「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

渡岸寺の十一面観音@長浜市高月町渡岸寺

2016年08月31日 16時55分09秒 | 
渡岸寺の十一面観音@長浜市高月町渡岸寺
湖北の観音様を訪ねる 其の6




今回の旅の目的は「渡岸寺の十一面観音」を拝すること。
その他も、ほとんどが集落で守っているお堂が多く、拝観しようと思ったら事前に予約しなければないところ多い。
お寺と言うより地域の「観音堂」等で大切に守られことにより「観音の里」と呼ばれるようになった、その風土を幾分でも理解すること。

白洲正子『十一面観音巡礼』湖北は早春の雪に埋もれ、稲を掛ける稲架”の風景写真が印象的。
正反対の8月下旬、琵琶湖畔の早場米地帯は既に一部は黄金色で、既に刈り取られた田圃もある。
現在は刈り入れと同時にモミにしてしまうから、「オダガケ」の必要はなく、稲架けの柱も使われないのはいささか寂しい。



「渡岸寺(向源寺)十一面観音」
「渡岸寺」というのは集落の名前で、集落の人達によって観音堂に祀られ伝わってきた。国宝指定を受ける際に所属するお寺が必要で、近所の「向源寺」所蔵にしたことで、渡岸寺(向源寺)とややこしい呼ばれ方をする。



この日は夏休み中と云う事もあろう、地域の子供達による「冷たい飲み物」の接待所が在った。
子供の時から、この様なことを通して観音様と共存していることが良く判る。



この観音堂の脇に10年前頃に新たな収蔵庫が出来た。

現在はそこに祀られているが、以前に比べかなり広く、木の柵で囲われたている。
一回りして後姿まで拝観することが出来る。
月末に近い月曜日とあって、拝観者も多くはなく心行くまで眺めることが出来た。とはいえ、お姿なりを気の利いた表現で述べられないのは残念だが、心に留め置くことは出来た。

戦国時代、浅井・織田両軍の戦いで堂宇は焼失したが、本尊の十一面観音立像は土中に埋められて災禍を免れた、と伝えられる

高さ1.95m、平安初期の一木造。
身体を捻り右足を軽く浮かせている



後姿を含めて秀麗且つ官能的。



頭上の十一面、細心の工夫がなされている。



暴悪大笑相(ぼうばくだいしょうめん)の薄気味悪い笑いは強烈な印象が。



井上靖の『星と祭』や水上勉の『湖の琴』、にも描かれている。

国宝の十一面観音像は、日本全国に七体ある。
•室生寺(奈良)•法華寺(奈良)•聖林寺(奈良)•道明寺(大阪)•観音寺(京都)•六波羅蜜寺(京都)•向源寺(滋賀)。
道明寺•観音寺•六波羅蜜寺の3体は拝観していない。

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「国友鉄砲の里資料館」@長浜市国友町

2016年08月31日 05時50分29秒 | 
「国友鉄砲の里資料館」@長浜市国友町
湖北の観音様を訪ねる 其の5




長浜の観光地図に「国友鉄砲の里資料館」というのが、面白そうだから行ってみようと。






昭和55年(1980)、自治会の姉川リゾートリバー計画に端を発して、草の根の労働奉仕活動が発端で昭和62年(1987)にはこうした国友の歴史を伝える核として「国友鉄砲の里資料館」が開館した。という稀なる博物館だ。

先ず1階で歴史をDVDで鑑賞。
江州國友(滋賀県長浜市)は古くから刀鍛冶が有名な土地だった。
1544年(天文13年)種子島に伝わった鉄砲を知った将軍足利義晴が鍛冶氏國友善兵衛に鉄砲の製作を依頼したのが、國友鉄砲鍛冶の始まり。

1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで、織田信長は日本で初の鉄砲を使用した戦を行った。これは國友鉄砲鍛冶の製作で、火縄銃ブランドの地位を確立した國友鉄砲衆は、信長の下で量産体制に入った。

信長亡き後も豊臣秀吉、徳川家康の庇護のもと成長し、江戸時代には幕府直轄の銃砲製造所となった。
鉄砲の最盛期には、70軒の鍛冶屋と500人を越す職人がいた。



鉄砲は、銃身を作る「鍛冶師」銃床を作る「台師」と引金や火ばさみ部分(カラクリ)を作る「金具師」の3人(分業)で1挺の鉄砲が出来る。また、彼らは、年寄・年寄脇・平鍛冶と組織をつくり大量の鉄砲の注文に対応した。



