「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

幡谷唯深遺稿集

2023年12月23日 23時52分47秒 | 本・雑誌
幡谷唯深遺稿集





2023年12月18日(月)午後1時から水戸信願寺第26世住職・幡谷唯深師の葬儀が水戸市緑町の信願寺で執り行われた。



香典のお返し品として、サザコーヒーの詰め合わせと『幡谷唯深遺稿集』が贈られた。
住職は珈琲と煙草が好きだった。



『幡谷唯深遺稿集』は(A5版・187頁・著者:幡谷唯深 発行者:幡谷洋子)

第1章 仏教のこと
第2章 俳句のこと
第3章 随筆
第4章 晩年の詩より
第5章 手すさび漫画
付録  原始仏教における縁起説

*編集は故人の兄の筧次郎さんが能っただけに、さすがと思える遺稿集だ。

毎日、帰宅してはページを捲り耕三さんの人となりを思い起こしている。
読み進むごとに、凄い人だったんだ!の念が起こる。
感想は山ほどあるが、耕三さんから笑われそうなのでよしておく

鵤工舎によって建設された本堂の落慶法要を自らで執り行うことはなかったが、実質的な本堂のお披露目が葬儀であったのは耕三さんらしいのかもしれない。
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長久保赤水 七十歳の家訓——千古一業に生きる

2023年12月19日 19時55分36秒 | 本・雑誌
長久保赤水 七十歳の家訓——千古一業に生きる
佐川春久(長久保赤水顕彰会会長)月刊誌『致知』2024年1月号








三百有余年もの昔、常陸国に生まれ、本格的な日本地図を製作。
江戸庶民の経済活動や幕末の志士に道標を与えたのが儒学者・長久保赤水である。
学問分野を跨ぐ偉業は国内外で尊敬を集めるも、明治維新を境に歴史に埋もれてきた。
自筆の地図に「千古一業」(千年万年、永遠に残る一大事業)の印を捺した赤水。
40年の歳月をこの顕彰に捧げる佐川春久氏の語りから、稀有なる先人が命を燃やした大事に迫る。



佐川春久・長久保赤水顕彰会会長
昭和24年東京都築地生まれ(テレビプロデューサー・タレントのテリー伊藤とは幼馴染だった。)47年22歳の時、茨城県高萩市に居を移し、市役所に奉職。広報広聴係での市報制作等を通して長久保赤水の事績を知る。平成24年長久保赤水顕彰会会長(三代目)となり、県内外で講演、新聞寄稿を多数行う。監修を務めた映画『その先を往け! 日本地図の先駆者長久保赤水』がYouTubeにて公開中。



長久保赤水 享保2(1717)~享和元(1801)年
享保2(1717)年、常陸国多賀郡赤浜村に農家の長男として生まれる。幼名は源五兵衛。15年郷医鈴木玄淳の許で学ぶ。明和5年学問の功により水戸藩の郷士格に取り立てられる。安永8年『改正日本輿地路程全図』完成。安永6年より水戸藩六代藩主・徳川治保の侍講となり、江戸に常勤する。
儒学、天文学、地理学等を広く修め著作多数。
帰郷後の享和元(1801)年85歳で死去。



▼独創の人 長久保赤水
▼二人の母から授かったもの
▼寸陰を惜しみ 五感で学ぶ
▼学問は何のために修めるのか
▼農民から藩主の侍講へ駆け上がった赤水
▼栄達も本懐にあらず 学問は人のために為す

【長久保赤水 家訓】
「それ孝は徳の本なり。わが子孫よろしくこれを行ふべし……この語に事へず、専(もっぱ)らひそかに利を貪(むさぼ)り、色に溺るる者はわが子孫にあらざるなり。欽(つつ)しめや」



*月刊誌『致知』は創刊以来、有名無名を問わず、各界各分野で一道を切り開いた人物の体験談を紹介している。書店では扱わない直販制で定期購読者数115,689名。
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大曾根克彦さんを偲ぶ会

2023年02月14日 10時30分17秒 | 本・雑誌
大曾根克彦さんを偲ぶ会
@雑貨と珈琲の店 たけうち(水戸市泉町3丁目)
2月18日(土)夕方5時から会費無料
多くの方々のご参集をお待ち申し上げます。






