「南無阿弥陀仏」の大きな碑。
どのようなご縁で建碑されたのだろうか。



光明寺から1軒離れて曹洞宗の完全寺が在り、「宍戸の桜3ヶ寺」の中では最奥に位置する。戦国時代の元亀元年(1570年)創建といわれ、山号は櫻華山。
入り口には柵があり、境内への立ち入りはご遠慮ください。
柵の手前から撮影。
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鹿島神宮@鹿嶋市宮中2306-1

2022年11月14日 11時46分20秒 | 神社仏閣
鹿島神宮@鹿嶋市宮中2306-1





鹿島神宮は『常陸国風土記』に鎮座が確認される東国随一の古社であり、日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する武甕槌神(建御雷神、タケミカヅチ)を祭神とすることで知られ、全国にある鹿島神社の総本社。
「神宮」と呼ぶことを許されたのは、伊勢神宮、香取神宮、鹿島神宮の3社だけともいわれる。
常陸の国に住みながら境内全部を巡ったことがない。
KさんNさんと連れ立って鹿島神宮~香取神宮を訪ねる機会をえた。







大鳥居の近くのサザンカ・クロガネモチ・キク。
どれも今の季節ならでは花や樹木だが「クロガネモチ」は奈良の古社寺で多く見かけるように感じている。
菊は種類も多く神社では「菊花展」が催される。



楼門
寛永11年(1634)、水戸徳川初代藩主の頼房により奉納されたもの。
旅立ちや人生の門出を指す言葉「鹿島立ち」は、奈良時代に東国(関東地方)の農民が防人として九州への出発を前に、鹿島神宮で武運長久を祈願したのが語源といわれる。





境内には、周囲を取り囲むように600種以上の木々が自生している。
シイやタブ、モミなどの樹林は「樹叢(じゅそう)」と呼ばれる。
本殿は改修中で覆いがかかっていた。
本殿・石の間・幣殿・拝殿の4棟からなる社殿は、元和5年(1619)に徳川2代将軍の秀忠が寄進し、重要文化財に指定されている。
本殿は改修中で、良く拝観できなかった。





奥宮
現在の社殿は、慶長10年(1605)に徳川家康が関ヶ原戦勝の御礼に現在の本殿の位置に本宮として奉納したものを、その14年後に新たな社殿を建てるにあたりこの位置に遷して奥宮とした。







要石
えこれが!と思うくらいに小さい。
地中深く、地震を起こす鯰の頭を抑えていると古くから伝えられる。
鹿島神宮、香取神宮、三重県伊賀市の大村神社、宮城県加美町の鹿島神社などだけらしい。「御座石(みますいし)」とも呼ばれる。





御手洗池
大きな湧水池で参拝する前に禊をする場所。
古地図の「船着き場」なので、ここから本殿への参拝が始まったのだろう。
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三嶋神社@那珂市本米崎

2022年03月16日 21時33分47秒 | 神社仏閣
三嶋神社@那珂市本米崎





古民家レストラン「元屋敷」から徒歩10分位のところに「三嶋神社」が在る。
創立年代は不明だが久慈川を望む台地の先端に位置し、境内には小さな古墳もある。創建時は川沿いに在ったが、洪水などにより現在地に移ったらしい。
この辺りは古来、東北方面への要所であった。
祭神は大山祗命(おおやまずみのみこと)

桜田門外の変に加わった水戸浪士の一人である海後 磋磯之介《かいご さきのけ・文政11年(1828) - 明治36年(1903)》は三嶋神社神官の四男。
事変の後、各地に潜伏。明治維新後、警視庁や茨城県庁などに勤務した。
退職後は、神主を経て水戸の自宅で没した。享年76。





スダジイ(推定樹齢800年・樹高17m・目通幹周囲9.2m。市指定天然記念物。)



中門の左右にもスダジイの巨木がある。



洋画家・福地靖(1933-2019)は第二次大戦末期、父・徳の実家の神崎村本米崎(現・那珂市本米崎)での疎開生活を余儀なくされた。
鎮守の三嶋神社から徒歩で10分足らずの場所なので、境内を遊び場としたかもしれない。
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一遍上人@清浄光寺(通称遊行寺)

2015年02月26日 07時52分44秒 | 神社仏閣
一遍上人@清浄光寺(通称遊行寺)





藤沢には、鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派「時宗」の清浄光寺(通称遊行寺)が在る。
伊予国(現在の愛媛県)に生まれた一遍上人は、浄土宗を修めたのち新しく独自の宗旨である時宗を興した。
とは言え、一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、独自の踊念仏という信仰を生み出し、全国を遊行して貴賤を問わず広く念仏を勧め、民衆の布教に努めた一遍とその仲間は「時衆」と呼ばれ各地で活動したから、何処が本山と云う考えは薄かったようだ。



法灯を継ぐ人を「遊行上人」と呼んだが、三十二世遊行上人他阿普光は、天正19年(1591年)に常陸国の佐竹義宣に招かれ、水戸に水戸藤沢道場(後の神応寺)を建立し、時宗の本拠とした。
今は南町だが旧町名の「藤沢小路」はその名残。こうして短い間だが、遊行派本山となった。当初は寺号がなかったが、清浄光寺再興を受けて寛永10年(1633年)に神応寺と改称し、延宝8年(1680年)に現在の元山町の地に移転した。



その様な所縁の寺なのでお詣りしたが、寺宝として有名なのが「一遍上人絵伝」一遍聖絵(いっぺんひじりえ)または、一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん)。
長時間たって編集される高僧伝と異なり、一遍死後10年に、一遍が遊行した足跡を再確認しつつ、記録を基に、聖戒が一遍に同行した時衆と共に再踏破した後に書かれた物であり、資料的価値が高いので国宝に指定されている。

全巻を観た記憶はないが多くの本に掲載されている。

清浄光寺蔵なのだが、法蔵館に常時展示されているかは未確認。



20年位前に鵠沼在住の友人を訪れた際にこの寺を一度、お詣りした。
今回、二度目だが奈良や京都の他宗の本山と比べると質素なものだ。
関東と関西の信仰心の多少によるのか、宗派として在り方に拠るのか。
僕は寺社仏閣を訪れた際、何かを願う気持ちよりも、「生かせれて有り難う御座いました」申し上げることが多い。
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