鉄砲は口径によって細筒(小筒)・中筒・大筒・短筒・脇差鉄砲等幕末まで制作し、現存する火縄銃の大半は江戸時代中期から後期のもの。
見たことも無いような、大きく重いものもある。



火薬入れ、弾丸、等の付属品も展示されている。



国友の鉄砲鍛冶は全国に広がった。
常陸の国の水戸・笠間・土浦にも。
水戸や笠間の「坂場」はその末裔。

「戦(いくさ)」のなくなった「江戸時代後期」は「金工彫刻」「花火」へと「事業形態」の変更を余儀なくされた。



茶室の灯具に使われる「短檠(たんけい)」
徳川斉昭が編纂した「諸物会要」に灯具の「ねずみ 短檠」があり、国友一貫斎が納入した。現物が失われその図を基に復元された。との説明。
思わぬところで水戸の話。

旅は予定以外に楽しいことに巡り合う。

追記・稲葉 寿郎さんからのコメント

●国友家には水戸家が請うて分家があり水府系纂に国友家の名があります。国友家は水戸家鉄砲指南役です。
この水戸国友家に師事した宮田栄助がはじめた宮田製銃所は現在のミヤタサイクルにつながります。
●鉄砲衆集団として活躍した雑賀衆の棟梁の後裔・鈴木孫一がその後水戸家に仕えて重臣となったことも、きわめて重要なことですね。なぜ水戸家に鉄砲に縁ある二つの家を預けたのかが理由が知りたいところです。
鈴木家は諸生派だったために幕末悲惨な末路をたどり、本家筋は水戸を離れざるを得ませんでした。
●慶喜公の最側近として原市之進と並び称せられた水戸藩士梅沢孫太郎も水戸国友家出身。鉄砲だけでなく、儒学者もでていて国友尚克は弘道館教授頭取代になって常磐共有墓地にお墓があります。
分家の国友家は鉄砲鍛冶を越えて水戸藩にかなり定着しています

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安土城跡@近江八幡市安土町下豊浦

2016年08月30日 18時53分44秒 | 
安土城跡@近江八幡市安土町下豊浦
湖北の観音様を訪ねる 其の4






安土城は織田信長(1534-1582)が天下統一の拠点とした城で、天正4年(1576年)から約3年の歳月をかけ、五層七重の豪華絢爛な城として完成した。
天守内部は吹き抜けとなっていたと言われ、イエズス会の宣教師は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、ヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。
安土・桃山時代の幕開けとして築城されたが、織田信長が倒れた本能寺の変後、焼失し埋もれた。

平成元年より学術調査と整備事業が行われ、時折、発掘の情報が伝えられる。
天守閣への大手道の石垣。

1992年(平成4年) セビリア万国博に、「天主指図」を基に復元された安土城天主の一部(5・6階部分)が出展された、こと等々。



(この写真は駐車場脇の待合所に展示された模型)
NHK の特集番組でCGを利用した画面も放送されたこともある。

織田信長という類い稀な強烈な個性の持ち主が造った、朱色・青色・あるいは白色、そして最上層は金色と言う絢爛豪華な城も、残るは石垣のみ。

近江八幡市の郊外、標高199mの安土山の全山丸ごとが城跡。





明治頃までは琵琶湖が城を取り巻いていたが、その後、徐々に干拓され湖は後退してしまった。彦根城や長浜城も同様で、道路や田圃となった面積は可なりに思える。

上・下の地図を見比べて場一目瞭然だ。




安土城を400年にわたり管理してきたのが織田信長の菩提寺・臨済宗妙心寺派の摠見寺で、全山全てが摠見寺の寺域。
ここで入場券を買って入山する。



降りてきた女性に上まで登って戻ってくるまで時間を訊くと、1時間以上は必要らしい、
同行の仲間は、上まで行く気はないらしい。
1人で行って、1時間以上待たせるのも申し訳なく、残念だが断念した。
機会を改め、一人でも訪ねてみたい。

大手門址近くに居た、犬を連れた近所の方は「つい最近まで、何もなくて自由に散歩が出来た」と話していた。(調べてみると、2006年9月から城跡への有料入場になった)

その頃から発掘・復元が始まったのだろう。



あちこちに石垣が散見できる。
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ウィリアム・メレル・ヴォーリズ@近江八幡市

2016年08月29日 22時13分23秒 | 
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ@近江八幡市
湖北の観音様を訪ねる 其の3