大曾根克彦さんは茨城新聞社、産経新聞の記者を経てタウン誌「月刊みと」の編集人を務めた後、1982年からフリーランスとなり多くの分野に渡る執筆活動を続けました。
常陽芸文センターの機関紙『常陽芸文』の仕事はフリーになると同時から携わり、茨城県及び近隣の歴史・文化・自然・人物などの掘り起こしと紹介に努めました。
しかし、編集者としての取材・執筆活動なので署名記事は少ないので、多くの業績は表には出ておりません。

2021年に発病し、根治困難な病と知り、遺書代わりの回顧録めいた断片を書き始めました。
以来、1年の短い期間であったが、自己の人生と昭和という時代の記録を織り交ぜ『極私的昭和』を自費出版することになり、仮製本に目を通した1月12日に、容体が急変し帰らぬ人となってしまいました。
まもなく、遺族から友人知人に完成本が送られました。

5歳の時の連合国司令官マッカーサー元帥の帰国のラジオ放送を聞いた体験から始まり、父母・祖父母のルーツ、出生地である現在の水戸市下国井町での生活、高校・大学、そして新聞記者からフリーの文筆業。
自己の暮らしの体験と昭和の歴史が織り交じった逸話の数々。
テーマごとに読みきりなので、どこから読み始めても良い構成になっています。
『画家・福地靖小論』や「日めくり俳句会」の有力なメンバーで社会を鋭く切り取った俳句の自選200句も掲載されています。

水戸・茨城の昭和史として貴重な著作ですが、自費出版で市販されてはいません。何部が印刷されたかも分かりません。
書店などで販売することがあればと願うのですが、現在のところ予定はなさそうです。
『極私的昭和』を今流行りの「クラハン」での出版の可能性を考えることを含め『月刊みと』『常陽芸文』のバックナンバーなども読みながら、大曾根克彦さんを偲ぶ会を開きます。
大曾根さんと面識のなかった方々のご参加も大歓迎です。

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大曾根克彦著『極私的昭和』を読む。

2023年02月07日 21時32分45秒 | 本・雑誌
大曾根克彦著『極私的昭和』を読む。
2月18日(土)午後5時から7時・出入り自由
@ギャラリーたけうち(水戸市泉町・雑貨と珈琲の店たけうち2階)








『極私的昭和』の「あとがき」には《2021年の師走に発病し、入退院を繰り返す。根治困難な病と知り、死を覚悟した。病院のベッドで遺書代わりの回顧録めいた断片を書き始めた、とある。
5歳の時の昭和26年(1951)、日本を占領していた連合国最高司令官マッカーサー元帥が解任され、日本を去るラジオ放送を聞いた記憶から始まる。



『極私的昭和』とタイトルにあるように自叙伝を縦糸にしながら、昭和という時代の世相を横糸に織り込んで話が展開する。
テーマごとに読みきりなので、どこから読み始めても良い構成になっている。

水戸の昭和史として貴重な著作と思うが、残念ながら自費出版で市販されてはいない。書店などで販売することがあればと願うが、現在のところ予定はなさそうだ。
何方かが「出版記念」或いは「偲ぶ会」等を企画されると思うが、取り敢えず思い出などを語り合う場を設けた。
大曾根さんと面識のなかった方々のご参加も大歓迎です。
*会費は無料ですが、コーヒーなど何かお飲みいただき,「各自でお支払い下さい。
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『極私的昭和』大曾根克彦著(2023年1月)

2023年01月31日 23時41分04秒 | 本・雑誌
『極私的昭和』大曾根克彦著(2023年1月)





表紙・裏表紙





目次



自選俳句200句(1990年~2022年・308頁~336頁)

奥付

茨城新聞社、産経新聞の記者を経てタウン誌「月刊みと」の編集人を務めた後、1982年からフリーランスとなり多分野にわたる執筆活動を続けた。
常陽芸文センターの機関紙『常陽芸文』の仕事はフリーになると同時から参加し茨城県及び近隣の歴史・文化・自然・人物などの紹介、発掘と掘り起こした。

