「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

土筆(ツクシ) @西の谷

2012年03月30日 00時02分06秒 | 植物

土筆(ツクシ) @西の谷




日当たりの良い斜面に、ツクシが伸びてきた。
土筆(ツクシ)の名の如く、姿がかわいらしい。
春の風物詩として春の野を描く際には必ずと言って良いほど描かれる。
『ツクシ誰の子、スギナの子』の歌のごと、スギナにくっついて出てくる。
以前に畑を借りて、日曜菜園を試みたことがある。
根を通して増殖するスギナは、農業上はしつこい雑草で、根絶やしにするのは難しい。

例年、ツクシを摘んで食べることにしている。
特別の理由はないが、春が来たのを実感できるからかもしれない。
寒い中、探すのが楽しいのだが、今年は遅れた。

摘んで来たものを新聞紙の上に広げ、先ずは
茎の途中の、黒い色の袴(ハカマ)を取り除く。
これが、結構の仕事で指先がアクで黒くなる。
あとは、家人に任せるが簡単に「煮びたし」にしてもらう。



穂先はゴソゴソで茎のところのしゃりっとした食感と苦みが特色だ。

佃煮や、煮たものをご飯に炊き込んでも良いらしい。

これからの季節、各種の山菜を試すのは愉しい。

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「東慶寺仏像展2012」@東慶寺・松ヶ岡宝蔵

2012年03月28日 22時36分59秒 | 彫刻家 後藤清一
「東慶寺仏像展2012」@東慶寺・松ヶ岡宝蔵
4月8日(日)まで  開館時間:午前9時~午後3時半




北鎌倉・東慶寺
「縁切り寺」として有名な東慶寺は北鎌倉の駅から徒歩5分足らず。



中興の祖とされる釈宗演(1859年-1919年)が遷住となって、禅の道場に変わった。
釈宗演の弟子にあたる鈴木大拙(1870年-1966年)は禅を世界的に広めた功労者として著名である。
昭和16年(1941)に住持した井上禅定は鈴木大拙の収集した仏教書や寺伝来の 離縁状など縁切り文書を収めた「松ヶ岡文庫」を寺内に創立する。



昭和53年(1978 )には 松岡宝蔵を旧方丈跡に新築し、一般に公開するようになった。

東慶寺前住職・井上禅定、現住職・井上正道の親子二代にわたる境内整備によって、四季折々の花々が咲き競う「花の寺」として鎌倉を代表する寺となった。
更に、早朝座禅会・日曜座禅会・写經の会・香道の会・挿し花の会・月例茶会など多彩な催しが開かれる。
何れも、申し込めば参加できる開かれた集い。

お寺の存在意義は、生きている人たちの心のやすらぎ、或いは学びの場、癒しの場であろうが、それらを実践している稀な例で、多くの寺が見習っていただきたいと思う。

Uさんご夫妻が東慶寺の茶室「寒雲亭」の3月の茶会に出席された。
その際、松ヶ岡宝蔵の「東慶寺仏像展2012」を拝観され「後藤さんの誕生仏を拝見してきましたよ」と連絡を受けた。



「水月堂」に祀られている「水月観音菩薩半跏像」通常は公開されず、申込による拝観のみなのだが、特別に展示された。



水月堂内部、
中央の円窓に水月観音・左に南無仏太子(聖徳太子の二歳像)・右に誕生仏(後藤清一作)
額は鈴木大拙の書。
「水月観音菩薩半跏像」は像高わずか34cmの観音さまで、鎌倉一の美しい仏様と言われている。

幸いにも、僕は水月堂を何度かお詣りした。
今回の展覧会は水月堂の配置と同様に展示されているようだ。

会期は4月8日まで。
残り期間は少ないが、春の鎌倉・東慶寺を訪れたいと思っている。

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小川芋銭展―震災後の眼で、いま― @茨城県近代美術館

2012年03月28日 02時00分11秒 | 美術展
小川芋銭展―震災後の眼で、いま― @茨城県近代美術館
3月17日-5月20日







ぽかぽか陽気に誘われて千波湖を散歩し、茨城県近代美術館に行った。
牛久沼畔で生涯を過ごした小川芋銭(1868―1938)の展覧会。
特に『河童の芋銭』として知られ、その集大成が『河童百図』。(2007年茨城県立歴史館の「小川芋銭 河童百図展」で全作品が展示されたが)今回はその内9点が展示されている(後期8点を展示)。