比叡山のほんの一部を拝観しただけで奥比叡ドライブウェイを堅田方面に。
琵琶湖大橋を渡ると間もなく「佐川美術館」が在る。
昨年9月に訪れ、水面下の展示室に感激したので、再訪と思ったがこの日は月曜で休館日なので先を急ぐ。
琵琶湖畔を大津から湖北まで通じる道を「さざなみ街道」と呼んでいる。
この道路は戦後、びわ湖を干拓し新田開発したように見えた。

30分位走って近江八幡への分岐点。
近江八幡は近江商人のふるさと。

商人屋敷の建物が残っている一角に市営の駐車場。



駐車場の近くの「新町通り」3人揃って記念撮影。

文化財指定の大店や「重要伝統的建築群保存地区」もあったが、写真はなし。



八幡山のふもとの「八幡堀」
豊臣秀次が琵琶湖往来の荷船を寄港させるために整えた。
近江商人の守護神「日牟禮八幡宮」はすぐ近く。



「白雲館」は明治10年に八幡東学校として建てられた擬洋風建築物。
近江商人の子弟のための学校だった。現在、1階は観光案内所。



近江商人の主力商品のひとつは「蚊帳」(かや・見かける機会は少ないが、懐かしい)今でも商っている店があった。



ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)像

ヴォーリズは明治38年に八幡商業高等学校の英語教師として来日し、昭和39年に83歳の生涯を終えるまで彼は近江八幡市に留まり、キリスト教の伝道とその主義に基づく社会教育、出版、医療、学校教育などの社会貢献活動を続けた。

これらの事業を経済的に支えるべく多くの人々と力を合わせ、建築設計会社やメンソレータム(現メンターム)で知られる製薬会社・近江兄弟社などの企業活動を展開した。
生涯、個人資産を持たなかったヴォーリズの精神は、今の近江八幡市に脈々と流れ、全国の個人や団体に影響を与えた。
我が家の前の「フレンド教会・小友幼稚園」も幾らかの関連があるらしい。



本社ビル1階に「メンターム資料館」



旧八幡郵便局
ウィリアム・メレル・ヴォーリズの作品で大正10年(1921)建築。
スパニッシュと和風の町屋造りを折衷した、個性的なデザイン。



ヴォーリズ記念館
旧ヴォーリズ邸を記念館として開放しているが、月曜は休館だった。

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比叡山・延曆寺@滋賀県大津市

2016年08月29日 14時18分50秒 | 
比叡山・延曆寺@滋賀県大津市
湖北の観音様を訪ねる 其の2




四条烏丸のホテルの前でFさんをピックアップ、琵琶湖周遊の旅に出発。
Fさんの希望で比叡山に行くことに。
この旅は2泊のホテルはFさんの奥様が予約してくれたこと以外は時に応じて気楽に決める。

比叡山ドライブウェイで“延曆寺”に向かう。



ドライブウェイを登ると、稜線からは京都市内が望める。
御所の敷地の緑は広大だ。

比叡山は平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれたのは平安京の「北の守り」を担っていた。



東側に琵琶湖と大津の市街。
標高848mの比叡山全域を境内とするが、行政区域は京都ではなく滋賀県大津市。

「延暦寺」は単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称。



東塔(とうどう)
延暦寺発祥の地であり、本堂にあたる根本中堂を中心とする区域。
今度で3回目だが、このエリアのみ。
何れの機会にもう少し広い範囲を歩いてみたい。



西塔(さいとう)
釈迦堂を中心とした地域。鸞聖人等も修行した。



横川(よかわ)
四季講堂(元三大師堂)や日蓮上人修行の地。

東塔(とうどう)の大講堂・国宝館・根本中堂を拝観しただけだったが、ここだけの方が大多数だろう。



国宝殿
延暦寺の国宝・重要文化財などの収蔵・展示室。
季節ごとに展示替えもある。
これでもか、と言うほどあるが、良く分からず。



根本中堂(国宝)は最澄が建立した一乗止観院の後身。
現在の建物は織田信長焼き討ちの後、寛永19年(1642年)に徳川家光によって再建された。(国宝)
入母屋造で幅37.6メートル、奥行23.9メートル、屋根高24.2メートルの大建築である。
土間の内陣は外陣より床が3メートルも低い、独特の構造に驚いた。
観光客も少なく、僧侶がお経をあげている姿をじっくりと拝見が出来、いささか身が引き締まった思い。

