「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

北島まひと書画展

2021年05月24日 23時28分40秒 | 水戸今と昔
北島まひと書画展
1981年(昭和56年)1月23~28日
会場:コロナ美術館




北島まひと氏は信州郷土料理の店「河和田山房」主人。
茅葺の古民家を何軒分も購入し、離れ屋を渡り廊下でつないだ隠れ家的な料理店を1960年頃に開業した。
水戸市内に喫茶店・バー・日本料理店などを経営し、何れも個性的な店だった。
それらを処分し、究極の店づくりに挑んだ。
古民具・古美術の収集品をインテリアとして大幅に取り入れ、あたかも旧家の離れに招かれた、かのような雰囲気を演出した。
知る人ぞ知る、という隠れ家のような店となった。

料理の腕前は当然だが、絵・書・作陶にも多芸な才能を発揮した。
天衣無縫な作風は「水戸の魯山人」と呼ばれることもある。
生涯を通じ、大小合わせると100回を超える個展を開催しただろう。



*「コロナ美術館」は現在の「茨城トヨペット・アートタワー水戸店」(水戸泉町2丁目)の所に在った。
名称は美術館だが、多目的な貸画廊で美術展以外にも貸し出された。
看板の書は、彫刻家の木内克であったと記憶する。
美術展や盆栽展など幅広い層に受け入れられた。



「新いばらき」1981年(昭和56年)1月24日
当時、茨城県内の地方紙は伝統ある「茨城新聞」と、戦後に創刊された「新いばらき」タイムスが競い合い、土浦には「常陽新聞」もあった。

「新いばらき」は町ネタが豊富で、このような個展も紙面の半分を費やして報じている。
投稿記事も大幅に掲載するなど、身近に感じる紙面だった・





北島正敏凸凹脱落書品展
1977年(昭和52年)10月14日~18日 
会場:伊勢甚百貨店3階催場
篆刻・焼き物・書・画など、枠にはまらない作品が多数展示された。

*「伊勢甚百貨店」は現在の「水戸京成百貨店」の所に在った。
国道を挟んだ北側には「志満津百貨店」(後に「京成志満津」~「水戸京成」)
「伊勢甚」と「志満津」が向かい合ってしのぎを競った時代を懐かしく思い出す人も少なくなった。
*「伊勢甚」の催事場では個展やグループ展が開催されることが多かった。
伊勢甚の美術・宣伝部門を担っていた岩田正の功績は大きい。



第25回北島まひと展「草々頓首」
1986年(昭和61年)1月29日~2月8日
泉画廊@水戸市泉町1-3-22 
協賛:布絵・今井美代、織・吾妻道子、織・櫻隆雄、茶・花 村山勉,大久保純子、

*「泉画廊」は水戸市泉町の小泉ビル(現・リリースクエアビル)の8階に在り、床面積も広く、個展・グループ店などにも使用されるなど、「相馬画廊」と共に、当時の水戸を代表する画廊の一つであった。

*会場でお花やお茶のパフォーマンスを行うなど、大勢の作家と協働の場とするなど、演出力にも才能を発揮した。





天衣無縫、権威をモノとしない野人、土臭い人間性。
骨董古美術の先達であった。
亡くなられて何年が過ぎてであろう。

新型コロナウイルス禍の影響で、外出を控え自宅で過ごすことが多くなった。
SNS上で過去の写真や読んだ本・レコードや映画などについて映像やコメントを記すことが流行ったが、チェーンメイルの要素が煩わしく、一段落した。
それに代わって、忘れていたものを見つけ出したが、処分する前に思い出の写真とコメントを付けるKさんの「実家の発掘シリーズ」。
「断捨離」の変形ともいえるが、こんな時代もあったと振り返る。

40年前の個展案内状や新聞の切り抜きの入った袋。
何の意味や価値があるの?と言ってしまえばそれまでだが。
過去は新鮮でもある。
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回廊ギャラリー門@笠間市笠間2230-1

2021年05月23日 06時18分25秒 | 美術展
回廊ギャラリー門@笠間市笠間2230-1





茨城県立陶芸美術館を中心とした「笠間芸術の森公園」の周辺はギャラリーやショップが並ぶギャラリーロード。
2002年にオープンした「回廊ギャラリー門」はこのロードの草分けだ。