画家・福地靖さんを尊敬し、交流は長きにわたった。
『福地靖とその時代』をテーマに単行本の刊行を目指していた。
本書においても55頁に渡り論じている。

福地さんと同様に「日めくり俳句会」の有力なメンバーで社会を鋭く切り取った俳句も多かった。巻末に自選200句を掲載している。

それぞれの頁を読み進めると大曾根さんの声が聞こえるようだ。
大曾根さんの文章は、日頃の語り口が文章に成っている。
読み進めば、沢山の思い出が連なる。

僕が大曾根さんと知り合ったのはタウン誌『月刊みと』4号(1973年)の頃に始まるから約50年に及ぶ。
1981年1月號から『身辺古玩』のタイトルで骨董にまつわる話題を写真付きの見開き頁で紹介する企画を持ち込み、1年間連載する無謀なたくらみを実現した。
俳句と古器に季節の花を挿して写真を撮影した。
ニコンのカメラまで購入するほどに入れ込んだが、いい思い出で、雑文を書くキッカケとなった。

一月尽私的昭和の本届く 破髯斎
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『水戸先賢烈士と其墳墓』福地徳 編(1929・昭和4年:杉雨樓書屋)

2023年01月25日 10時13分14秒 | 本・雑誌
『水戸先賢烈士と其墳墓』福地徳 編(1929・昭和4年:杉雨樓書屋)







「自序」によれば

水戸の「常磐原墓地」と「酒門原墓地」の両墓地は二代藩主の光圀より賜った先哲烈士の墓所であるが、十分なる管理がなされていないことを嘆き、墓域の清掃や保持活動、墓地の案内道標を設置するなどの活動をしてきた。
水戸に来訪する方々への手引書として、墓碑の『何々の墓、誰某撰文、何某書』を一々実地の墓碑に行き、筆写した。
先哲を敬愛する念で墓参を重ねた結果で公刊の意思はなく、自己の参考資料として記録したものと記してある。
しかしながら、これは大変な労作であり、時代を経て現在は読めなくなってしまった碑文もあるから貴重である。







巻頭の8頁に渡って立原翠軒の肖像や墓地の写真が掲載されてある。



碑文は読み下し文で記されてあるので分かりやすい。



添付されてある墓地案内図。

「常磐原墓地」と「酒門原墓地」の他に神崎寺、本法寺、神応寺、祇園寺、などの墓地についても記されてある。



水戸藩の2代藩主・徳川光圀は儒教に基づく藩政を目指した一環として寺社改革を進め1665 (寛文五)年に法令を定め移転や取り壊しを行った。
同時に、僧侶によらない自葬祭を奨励した。
さらに『文公家礼』にもとづいて喪祭儀を解説した『喪祭儀略』を頒行した
儒式(神式の要素も加味)による葬祭の仕方・墓石の大きさや形態まで規定し、簡素化を勧めた。

*著者の福地徳は現在の那珂市本米崎に生まれ「常総新聞」(後に「茨城新聞」と合併)の主筆を務めた。「杉雨」と号し、能書家としても知られた。
小鉾田市紅葉に在る「宮山楓軒頌徳碑」(昭和17年・1942) の撰文と書も担当した。
子息の一人が洋画家の福地靖だが、時には水墨画などを描くこともあり、その際の落款は父親が愛用のした「杉雨」印と朱泥を用いた。
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『彼等自身』創刊号  大正14(1925)年11月1日発行

2022年11月07日 10時10分40秒 | 本・雑誌
『彼等自身』創刊号  大正14(1925)年11月1日発行



今から約100年前の大正14(1925)年に、旧制「水戸高等学校」に在学していた土方定一・小林剛と「茨城新聞」の学芸部長であった津川公治の3人によって総合文芸誌『彼等自身』創刊号が11月1日に発刊された。
編集及び発行所は津川公治の自宅であった水戸市荒神町(現・城東2丁目)に置かれた。表紙のレリーフはゴーガン。



扉絵 ゴッホのエッチング



『彼等自身』創刊号の目次



挿繪・ブレイク面型          デブヰル
ウイリアム・ブレーク(William Blake, 1757 - 1827)のライフマスク。 
ブレイクはイギリスの詩人、画家、銅版画職人。
1807年・50歳の時に骨相学者 Devlleが製作を依頼。自身の顔をキリストやソクラテスに似ていると称し「光を発しない貌は星になれない」と言いていた。
ブレークと同年に死んだベートーベンのデスマスクにも似た感じをうけるが20年前に制作されている。