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湖北の観音様を訪ねる 其の1

2016年08月28日 19時58分57秒 | 
湖北の観音様を訪ねる 其の1



東京藝術大学大学美術館で7月5日-~8月7日に開催された「観音の里の祈りとくらし展Ⅱ-びわ湖・長浜のホトケたち-」を観て、びわ湖・長浜の「観音の里」を訪ねたいと思った。
展覧会場の仏様は、明るい照明の下で良く観ることは出来たが、多くの仏様は土地の人達によってお寺と言うより地域の「観音堂」等で大切に守られたものが多く、その風土を体験したいと思ったからだ。
会場の入り口で「長浜・観音の里」のパンフレットが配布され、市役所の観光課の方も会場に居られた。






白洲正子の『十一面観音巡礼』(昭和50年・新潮社)の「湖北の旅」に渡岸寺の「十一面観音」が紹介されてある。『芸術新潮』に連載されたものが纏められ単行本となった。その頃(1975年)に友人3人と渡岸寺の辺りから小浜まで旅した。




渡岸寺を始め羽賀寺の十一面観音など、多くの観音像との出会いに感激したのに、詳しくは憶えていない。




今回は、近江八幡~安土城址~彦根~長浜~木ノ本~菅浦、更には竹生島などを予定したが、主に長浜市に属する。
更には、湖西線沿いに大津まで。琵琶湖を一回り、びわ湖の周りは全て滋賀県だ。

中・高校時代からの友人で、大阪在住のTさんと横浜在住のFさんに一緒にどうかと連絡したら、両氏とも8月下旬ならOKとの返事だ。
僕を含めたこの3人は60年に渡り、関西或いは関東・水戸で毎年とは云わぬが酒を酌み、旅をする、気心の知れた得難い友達である。

青春18切符で大阪に。

僕は21日の早朝4時30分、常磐線の水戸発で新大阪に向かった。
乗り換えること9回、距離は682㌔で「千里中央駅」に4時半着。
約12時間の行程だった。

「青春18切符」を何度か使うとこの位は気楽なものだ、

東海道新幹線の登場以降、多くの路線に新幹線が走るように成り便利になったが、走り抜けるだけでは、旅の風情は感じられない、と思うのだが。

千里中央駅でTさんと待ち合わせ、この日は彼の家に泊めて頂く。

横浜のFさんから「台風11号の影響を心配し、京都に入りました」と連絡がある。明日は東海道線に影響がありそうと、当初、明日の9時頃に大津駅で待ち合わせを繰り上げたのだ。翌日9時半頃に京都のホテルに迎えに行くことにする。

再会を祝し乾杯し、早めにやすむことに。

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8月28日(日)@水戸芸術館

2016年08月28日 11時39分03秒 | 水戸芸術館
8月28日(日)@水戸芸術館



南米初開催となるリオデジャネイロのオリンピックで日本人選手の大活躍と感動の名場面でいささか寝不足の毎日だった。
青春18切符を使用してのホーリホックの松本遠征の応援は引き分け、翌日は甲府に移動し観光。
14日は18切符での千葉から東京へ。
21日から25日まで琵琶湖周遊の旅、と水戸にいる時間が少なかった。
さすがに夏の暑さの疲れもあって26日と27日は家でだらだら。

今日は曇り空で涼しくもあり、水戸芸術館に。





入り口で「24時間テレビ」のテントが。
この様な番組のあり方に、いささか疑問も感じる。



「記憶の円環|榮榮&映里と袁廣鳴の映像表現」展
7月23日[土]~ 9月19日[月]は東アジアの写真と映像で過去から現在を観る展覧会だが、映像による表現は一目して分からないのでどうも苦手だ。








1階の「サザコヒー」で休憩。
この様な公共施設のレストランなどは採算が取れないので出店・撤退の繰り返しになるが「サザ」の義侠心に拠る営業に感謝。



広場のステージでは「24時間テレビ」関連、或いは関係なしかダンスの練習などが行われていた。



藝術館の道路の向かいのケーキ屋さんでシュークリームを。
ここは、何時もシュークリームが100円。
ついつい買ってしまう。

明日辺りは「迷走の大型台風10号」が関東に上陸の恐れ、無事であることを願う。
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Danny's Bar@「TIKI BAR TOKYO」

2016年08月27日 17時25分44秒 | バー
Danny's Bar@「TIKI BAR TOKYO」

新丸ビル7階(marunouchi)HOUSE内 「TIKI BAR TOKYO」で2016年8月10日(水)~14日(日) 17時~23時に開催された「Danny's Bar~東京の夜は世界でいちばん美しい~」はーテンダー歴40年の伝説的人物“デニー愛川”のライフヒストリーブック(倉石綾子/著)の出版記念イベント。