店名の通り、中庭をぐるりと囲む回廊が展示空間で仕切りはない。



k5_20210523001113ee7.jpg





内装や什器は古材や李朝の家具を含めた骨董品が使用され、作家の作品と上手く共存した素晴らしい空間だ。



中庭にはヤマボウシが植えられている。
白い花が咲き競っている。
駐車場を含め、全てはヤマボウシだから見事だ。



中庭の鉢にはスイレンが植えられてある。
間もなく開花の時期を迎える。

偶々、2002年のオープニングの時に訪れたが、笠間移住の作家達が資金を出し合って共同の展示販売場を作ろうと、東京のデザイナーに建物を含めた内外装や什器まで、全てを任せて出来上がったとのことだった。





奥の部屋は個展用の展示室。
「和田由記子作陶展」(5月22日~28日)の初日だった。
22日・23日は混雑が予想されるので予約者のみ、とのことで入場は不可。
人気作家で即、完売らしい。
この不況と言われる時代だが、例外が有ることに驚く。



入口近くの壁面は箸の専門店「銀座 夏野」の箸や箸置き。



ガラス製品や雑貨などの小物類も取り揃えてある。

約20年を経過してもその魅力は増している。
「回廊ギャラリー門」は笠間で一番の
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雪村の碑@常陸太田市稲木町

2021年05月19日 12時25分41秒 | 人と作品
雪村の碑@常陸太田市稲木町



雪村の碑
水戸八景「山寺晩鐘」の碑は「西山研修所」の手前150㍍辺り、山道の左側の階段を10㍍登った平坦地が旧久昌寺三昧堂檀林・妙見堂の跡地にある。



寒水石に「雪村」の二字は、横山大観の揮毫による。
《昭和19(1944)年「雪村顕彰会」に依って建立された》

雪村は室町時代後期・戦国時代の画僧で雪村周継とも称した。
常陸国部垂(現在の茨城県常陸大宮市)に佐竹氏の一族として生まれるが、幼くして夢窓疎石を開山とする正宗寺に入って修行する。
雪村周継の「周」の文字は夢窓派の通字。

禅僧として東国各地を遍歴し、後北条氏や蘆名氏など戦国大名の庇護を受けた。
その生涯には不明な点が多く、生没年もはっきりしないが、『潭底月図』に「行年八十歳継雪村之図」とあり、80歳まで現役の絵師であった。



雪村自画像(重要文化財) 大和文華館蔵



呂洞賓図(重要文化財、大和文華館蔵)


*江戸時代の尾形光琳は、雪村の自由で伸びやかな筆致や作品全体に溢れるユーモアを特に好んだのか、雪村を深く敬愛し私淑した。
*明治時代以降は、橋本雅邦や狩野芳崖らに影響を与え、岡倉覚三(天心)も雪村を高く評価している。



雪村碑記
この様な雪村の業績を伝えるべく、瑞竜町沢山の耕山寺に住んでいたことが有る、との縁で地元常陸太田に「雪村顕彰会」が結成され、昭和19(1944)年に「雪村碑」を建立するまでの経緯などが刻されてある。

撰文; 武藤常介雪村顕彰会会長 武藤常介
書: 福地徳

* 福地徳は「茨城新聞」の主筆を務めた。
歴史にも詳しく『水戸先賢烈士と其墳墓』(昭和4年・杉雨樓書屋)を著した。
能書家としても知られ、小鉾田市紅葉に在る「宮山楓軒頌徳碑」(昭和17年・1942) の撰文と書も担当した。子息の一人が洋画家の福地靖)

*常陸の雪村に関する研究書として、小川芋戦の孫・小川知二著『常陸時代の雪村』(中央公論美術出版 2004年)がある。

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水戸八景「山寺晩鐘」@常陸太田市稲木

2021年05月18日 07時58分53秒 | 文化遺産
水戸八景「山寺晩鐘」@常陸太田市稲木





「水戸八景」は、水戸藩の第九代藩主烈公・徳川斉昭(1800ー1860)が天保年間(1833年頃)に領内の景勝地八ヵ所を選定し、藩内子弟の風月鑑賞と、八景巡りによる心身鍛錬とを意図して、石碑を建てた。
中国の「瀟湘八景」や日本の「近江八景」を手本に「夜雨」とか「落雁」などの八景名が、同じように使われている。