クネルゲ博士の最後(小說)   ヘルマン・ヘッセ  日野 訳



左傾的文藝について(感想)    武者小路 實 篤



譯詩帖より(詩)         故渡邊康夫譯



『桃 源』と題した和紙に刷られた木版画は、小川芋銭 が描いた原画を彫刻家の 後藤清一が刻した作品。
芋銭の境地がよく表現された小品。



同人が「六號雑感」という共通のタイトルで感想を述べた部分もある。
「六號」が何指しているかは不明だが、小林剛の書いた文章に『彼等自身』創刊のいきさつが語られているので、一部を抜粋。

『折角 水戸に集った人がそのま別れてしまふのは、何だか惜 しい様な気がするので、此の雑誌を作る事にした。と云ふのは僕一人の考へからではなく、 生沼先生や中村先生からもの御奨めもあって、 土方や津川と相談の上、かうしたものを作って見た。
変に理屈をつければ、郷土芸術とも云ふべきものを、高等學校中心 にやって行かうと云ふのが、まあ目的と云へば目的だ。しかし、そこに 集った人が、特別に、水戸と云ふ土地に愛着を持たず、自分一個の境地に立って、自分の芸術を作ってみてもかまわぬと思ふ。何も窮屈 にして、郷土芸術を作らねばならないと云ふ事は少しもないのだから之は又、僕等が表紙絵や口絵に、あんなものを選んだ言譯にもなる。 とって、郷土趣味がうまく出てくれるなら、勿論嬉しくは思ふ。だから、この土地の古い事なども、段々に研究して行きたいと思つてゐる。矢張り、正しい伝統の上に立った方が、何処となく力強い様な気がする。 又、多くの古人が為した努力は、それ自身に於て存在値があると共に、人がそれをするのは富すぎる位の當然の事だ。勿論 それを学ぶぶべきか否かは、ことでは問題でない。』以下続くが同人誌というより『早稲田文学』のような学校を中心として永続させたい。というような考えであったらしい。
結果として『彼等自身』は大正14年11月から翌年3月まで5冊発行された。
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ブラヨーちゃん『声低く語れ』《佐川一信追悼集》を読む。

2022年09月19日 21時57分54秒 | 本・雑誌
ブラヨーちゃん『声低く語れ』《佐川一信追悼集》を読む。
9月24日(土)17時から19時
@雑貨と珈琲の店「たけうち」2階ギャラリー
参加は無料ですが、飲み物代は各自でお支払い下さい。








水戸市泉町の雑貨と珈琲の店「たけうち」の2階に「ギャラリー」が開設される。絵画・彫刻・写真などの展示のみならず、ミニコンサートや講演会など幅広いジャンルで利用できるレンタルホールとなるらしい。
会場の雰囲気や広さを多く方々に知って頂こうと『ブラヨーちゃん・番外編』として読書会を開くことにしました。







『声低く語れ 佐川一信追悼集』《2007年(平 9年)・佐川一信追悼集刊行会》 
元の水戸市長・佐川一信(1940-1995)さんが亡くなられてから10年を経てから編まれた追悼集で、執筆者83人のそれぞれの佐川感が605ページにわたって描かれてある。
写真も多く掲載されているからページをめくって眺めるだけでも良い。
読書会というより気軽なお話会で、時間内の出入り自由。
飲み物代は各自でお支払いください。

*佐川さんの著作には『市民からの出発』(水戸市民の会)、『ミネルヴァの梟が翔びたつ日―自主管理社会への模索』(毎日新聞社、1982年)、水戸発地方からの改革』などがある。
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『木内克の言葉』 和田敏文 著 発行:農山漁村文化協会

2022年08月02日 08時03分24秒 | 本・雑誌
『木内克の言葉』 和田敏文 著 発行:農山漁村文化協会
(人間選書) 1978(昭和53)年11月1日 233p








水戸市立博物館で「彫刻家・木内克のまなざし展」が7月23日~8月28日まで開催されている。
木内克は1893(明治25)年に水戸に生まれ、海野美盛に学んだ後に朝倉文夫に師事。1921(大正10)年より渡英・仏、フランスで15年間を過ごした。ギリシャのアルカイック彫刻に魅せられのテラコッタの技法を習得する。
1935(昭和10)年に帰国後は二科会、新樹会に発表した。戦後の活躍はめざましく、日本を代表する彫刻家となった。
1977(昭和52)年に85歳で生涯を閉じたが、82歳を迎えた1974(昭和49)年に第49回茨城国体のモニュメント「女神像」(高さ5.6m)を完成させるなど、晩年になるほど大作が多い。
‘75年’76年にはバリ島、台湾、タイへのスケッチ旅行をするなど、創作意欲は旺盛だった。