14日の最終日、17時の開店と同時に入店した。



カウンターの中にパナマ帽を被った方がデニー愛川さんのようだ。

アッシュ 青木岳明さんのFBでこのイベントを知り、門外漢であるが参加した旨を説明したら「そうですか、有り難う御座います、ゆっくりどうぞ」と優しく答えてくれた。気難しい方を想像していたのでほっとした。

「何になさいますか」とのことだが、デニーさんが長年開発に携わった“梅リキュール「星子」”を味わいたく一番シンプルな「星子ミスト」を注文。



クラッシュアイスに「星子」注いだだけ。
2本の細いストローが添えられているがこのストローもデニーさん考案によるものが一般化したようだ。



梅酒でなく“梅リキュール「星子」”と拘る意味が分かる。
普通の梅酒とはまるで異なる味、酒造会社と何年にもわたる試行錯誤の上に完成したという。



発売されたばかりの「ライフヒストリーブック(倉石綾子/著)」がカウンターの横に積まれているのを購入しサインをして頂く。

評伝の類だが写真入りでかなりお洒落な本。
著者の倉石綾子さんがまとめたが、多くの方のインタビューなどもあって、時代背景が良く判る。
とはいえ、1970年代頃からの東京のナイトシーン『GOLDの上のラウンジ、LOVE &SEXとか、ハーレー乗りが集まってバイク・コミュニティを築いたSTAR BANKとか、そしてもちろんビートニクス好きにはたまらないhowl』とかは僕には無縁の世界だから、なるほど、と思うほかはない。
ざっとめくって、帰途の電車で読むことにして、お話しを伺う。



脇に大判の写真集「Trippin' / Danny Aikawa」(2016年4月発売・¥6,800)も置かれてある。
1990年に愛車のハーレーと共にサウスダコタ州スタージスを目指した記録写真集。世界中のバイカーの祭典「ブラックヒルズクラシック 50周年(現スタージスモーターサイクルラリー)」への90日間におよぶ ロードトリップ。
26年の時を経ての出版とのこと、息の長い話だ。



壁面に映画「Barfly(バーフライ)」のポスターが貼られている。
ミッキー・ロークとフェイ・ダナウェイが主演の 1987年のアメリカ映画。



バーに集う人間模様が描かれている物語にインスピレーションを得て作ったカクテルが映画の題名と同じ「Barfly(バーフライ)」もメニューにあるので、これを注文することに。

次に、「ジン・トニック」も注文してあったので、それを飲み次第と云う事にして更に話を伺う。



話の合間に、記念写真を写させて頂いた。

「Barfly(バーフライ)」はウオッカがベースらしく、かなり強そうなので
ゆっくりと飲んだ。

小1時間余りであったが,楽しい時間だった。



外は既にタイトルの如く「Danny's Bar~東京の夜は世界でいちばん美しい~」東京駅の夜景、素晴らしい時間をすごすことが出来た。

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「丸の内ハウス」@新丸ビル7階

2016年08月20日 20時29分22秒 | バー
「丸の内ハウス」@新丸ビル7階



東京駅前の新丸ビルの7階に、個性的な9つのレストランやバーがあり、毎日4時までオープンしていると聞いたが、僕には縁のない場所と思い行ったことが無かった。
その中の「TIKI BAR TOKYO」(ティキバー トウキョウ)で

Danny's Bar~東京の夜は世界でいちばん美しい~
と言うイベントが行われることを知り、どの様なものかと出かけてみた。



デニー愛川はバーテンダー歴40年の伝説的人物。
70年代から現在まで、東京のバー・シーンの第一線で活躍している方らしい。
バーテンダー歴40年の節目を迎える今年、これまでに携わってきた東京のナイトシーンを振り返るとともに、その職人気質の仕事術やバーテンダーとしての本質、生き方の流儀までを伝えるライフヒストリーブック「東京の夜は世界でいちばん美しい - 」(倉石綾子/著)が7月30日に出版された記念のイベントなのだ。
僕は居酒屋で安酒を飲んで“管を巻く”のが相応でバーは自分に似合わない、と云う事は十分承知している。