八景勝地の選定に当っては、烈公自身の意見が中心であったことは勿論だが、提出された案のうち、久昌寺の日華上人のが優れており、多く採用されたといわれている。

何れも自然石に、烈公自筆の雄渾な文字が刻まれている。



「山寺晩鐘」は旧久昌寺の三昧堂檀林(僧侶たちの学校)の跡地で、現在は「常陸太田市立西山研修所」地内の東端に建つ。



碑は縦長(高さ220㎝、横幅87㎝)の寒水石。

水戸八景を詠った烈公の和歌で『水戸烈公詩歌文集』に収められた「山寺晩鐘」。

◎けふも又くれぬと告げぬ鐘の音に身のおこたりをなげくおろかさ
◎つくづくと聞くにつけても山寺の霜夜の鐘の音ぞ淋しき

峯の上の東端で見晴らしの良い場所にも拘わらず、高く密に樹木が茂って見通しが良くないのは残念だ。
木を伐らないで密に伸ばし放題は、環境の保全に有効ではない

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久昌寺遺蹟@常陸太田市稲木町

2021年05月17日 12時55分53秒 | 文化遺産
久昌寺遺蹟@常陸太田市稲木町



跡地に立つ「久昌寺遺蹟」碑(昭和15・1940年)建立



真弓山の寒水石(大理石・建築材として国会議事堂や偕楽園の吐玉泉井筒にも使用されている)の碑面裏に由来が刻まれてある。



碑の脇の説明文。



周辺の概略図(顎鬚仙人作)
ブログ「顎鬚仙人残日録」2021年04月18日・「久昌寺…徳川光圀公生母の菩提寺」により、水戸藩2代藩主徳川光圀が生母の菩提供養のために建立した「久昌寺」の創建地が、現在地から南西方向の丘陵地に在ったことを知り、常陸太田出身の友人の道案内で訪ねた。


水戸藩の二代藩主徳川光圀は生母・靖定夫人(谷久子、法号久昌院)は水戸城下の日蓮宗経王寺に墓所が定められましたが、光圀は延宝5年(1677)の十七回忌に際して墓所を水戸徳川家墓所に瑞龍山へ移すことにした。
この時水戸城下の経王寺を太田の稲木村(現・常陸太田市稲木町)にうつし「靖定山妙法華院久昌寺」と改称し、久昌院の菩提を弔う寺院とした。

開山時の旧久昌寺は仏殿、法堂、位牌堂、多寶塔、方丈、食堂、鐘楼、山門、浴室など巨大な建築物があり、寺領は500石を有していた。
開山から6年後には僧侶の学校である三昧堂檀林が設けられ、盛時には3000人もの僧が学んでいた。
また、光圀は京都から日乗を招いて旧久昌寺の院代を命じ、寺務の総括をさせた。

*久昌寺摩訶衍庵の開基の日乗上人が1649年(元禄4)1月1日から同16年2月15日までのほとんど毎日書き続けた「日乗日記」は、13冊1041 枚からなっており、光圀の西山荘隠居後の生活のほか、元禄時代の世相風潮や生活の実態、気象などといった豊富な資料に満ちた貴重な記録。



三方を小山に囲まれ、南が開かれた跡地。
現在は農地と農家が散在する。
向かって左(東方面)に三昧堂檀林などが連なっていた。



北側の奥は墓地となっているが、最近のもので旧久昌寺の時代ではない。
山の北側に「西山荘」があり、東側の通路は洞窟をぬけ西山荘への通路だったようだ。(この通路は後日試してみたいと思っている)



現在の常陸太田市新宿町にある久昌寺本堂。

幕末・維新の混乱期に旧久昌寺は荒廃。
明治3年(1870)に旧久昌寺の末寺・蓮華寺があった場所に旧久昌寺もうつし、両寺院が併合して、現在の常陸太田市新宿町にある久昌寺となった。
この時の久昌寺本堂は蓮華寺の茅葺きの小さな本堂を利用しており、旧久昌寺の仏具を配置することも困難な状態。
そのような時、太田出身で函館で事業を成功させた梅津福次郎が本堂再建のために6万5000円を寄付し、その費用で立派な本堂が建立された。

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河和田城址@水戸市河和田町

2021年05月15日 20時40分34秒 | 水戸の今と昔
河和田城址@水戸市河和田町



河和田城址(報仏寺山門)
報仏寺は「歎異抄」の著者と目される唯円が、現在の寺地よりも南西約500mに開いた念仏道場が元禄2(1689)年に現在地に移ったといわれる。