『木内克の言葉』(和田敏文著)は20歳で彫刻家を志し、生涯にわたり独立独歩の在野精神で貫かれ心のうちに触れることが出来る。
木内作品を扱っていた「ゆーじん画廊」の和田敏文が1974(昭和49)年から1977(昭和52)年までの4年間にわたり、制作を終えモデルが引き上げた午後6時ころから木内家の家族と夕食を共にしながら対話した筆録集 。
4年間の記録ではあるが、海野美盛に学んだ後、朝倉文夫に師事し、1921年より渡英・仏で15年間を過ごした時期を含め、戦前戦後まで多岐にわたる内容だ。





巻末には略年譜が記されているので、木内克の全貌を覗うことが出来るといっても過言ではない。
一日当たり半ページ、時には1ページくらいの短い文章だが、そこまで言って大丈夫?と思える「歯に衣着せぬ」発言はまっとうで、水戸人としての矜持をいかんなく発揮している。

*例として15頁から16頁を紹介すると。

『昭和四九年四月七日(日)〔木内克先生応接間〕
ぼくの先生の朝倉文夫には天性のある利口さがあった。無益な芸術論なンかする人じゃなかっ た。
朝倉文夫のことは「銅像や」というが、肖像彫刻としては一級品だ。その制作数だけを見ても、 やはり、大変な作家だといえるだろう。
気取ってばかりいた、高村光太郎なんか問題じゃない。

朝倉は金儲けにせよ、名誉であるにせよ、とにかく一生懸命、仕事をした人だ。 世の中では清水多嘉示や山本豊市のように、それぞれ「私はブルデルの弟子です。私の先生はブルデル」「私はマイヨールの弟子です。 私の先生はマイヨール」と、言った方が権威があ るし、画商もその方が得らしい。
ぼくなんかも時として、ブルデルの弟子・・・・・・などと間違って言われることがある。冗談じゃない よ。ぼくはただブルデルの研究所に通っただけで、弟子なかじゃない。
そのことだけはハッキリとケジメをつけなくちゃ………………。
ブルデルの弟子というと、世の中で高く買ってくれるのかね。そんなこと言うの、ぼくはイヤだよ。
ぼくは朝倉文夫の弟子なんだ。』

*『木内克の言葉』は水戸市立図書館、茨城県立図書館に収蔵されている。
借りてきて読まれることをお勧めする。

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元屋敷が「茨城新聞」に掲載された。

2022年04月24日 20時24分45秒 | 本・雑誌
元屋敷が「茨城新聞」に掲載された。



本日(2022年4月24日)の「茨城新聞」15面に『和膳で楽しむ庭園の四季』と題して那珂市の食事処「元屋敷」が掲載された。
築100年近い古民家で四季折々の庭を眺めながら、おひたしや煮物など素朴で飾らない家庭料理を味わえる店として、お気に入りの店が紹介されたのは誠に嬉しいことだ。



庭や料理のみならず、家族そろってのおもてなしが魅力だから、オーナーの海老沢昌俊さん(77)と妻の秀子さん(75)、長男の妻、文子さん(46)の御三方が満開の桜の中での写真も素晴らしい。



季節によってメニューが変わる、お任せ料理の米や野菜などは「なるべく自家 製を使用」しているが、器がほぼ骨董品に近い時代物の陶器や漆器であるのも魅力だ。

敷地内の江戸時代の樽を改修した「茶室」や、地元出身の画家・佐川 華谷らの掛け軸などを展示した ギャラリーも紹介されている。

「お出かけ情報」として略図や営業日時、電話番号まで記載されてあるから訪ねてみたい方は切り抜き保存しておけば役立つだろう。
この記事ではふれていないが、毎月5日に駐車場の一画で生活骨董「藻苅(MOGARI)」の器・古布の骨董市が開催される。
この日に限り、予約なしで500円の特別ランチが戴けるが楽しみ。