とは言えバーに対する憧れと、各界のパイオニアとして生きて来た方に対する興味と尊敬の念は持っている。

その様なことで、5時の開店なのに4時前には「新丸ビル」に到着。
7階のフロアを探検「TIKI BAR TOKYO」(ティキバー トウキョウ)を探した。



丸ビル7階の全フロアが飲食街でまさに「街」








外周がウッドデッキで、東京駅,丸の内のオフィスビル、皇居などを眺めることが出来る。

かなり広いデッキに椅子テーブルが備えられている。
雨や、寒い日・暑い日、極端な天候でない限りはテラスのデッキで飲食することが可能。
各店に、持出し用のプラスチックグラスなどが備えられている。



通路の部分にも、応接セット状のゆったりした椅子テーブルで寛ぐこともできる。



「ライブラリー」もあって、本なども備えられ読むことも出来る。
この空間を利用してDJも開かれるらしい。

ガラ系の携帯のカメラだったので、肝心の部分が撮れてないが、さすがに「三菱地所」が開発したビルだけに全てに贅沢で太っ腹。
公共部分が広くてゆったり。
各店のメニューなど見てもコスパはかなり良い。
こんな素晴らしい空間、使わないともったいない。

因みに出店は
①ソータイアード( ダイニング)
②自由ヶ丘グリル(洋和食)
③ライムライト(喫茶・バー)
④ソバキチ(蕎麦・酒・肴)
⑤リゴレット ワイン アンド バー(スパニッシュイタリアン)
⑥欧風小皿料理 沢村 ( 熟成酵母パンと欧風小皿料理)
⑦ムスムス (無国籍料理)
⑧ヘンリーグッドセブン( ラウンジダイニング)
⑨ティキバー トウキョウ( バー)
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サドヤ ワイナリー@甲府市北口3-3-24

2016年08月19日 20時03分00秒 | 
サドヤ ワイナリー@甲府市北口3-3-24



武田神社から甲府駅までは全て下り坂、自転車をこぐ必要はない。
観光案内所で貰ったガイドマップによれば、ワイナリーが駅前に在るので行ってみることに。

更に、その手前に「ヴァンホーレ通り」と言うのもある。
今年3月に甲府を訪れた時に商店街の中に「ヴァンフォーレプラザ」と言うグッズなどを売っているクラブハウスを見つけた時は羨ましかった。

地図上の「ヴァンホーレ通り」を探しても見当たらず、通りがかりの人に訊ねたら、以前に事務所があったらしいが分からず。



そこから間もなくで、「サドヤ ワイナリー」に到着、
ヨーロッパのシャトーを思わせる、洒落た作り。



中庭にブドウの木が植えられ、収穫出来そうに熟している。

レストランもある。
この日は貸切だった。



この建物が醸造所らしい。

申し込んでおけば「見学ツアー」もあるようだ。





事務所を挟んでワインの直売所と休憩所。
昔懐かしい1升瓶入りも売られていた。



テイスティングも出来る。



休憩所で「サドヤ」の歴史などが放映されていた。

明治42年(1909)江戸時代より続く「油」佐渡屋を洋酒 ビールなどの代理店「サドヤ洋酒店」に転業 。
大正6年 (1917)1代目 今井精三、ワイン醸造「サドヤ」を創業。
昭和11年(1936)今井友之助が中心となり自家農園を開墾 フランスより醸造用品種の苗木を導入 。甲府市の東側
昭和14年(1939)導入した欧州種による醸造開始 。
昭和20年(1945)空襲により醸造場全焼
昭和25年(1950)ヴィンテージ1946年を売り出す
昭和41年(1966)今井裕久 渡仏、モンペリエ国立高等農学校に留学
平成元年(1989)南フランスに農場「シャトーレアルドール」を取得
(HP も参考にしました・日本のパイオニア的なワイナリーと思いました)

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武田神社@甲府市古府中町2611

2016年08月18日 15時34分39秒 | 
武田神社@甲府市古府中町2611



8月7日18:00キックオフの水戸ホーリーホック対松本山雅FC戦を観戦し、翌日に松本観光する予定であったが、昼から夕方までの間に予定したと所は一応訪ねることが出来た。
8日は月曜日で一部の美術館や博物館は休館日なので急遽、甲府に向かうことに。

松本~甲府は約2時間。

甲府駅に着いて観光案内所で貸自転車を訊くと「レンタサイクル甲府」と言うシステムが有り、甲府ホテル旅館組合が事業者。ホテルなどで1日500円で電動アシスト自転車が借りられる。
北口駅前の「ホテルニューステイション」で借りることが出来た。