河和田城遺構概念図(昭和60年現在)*水戸駅の観光案内所にて入手。
河和田城址は、北に天徳寺、西に河和田小学校、南西に八坂神社、南東に報仏寺などを含む東西約 510m、南北約600mにわたり、二重三重の濠や土塁をめぐらした戦国時代後期の平城の遺構がそれぞれの地に現存する。



広大な区域が県道59号(玉里水戸線)によって、南北に二分されている。
報仏寺脇の交差点、この辺りが大手口と目される。

河和田城は南北朝の時代、南朝延元元年・北朝建武3年(1336)頃に常陸大掾の家臣・鍛治彈正貞国(かじだんしょうさだくに)が築いたのが初めといわれる。
その子の貞基の時、下江戸の江戸通景に追放され江戸氏の支配下に。
この江戸氏は、かつて南朝方に属して活躍した那珂氏の子孫。
応永の33年(1426)江戸通景の子通房は水戸城を奇襲、時の城主・大掾満幹を府中(石岡)に追放、河和田城は家臣の春秋氏の居城となる。
天正18年(1590)、江戸氏が佐竹氏に滅ぼされるまでの約1世紀半、中妻33郷と呼ばれた水戸の西部を支配した。
佐竹氏が秋田に移されてからは、水戸には徳川家康の11子より頼房が入り、水戸藩の所領となり明治を迎える。



南端に位置する八坂神社。
鳥居の脇に野仏が集められて安置されて在る。



河和田小学校の敷地は、濠を埋め立てた跡地が大部分を占める。
反対側の「兵部屋敷」とは何の遺構?
この辺りの土塁や濠はかなり壮大で、戦国時代後期の姿を未だに留めている。
倒木が重なり、自然に生えた樹木が密であるが濠には水を溜めている。
戦国末期の土塁や濠がこれ程保っている例は稀らしい。
敷地は個人が所有しているのだろうが、公的に援助し保全すれば素晴らしい歴史遺産であることは間違いがない。
原状を確認する意味でも多くのに足を運んでほしい。

天徳寺は佐竹氏の菩提寺で、現在の祇園寺(水戸市八幡町)から正徳2年(1712)現在地に移された。
伝舜院跡と言われるが、



冠木門
天徳寺は岩間街道(県道30号・水戸岩間線)に直に面して駐車場が在るが、冠木門が在るだけで堂宇は見えない。門脇に土塁と堀が在る。



天徳寺山門
天徳寺は佐竹氏の菩提寺で、現在の祇園寺(水戸市八幡町)から正徳2年(1712)現在地の伝舜院跡に移された。



天徳寺本堂
火事で焼失後に文久2年(1862)に再建された。





山門から東に向かって、門柱や入り口の碑などを見つけた。
脇を渡里用水が流れている。
用水が設置された時、或は県道を拡幅された頃は、此方の通路使われていたであろう。
寺の参拝には順路が大切で、このルートの発見は新たな楽しみができた。

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唯円道場跡伝承地@水戸市河和田町榎本

2021年05月12日 19時13分32秒 | 水戸今と昔
唯円道場跡伝承地@水戸市河和田町榎本



「歎異抄」の著者と目される唯円(1222年- 1289年)は、親鸞(1173~1262)の直弟子で、1240(仁治1)年に常陸・河和田に念仏道場を開いたといわれる。
のち、この道場は少し離れた竹ノ内という所に移転して泉渓寺と称するようになる。1
690(元禄3)年に旧河和田城跡の一角に移されて報仏寺となり、現在に至っている。





唯圓房碑
久しく荒廃していたが、1911(明治44)年にこの地の住人達の尽力で整備されて碑が建てられた。

道場跡と伝承の地は、国道50号バイパスの南側に道場池又は心字池と呼ばれた処だが、ほぼ埋めたてられて田圃と雑地。
中央の木立の小さな森の中に在る。
田植えの時期のためなのか、周囲には水が溜まり中州のよう。