*「元屋敷 」:那珂市本米崎2014
営業時間は午前11時~午後4時(ラストオーダーは 午後 1時半)
▽定休日は月・火・土・日曜 ▽029(295) 8718 (完全予約制)
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『さくらー日本の美―』藤井正夫

2022年03月23日 23時11分28秒 | 本・雑誌
『さくらー日本の美―』藤井正夫
1976(昭和51)年 ジャパン・オブ・グラフィック社刊






写真集『さくらー日本の美―』(1976)と藤井正夫さん
「グラフィカ」写真展会場(常陽芸文センター・2022年3月23日)
この写真集は自分でも所持しておらず、思わず興奮。
仲間たちと興味津々にページをめくった。

1976(昭和51)年にジャパン・オブ・グラフィック社(水戸市南町3-4-5)から藤井正夫撮影の写真集『さくらー日本の美―』が刊行された。
縦37㎝×横26.5㎝・140頁の大判の写真集。
限定500部で定価12000円は当時として破格な出版だった。



北は松前城から南は磯庭園まで、全国50か所に及ぶ撮影に5か年を要した。
新幹線があまり整備されていない旧国鉄の時代、移動にも時間を要した。
花の時期に合わずに無駄骨だったことも度々。
映したネガは5000枚に及ぶ。













勿論、地元の弘道館も。















大地震に遭う前の熊本城も。



巻末の「日本人と桜」と題する、永瀬嘉平(1940年東京都生まれ、93年毎日新聞社を退社後はナチュラリスト、エッセイストとして活躍。)のエッセイも味わい深い。



奥付に出版当時の心情とプロフィール。
この後も桜に関する著書が多数出版され「さくら」の藤井と言われた。
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『水戸藩の御三家=結城・小山・宇都宮氏の興亡=』市村真一著

2022年03月13日 21時06分24秒 | 本・雑誌
『水戸藩の御三家=結城・小山・宇都宮氏の興亡=』市村真一著



御三家といえば、誰もが思い浮かべるのは水戸・尾張・紀州の徳川御三家。
確かにそうだが、水戸藩の中にも「御三家」と呼ばれた家臣がいた。
それは、結城・小山・宇都宮の三家で、いずれも鎌倉時代から続いた武家の名門だが、戦国時代の豊臣から徳川に政権が移るころ崩壊し、水戸徳川家の家臣となり、幕末まで続いた。





主題は「水戸藩の御三家」についてだが、目次に在るように頼朝の挙兵から幕末まで参考文献を駆使した子細な記述が40章、歴史に疎いから読み進めるにはかなり難儀で、飛ばし読み。
何だろう?と興味を掻き立てるテーマだけに、「読み物」として楽しめる本だったらと、少しばかり残念。

巻末に各家の墓所が写真で紹介されてある。
水戸市内、常陸大宮市、栃木県、福島県と北関東周辺に渡る。
何れ、これらを訪ねてみたい。
(本文から各家の興亡の概略の覚書を添える)



小山家の興亡
下野小山(栃木県小山市)を本拠とした名家。
平将門を滅ぼしたことで知られる藤原秀郷の末裔といわれる。
秀郷から八代目政光が小山四郎を名乗り、小山氏を起こした。
源頼朝が治承4年(1180)に挙兵したときは、大番役として京にいたが、息子の七郎を頼朝軍に参加させ、小山家は鎌倉幕府の有力御家人の地位を築いた。
南北朝、室町時代と紆余曲折を経て、戦国時代末期は上杉謙信と北条氏康から圧力を受け、当主秀綱は佐竹義重のもとに逃れた。
その後、天正18年(1590)戦国大名に幕を下ろし、江戸時代の寛文年間に水戸家に迎えられ、家老職など歴任。
幕末には諸生派に組し、家老職小四郎は明治元年(1868)獄死した。



宇都宮家の興亡
下野宇都宮(栃木県宇都宮市)が本拠の名家。
源頼朝の奥州征伐で活躍し、鎌倉幕府の有力御家人の地位を築く。
永正13年(1517)佐竹氏との戦闘に大勝利する。
戦国時代は、小田原の後北条氏と佐竹氏の対立を背景に、宇都宮・佐竹対小山・結城の抗争に発展、混沌とした政治情勢となる。
さらに秀吉の末期には当主国綱は朝鮮出兵し、軍功をあげながら浅野長政との関係悪化により改易され、二度目の朝鮮出兵に際し、秀吉に戦功次第で再興を許すといわれ、必死で戦いながら秀吉の死により再興叶わず浪人。
その子、義綱は寛永年中に水戸藩初代藩主頼房に仕え、以後、幕末まで水戸藩に仕えた。