ホテルから北上して武田神社を訪ねることに。
甲斐の武田氏はひたちなか市の武田がルーツとの説もあるやに。

ホテルから「武田通り」を真直ぐ行けば突き当りと言う感じだが、これが結構な距離。
アシスト自転車だから何とかなったが、猛暑日の日中で汗だくだった。
駅から約4キロ㍍位だろう。

神社入り口まで登って振り返れば甲府の街が望めるが、かなりの坂道だ。

神社の碑から神橋・参道・本殿を。

「武田神社」は信虎、信玄、勝頼の武田家3代が60余年にわたって居住した躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)の跡地に鎮座し、ご祭神として武田信玄公を祀っている。



壱の鳥居。



弐の鳥居。



「名水・姫の井戸」
拝殿左脇の「姫の井戸」は武田信玄の娘が誕生した際に、産湯として使用したとされる古井戸で、御神水が絶えず流れている。



「甲陽武能殿」

能舞台であろうが、新たに建設されたように見える。



可なりの汗をかいたが、シャツを取り換え、名水を飲み、木立の中で休めば生気を取り戻した。

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松本と引き分け@アルウィン

2016年08月18日 12時35分36秒 | 水戸ホーリーホック
松本と引き分け@アルウィン







松本には昼前に着いたがホテルの貸自転車を利用したので、松本城・旧開智学校・中町通り・松本市美術館・まつもと市民芸術館・旧制松本高等学校校舎・旧制高等学校記念館などを巡ることが出来た。
何処へ行っても観光客をもてなす心が感じられた。
舗道や案内も完備してお居り、自転車も走りやすい。
ホテル等に宿泊者用に無料の貸自転車が用意されているのも有難い。

猛暑日であったが、市内各所の湧水飲み場、何処も冷たく美味しい。
アルプスの雪解け水が地下を通って湧き出すのだろう。
これも嬉しい事だった。



市役所前の湧水飲み場。



駅前のバスターミナル。

アルウィン(松本平広域公園総合球技場)までは駅前のターミナルを始め、3箇所位から 無料のシャトルバスが運行されている。
球団の財政規模なのだろうが、水戸でも無料のシャトルバスが運行できるようになりたい。

アルウィンは収容人数2万人の球技専用スタジアム。
客席が間近で、臨場感のある観戦が楽しめる。



水戸のサポーターも300人位はいただろう。
7月3日松本から水戸に来た数よりは少ないのは残念だ。

この日の観客数は13379人。
水戸の倍以上だ、J1でも恥かしくない人数だ。
松本山雅FCの熱き想いが伝わってくる。

その松本に対し、一進一退の攻防が続くがゴールが生まれないまま迎えた後半37分には、松本に移籍した三島が投入された。
両チームのサポーターから大歓声を浴びるが、決定的な仕事はできずに0-0でタイムアップ、2位の松本に対し大健闘だった。

無料のシャトルバスに乗って駅前に戻る。
駅前の何本かの路地に沢山の飲食店が在る。





何処にしようと迷うが、スポーツパブに入ってギネスを。
勝ちゲームなら意気上がるが、1人飲みで引き分けとあっておとなしく飲んだ。

それにしても、駅前にこれほどの飲食街が在るのは羨ましい限り。
無い物ねだりかもしれないが、全ての面で水戸より優れていると感じた。
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バンカラ目線で松本歩き@旧制高等学校記念館

2016年08月18日 02時53分35秒 | 
バンカラ目線で松本歩き@旧制高等学校記念館







旧制松本高等学校本館、入り口。




旧制松本高等学校は日本で9番目の官立旧制高等学校として1919年(大正8年)に開校し、1949年5月に信州大学発足にともない包括され、1950年3月に廃止された。跡地は「あがたの森公園」として、自然豊かな森の中に「われらの青春ここにありき」の石碑や旧制高校記念館がある。

水戸にも全国13番目の官立高等学校として1920年(大正9年)に設立された
旧制水戸高等学校、略称は「水高」(すいこう)があり、1949年、茨城大学発足に伴い1950年3月に廃止されたのは松本と同じ。






「あがたの森」の一角に旧制高等学校記念館が在るとのことで訪ねたら「バンカラ目線で松本歩き」と言う企画展が開かれていた。

旧制高等学校の数は少なかったから、全国各地から高校入学のために集まった。
旧制松本高校生の第22回(昭和17年)理科乙類クラスの卒業アルバムに収められていた「松本市御案内」図を中心に、彼らがどのような場所で青春を過ごしたのかを辿る企画だ。