水戸駅の「水戸観光協会」の案内所で頂いた地図に基づき歩いた。
「道場池夜雨」への点線のルートは草に紛れて分からないので、木立を目指す。



「塩の道」
当時の道場に沿った通りは「塩の道」と呼ばれ、鹿島灘沿岸から内陸の下野(群馬・栃木)を結ぶ主要な通商路で、近くには市が立ち賑わっていたと言われる。



辻に小さな祠があり、台町焼の恵比寿・大黒像が供えられてあった。



50号バイパス方面からは入ることが出来ないが「高倉町珈琲 水戸店」の駐車場の南側の奥の方向中央の杜が遺跡。



駐車場に面した農家の納屋の壁面に「マキヨウイチ」作の大きな風景画。



ソーラーパネルの奥方面が遺跡。
この辺りまで池だった可能性がある。
今では市街地となったが往時の風景に思いを馳せる。

*親鸞(1173~1262)は健保2年(1214)配流の地・越後から常陸におもむき,笠間稲田郷に住んで他力念仏の布教につとめた。
常陸での20年余の間に「教行信証」の初稿を著し,多くの弟子ができた。
直弟子の一人である唯円の念仏道場を親鸞も訪れたに相違ない。
*唯円の晩年は大和国吉野で布教し、秋野川の近辺で没したといわれる。
*倉田百三著 『出家とその弟子』(岩波書店1918)は『歎異抄』をベースにして親鸞と唯円の師弟関係を軸に戯曲化した文芸作品。
一燈園やキリスト教の思想の影響も強く受けているとされるが、大正の新仏教が当時の青年からは熱狂的に支持されて大ベストセラーとなり「親鸞ブーム」を引き起こした。

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「アカシア」と「二セアカシア」

2021年05月09日 21時56分39秒 | 山野草
「アカシア」と「二セアカシア」





水戸市河和田町の報仏寺の旧蹟・道場池を訪ねるべく、岩間街道をチャリで向かった。
桜山と県立歴史館の間の跨線橋の脇に、白い花を房状に付けた木が何本も群生していた。
下から立ち上がった枝が舗道まで垂れ下がり、甘い香りが漂ってくる。
多分「アカシア」と思ったが、これほど間近に見たのは初めて。
帰宅してから調べてみた。

この花は「ニセアカシア」北米原産のマメ科ハリエンジュ属の落葉高木で和名はハリエンジュ(針槐)。日本には1873年(明治6)に渡来した外来種。
街路樹、公園樹、砂防・土止めになどの用途で植栽され、木質は枕木に使えるほど堅く、家具の材料等にも用いられ、薪炭材にもなる優れもの。
マメ科植物特有の根粒菌との共生のおかげで成長が早く、痩せた土地や海岸付近の砂地でもよく育つので、北海道では煙害による炭鉱跡の空き地などをはじめとして、分布が広がった。
花から上質な蜂蜜が採れるので、蜜源植物としての役割が高い。

その反面、ニセアカシアの侵入でアカマツやクロマツなどのマツ林、ヤナギ林が減少し、海岸域や渓畔域の景観を大きく改変させた。
単独で生物多様性を低下させるだけでなく、好窒素性草本やつる植物をともなって優占し、植生を独自の構成に変えてしまう。
各地の河川敷などで猛烈な勢いで野生化し、大雨時に流れを阻むことがあり、伐採作業をするも、生命力が強く取り除くのは困難、等々。
近年、危険外来種としての諸問題の一部らしい。

その辺りをFacebookにアップしたら「偕楽園東門に大木がありますよね。花の天ぷらが美味いといわれていますが、まだ食したことはありません。」とのコメントを顎髯仙人さんから頂いた。



東門の脇に行って驚いた。
桜にして然りだが、草木は花が咲いた時にしか気が付かないもので、東門の脇に
大木が3本立ち並んでいた。




育ち過ぎて、上の方はバッサリと断ち切られてもかなりの高さがある。
花は大方が咲き終わって、花びらが地面に散っている。



千波湖方面への崖際にも大木が1本在った。
(写真の中央、とにかく見上げる高さで注意しなければ見落とす)

「アカシア」と「ニセアカシア」の区別だが、
明治期に日本に輸入された当初は、このニセアカシアをアカシアと呼んだ。
後に本来のアカシア(ネムノキ亜科アカシア属)の仲間が日本に輸入されるようになり、区別するためにニセアカシアと呼ぶようになった。
しかし、アカシアは乾燥地性で日本の環境にはあまり適さずマイナーな存在に留まっていることもあり、今でも混同されることが多い。
本来のアカシアの花は放射相称の形状で黄色く、ニセアカシアの白い蝶形花とは全く異なる。