結城家の興亡
奥州白河(福島県白河市)が本拠の名家。
小山政光の孫朝広の長男が下総結城氏、二男祐広が白河結城氏の祖。
一時、足利将軍家から白河結城家は南奥の覇者として扱われたが、親族の争いが続き、勢力が衰える。
永正7年(1510)内紛が起き、それに乗じて佐竹氏や岩城氏に所領を奪われた。白河結城家も親族小峰家が支配する状況にあった。
小峰結城家も秀吉の小田原征伐に不参加したことで改易、伊達政宗の配下となった。
本来の白河結城家は、晴辰が奥州中畠城主を退き、浪々の身となり、そのひ孫の晴定が天和3年(1863)光圀に仕え、以後、代々が水戸藩の重臣として活躍、寅寿のとき最も力を発揮したが、斉昭に処刑された。



天保の城下図



嘉永三年城下図(弘道館設立以後)

*(B5判、220ページ、1650円)
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「世界の書籍展」と今井田勲

2022年03月03日 20時22分10秒 | 本・雑誌
「世界の書籍展」と今井田勲
茨城・水戸展2022年3月2日~3月6日
@リリーアリーナMITO(青柳公園市民体育館)






水戸市水府町のリリーアリーナMITO(青柳公園市民体育館)において「世界の書籍展」(3月2日~3月6日 10:00~20:00)が開催されている。
創価学会の水戸展実行委員会が主催する巡回展の茨城・水戸展。



ルネサンス期の『プラトン全集』など古今東西の貴重本をはじめ、知の宝石と言われる“豆本”や、ユゴー、ゲーテ、シェイクスピア、ヘレンケラー、ナイチンゲールなど文豪・偉人の初版本や直筆などの関連物品を含め約300点が展示されている。
文書館・博物館のコレクションに匹敵する古今東西の稀覯本。
書名と名前は知っているが、読んだことがない書物ばかりで正に「猫に小判」これまでの不勉強を恥じるほかない。
機会をとらえて少しは読んでみるか!のきっかけにはなった。



身近に感じたのは豆本の蒐集家として知られる今井田勲(1915~1989の豆本コレクション約100冊と「蔵書票」の展示。

文化出版の編集者・出版局長として『装苑』に関わり『ハイファッション』『ミセス』『季刊誌・銀花』を創刊した。
女性誌の四種の神器と呼ばれる皇室記事・ゴシップ記事・セックス記事・実用記事を一切扱わなかったにも拘らず成功を収めた。
特に『季刊誌・銀花』は生活文化誌として、書物や工芸の分野の特集が話題を呼んだ。
「蔵書票」の紹介と普及に尽力し、特集も何度か組まれた。
今展の展示では作家に依頼した「今井田蔵書票」が展示されてあった。

*その影響で蔵書票を自刻し友人たちと交換する遊び事もやった。
*『銀花』《1号 (1970.春)-161号 (2010.春)》は10号辺りから買い始め100号くらいまで揃えたが、ほとんどを古書屋に売却、今ではいくらも残っていない。
工芸作家の展示などを主とした「銀花ギャラリー」にも度々足を運んだ。
等々のことに関した当時の友人達を思い出した。



ペリーが来航した際、幕府に献上した超大判博物図鑑『アメリカの鳥』(オーデュポン作の特別復刻版)
この作品だけは撮影可能。
背景に会場が写っているが、このような企画が体育館を会場として開催され以外に他の場所が無かったのだろうか?
宗教団体が主催と云うことなのだろうが、“もったいない”と感じた。
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茨城イチョウ百科『常陽藝文』2021年12月号

2021年12月05日 23時25分15秒 | 本・雑誌
茨城イチョウ百科『常陽藝文』2021年12月号



『常陽藝文』の特集が何をテーマとしたのか?毎号楽しみだ。
12月号は晩秋に美しい黄葉を見せる「茨城イチョウ百科」でこれまでには無かった企画だ。

寺社や学校・公園・街路樹など身近に存在しているにもかかわらず、黄葉の時期しか目立たないし、その実態もよく分からない。

イチョウ(銀杏・公孫樹)について様々な考察がなされている。
第1章 特異な生態・謎多い植物
第2章 人々の暮らしとともに
第3章 史実と伝説と―巨樹が物語るもの―
第4章 その存在は文献上どこまでさかのぼれるか