当時の高校生は10代後半ながら、大人として扱われていたから、花柳界などにも出入りしたのだろう。



中央に破帽を被りマントを翻し高下駄を履いた「バンカラ」と呼ばれた典型的な旧制高校生の像。
水戸も正しく同様で、同じような銅像が偕楽園に建っているが、端のほうで見ることは少ない。
駅前か大工町辺りに移転したらどうだろう。

大工町は旧制水高生のホームグランドだったらしい。
水高の廃止の頃、僕は小学生だったが、近所に居た水高生にあこがれ、高校時代は高下駄など履いて通学した同級生は多い。

時代は変わって「バンカラ」は死語となり、「イケメン」と呼ばれる美しい男たちがもてはやされる様になったが、反時代的な生き方も必要だ。

後期高齢者の吾々も、物分かりのいい爺さんバカりでなく、偏屈で頑固親父も必要だ。
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まつもと市民芸術館@松本市深志

2016年08月17日 14時58分08秒 | 街創り
まつもと市民芸術館@松本市深志




松本駅から旧制松本高等学校の跡地の「あがたの森に」至る幹線道路は「あがたの森通り」と称し文化的な雰囲気がある。
途中に「松本市美術館」や「まつもと市民芸術館」が在るからそう感じるのかもしれない。
どちらにしても、松本は文化の香りがする観光都市で、水戸も見習うところが沢山ある。

「まつもと市民芸術館」は館長兼芸術監督に俳優・演出家の串田和美を迎えて2004年8月に開館した。設計は日本を代表する建築家の一人伊東豊雄。
水戸でも「新市民会館」の建設計画が進行中で、奇しくも伊東豊雄が設計すると報じられてもいたので、是非見学したいと思っていた。

日本最大級の音楽祭であるセイジ・オザワ 松本フェスティバル(旧称サイトウ・キネン・フェスティバル松本)の主要会場で、水戸芸術館の館長は小澤 征爾という、縁もある。

敷地は松本も水戸も約1haで同じだが、水戸は正方形で松本は細長い。



松本は奥に行くほど高くなるが、手前は2~3階程度だから圧迫感はない。



正面右斜め前方より



正面左斜め前方より




主ホールに至る階段とエスカレーターはなだらかな坂道、と言う感じでかなりの距離が在る。

この日は催事はなかったが、エントランスやギャラリーショップなどは入場可能。






ホールのロビー周辺は幻想的な照明。


建物は地上7階地下2階建てで、内部には約1,800席の主ホール(800から1,400席まで規模を調整できる)、240席の小ホールのほか、主ホールの舞台を利用した約400席の実験劇場、リハーサル室やレストランなども完備している。



日本では比較的珍しい4層のバルコニー席を備える馬蹄形の主ホールは、田の字型の巨大な4面舞台を備え、幅広い演出に対応している。

催事が開催されていない状況でホールの中も見られないし、短時間の見学だから多くを云えないが、水戸の新市民会館計画の考え方の違い、疑問が幾つか思い浮かんだ。
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草間彌生・魂のおきどころ@松本市美術館

2016年08月16日 20時56分14秒 | 美術館
草間彌生・魂のおきどころ@松本市美術館









美術館正面の巨大モニュメント「幻の華」

現代美術の世界で、一番人気のある日本人作家は「草間彌生」とも言われる。
1929年松本市に生まれ、10歳の頃より水玉と網模様をモチーフに絵を描き始め、水彩、パステル、油彩などを使った幻想的な絵画を制作。
1957年渡米、ニューヨークを中心に世界各国で活動するが、1973年に帰国し、都内にアトリエを構え、本拠地とする。
昨年、テレビの番組で見たのだが、東京の事務所を仕切っている方が水戸出身であることを知って驚いた。

上田薫さんが「フジテレビギャラリー」での個展の際、観客として來廊していた草間彌生を見た時、感激したことも思い出した。



2002年に開館した松本市美術館の開館記念展を開催。
開館後は常設展示室が設けられ「松本でなければ体感できない草間彌生の現在と原点」は

松本時代(1929-1957)
ニューヨーク時代(1958-1973)
帰国後(1973~)



各時代の作品を一堂に観られる良さがある。



人気のある《かぼちゃ》シリーズ



かねてより訪れてみたと思っていた美術館に、水戸ホーリーホックと松本山雅FCの観戦を兼ね実現したのは嬉しい。
Jリーグの良さは、相互の街を訪問し、その土地の食や文化を愉しむことも大きな目的だ。
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