*西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」に歌われる「アカシア」
*石原裕次郎の赤いハンカチ」「恋の町札幌」に歌われる「アカシアの花」
*北原白秋の「この道」に歌われる「あかしやの花」
など「アカシア」と歌われている全ては「ニセアカシア」なので、単に「アカシア」と呼んで問題はなさそうだ。

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佐竹義宣と武将たち「中世佐竹氏の世界-千秋文庫所蔵文書から-」@茨城県立歴史館

2021年05月03日 11時45分36秒 | 博物館
佐竹義宣と武将たち「中世佐竹氏の世界-千秋文庫所蔵文書から-」@茨城県立歴史館
4月29日~6月13日








佐竹氏は平安時代後期から常陸国久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市稲木町周辺・旧佐竹村)を本拠とし、室町時代以来から常陸守護の家柄であった。
第19代当主の佐竹義宣は関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて秋田へ移封され、秋田藩初代藩主となった。
従って、佐竹=秋田と思いうかべるだろうが、発祥の地・常陸においては、今もって「佐竹は常陸」で「五本骨扇に月丸」の佐竹の家紋を掲げる神社・仏閣が多く、愛着が根付いている。




今回の展覧会は、佐竹氏に伝わった史料を収蔵・展示する「千秋文庫」のなかで、東京大学史料編纂所が近年に修理した「佐竹義宣に関連する古文書」等を中心に展観している。


*千秋文庫(東京都千代田区九段南2-1―32)
佐竹宗家に伝わった古文書・古記録・模写絵・古地図・古戦場絵図・城絵図・維新開国資料などの他、藩主所用の花押・印章類など約2300点が収蔵する。
佐竹家34代・佐竹義春の家令職を勤めた小林昌治氏は、当主より譲渡された資料を空襲の危機や戦後の混乱を乗り越え守り続けた。
後世に伝えようとの念で昭和56年(1981)に千秋文庫を設立した。




佐竹義宣の生涯
常陸・佐竹氏19代義宣は元亀元年(1570)佐竹郷に生まれた。
天正17年(1589)に父義重より家督を相続し、石田三成を介して豊臣秀吉との絆を強め、常陸国全域の支配を認められる。
天正18年(1590)江戸氏の水戸城を攻め落とし、府中(後の石岡)の大掾氏を滅亡させ、拠点を水戸に移した。
文禄3年(1594)の太閤検地に際し54万5800石の知行を安堵された。
秀吉没後の関ケ原の合戦《慶長5年(1600)》では、表面上は中立の立場を取ったが、その態度を良しとしない家康により、慶長7年(1602)5月秋田に移封を命じられた。同年7月に現地に赴くと、翌年から久保田城と城下の整備にかかる。家臣団も新進気鋭の者たちを要職に要職を任せるなど再編成。
検地や新田開発に取り組む一方、林業、鉱業も興すなど諸産業を育成に励む。
寛永10年、江戸において病没した。享年64歳。

天下統一の激変期から太平の世を迎え頃、義宣と武将の交流を書状などを通してうかがえる。



豊臣秀吉朱印状




豊臣秀頼黒印状/石田三成書状




徳川家康書状




徳川家光御内書/伊達政宗書状




黒田長政書状/藤堂高虎書状

(⁂何れも自筆で義宣宛)

御内書/将軍(大御所)が国持ち大名クラスに出す私信で、高級和紙である檀紙(大判)をもちいる。原則として書き止めが「候也」
朱印状/印判状(花押を用いない文書)のうち、朱印を押捺したもの。書き止めが「候也」となるなど、上意下達、かつ権威的である。
黒印状/印判状(花押を用いない文書)のうち、黒印を押捺したもの。書き止めを「謹言」とする場合もあり、上意下達だが、朱印状より権威的ではないとされる。
書 状/身分的にはほぼ同格の者同士で交わされた私信。書き止めは「「恐惶謹言」「恐々謹言」。


本展は文書が主体の地味な展覧会で、文書類を読解するのは難しいが、添えられた読み下し文で歴史上の人物に接することが出来るのは素晴らしいことだ。

江戸時代までは文書による情報の伝達こそが唯一の生命線。
インターネットで世界中と簡単に交流が可能な現代とは大違いであることを改めて考えるいい機会だ。


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