水戸市内及び茨城県内の銀杏並木や大樹の案内図。
成長の速い落葉高木。
幹回り3メートル以上を巨樹というが、各地に存在している。



銀杏の葉の防虫効果や薬用、また木材としての用途が注目されている。
「ギンナン」としての食用としてしられるが、イチョウの葉の長寿・生命力が注目されている。イチョウ葉のエキスを利用したリキュールなども製造されている。

幹に水分を多く含むので耐火性があるので、街路樹として最適だ。
水戸駅前・銀杏坂の大イチョウは空襲に耐えて復活した。



稲田の西念寺、水戸市の薬王院や八幡宮など、各地の巨樹が紹介されている。
各地に沢山あるが、サクラと同様に時期を外すと見事な姿は見られない。



史料や文献、詩歌、随筆などの文芸作品取り上げられているものは、等々。
先日火災で焼失した鳥栖の無量寿寺の「紙本著色拾遺古徳伝」は無事だったらしい。



「公園の手品師」はフランク永井が歌った歌謡曲で吉田正作曲・宮川哲夫作詞。YouTubeで検索したらシャンソンの様で親しみを感じる楽曲だ。
『鳩がとびたつ公園の 銀杏は手品師 老いたピエロ(後略)
1番から3番まである。







中国由来の八景でなく私の「水戸八景」を考え、遊んだことが有る。
「水戸城址土の銀杏」はその一つ。
しかし、土塁が破損した際の改修工事で幹を大幅にカットしたことや、周辺の景観も変化し,心の思いとは異なってしまった。

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『水戸の十字架』(小林 文華/著・坂田 章夫/編 茨城新聞社 1996)

2021年11月27日 20時20分22秒 | 本・雑誌
『水戸の十字架』(小林 文華/著・坂田 章夫/編 茨城新聞社 1996)






『今から三十年ばかり前、筆者がいはらき新聞編集局に居った当時、寺西恵然師が仏教の「愚禿親鸞」、弓野北峡老が「加倉井砂山」を書いたから、今度は基督教の読物を書けという社命である。
尊王攘夷で外来思想を排撃し 水戸であるから、基督文献などある筈がないという説が多かった。
元栃木県令吉見輝、元彰考館勤務清水正健、名城水戸中学教師漠然氏等は無いという側だった。
独(ひとり)県嘱栗田勤氏が水戸徳川家宝物虫干の際、切支丹遺物を見たことがあるというので、家令の福原脩さんに照会したところ、立原軒調べの切支丹遺物目録の写しを送って来た。これが意外にも世界的珍宝だったので、これを中心に資料を蒐集し、「水戸の十字架」と題して義烈両公の耶蘇研究を発表し、当時の基督教史学界に異常の センセーションを与えたのであった。」(後略)



切支丹法服念珠と帷帳を身に着けた小林文華(大正10年8月1日、水戸徳川邸にて)

小林文華(1892-1981・明治25~昭和56)本名・小林寅四郎が1921(大正10)年に起稿した「水戸の十字架」と題する著書の序文。
その後1950(昭和25)年に再録されたが出版には至らず、遺族の小林房枝・坂田章夫の両名により編・監修され1996年に茨城新聞社より出版された。
原文は「茨城新聞」の大正10年7月20日から同年12月1日付けまで5カ月にわたり、128回の長期連載となった。

第1章 水戸藩以前
第2章 梅邸宝物調
第3章 威公時代
第4章 義公時代
第5章 西教屏息期
第6章 烈公時代

全480頁に渡って資料を基に述べられているが、漢文で書かれている部分もあり僕の語学力では理解するのは難しい。
この書籍は水戸市立図書館より借りたが、興味を持つ専門家の論考を待ちたい。



切支丹本尊耶蘇像(徳川博物館蔵)

前述のようにこれらの資料原本は徳川博物館(現・徳川ミュージアム)の蔵品。
未発表の資料もある可能性もあり、何れの機会に展示されることを願っている。

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