小川芋銭・仙人のような風貌

芋銭は洋画塾で画業を修め、その前半生には挿絵画家としてジャーナリズムで活躍し、日本画については独学であった。
① 中国や日本の古美術、老荘思想、俳句や書といった東洋文化についての幅広い教養をふまえた作品。
② 水郷の田園風景や旅先で眼にした自然を主題とした作品。
③ 郷里に伝わる河童や水魅山妖(すいみさんよう)などの精霊を主題とした作品。
の三つに大別できるが、それらの主題が個別に展開されるばかりでなく、互いに混じり合っている。
更に書風も独特で、賛(さん・絵に書き加えられた文)が書き込まれた作品が多く、書とその意を味わうのも芋銭作品の楽しさ。



「陶淵明」昭和2年(1927)


この展覧会の副題「震災後の眼で、いま」について、展覧会資料には。
《芋銭は挿絵画家時代に新聞記者の磐梯山噴火取材に同行したと伝えられており、また、牛久での水害はもちろん関東大震災も牛久で、丹波大地震を旅先で経験するなど、直接間接に大きな天災に関わっています。》
《大震災後のこの一年間は、多くの人々が自然と人間との関係について再考している状況である。今、芋銭の作品を鑑賞するということは、芋銭という一人の芸術家を知るだけでなく、その作品を通して自然と人間との関係について改めて思いを廻らすきっかけにもなると思われる。》
とある。

人間の理解を超える存在や人間の力の及ばない現象を慈しみ尊重しようとした芋銭の自然観が伝わる。


当時の茨城県内の芸術家に与えた影響も大きく、山村 暮鳥(1884年 - 1924年、明治・大正期の詩人、児童文学者)や彫刻家・後藤清一も芋銭を尊敬していた人達。


後藤清一さんは『芋銭さんのお宅を訪ね、話をしたことは終生忘れ得ない想い出』と話していた。



牛久沼にて。(昭和9年)右から後藤清一、小川芋銭、津川公治、森戸達夫。
原板の撮影は小野信男

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水戸ホーリーホックVS松本山雅FCは0-0で引き分け 

2012年03月24日 17時24分13秒 | Weblog
水戸ホーリーホックVS松本山雅FCは0-0で引き分け 
@Ksスタ
1日バス乗車券




天気予報は、雨が上がって暖かくなるはず、だったが小雨交じりで寒い。
通常はスタジアムまで自転車だが、バスにすることに。
試合の日は、水戸駅前バス乗り場で1日乗車券を販売する。



駅から大工町の区間は乗り降り自由で¥900.
大工町からスタジアムまではノンストップだから、早くて便利。
アウェーのお客様も、行き返りは水戸市内に立ち寄ることも出来て便利だ。



松本山雅FCのサポーターを見て、今日はヤバイかも、と懸念した。
アウェーのバックスタンドにかなりの人数。
本日の入場者2,952人だったが500人以上はいただろう。
応援スタイルはブラジル風でリズミカル。
声援も水戸より声が揃っている。
J2に昇格した勢いが感じられた。

水戸は水戸なりのスタイルなのだろうが、何故か乗り切れない。
応援スタイルに変化と斬新さが欲しい、と思った。
水戸のサポーターの皆様ごめんなさい。
何時も、そのように感じることが多いので。

攻めの時間帯が多かったのに、決定打が出ない。
グランドコンデションが悪く、空振りでこけたり,締まらない。
惜しい!と言うシュートも無く0-0の引き分け。
帰りのバスの乗客全員が言葉なしで、負け試合の雰囲気。

次回のホームは4月8日の千葉戦。
頑張って行きましょう。

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「みえない恐怖をこえて―村上達也東海村長の証言」

2012年03月23日 22時03分49秒 | Weblog
「みえない恐怖をこえて―村上達也東海村長の証言」
(シリーズ臨界事故のムラから)  箕川 恒男 (著)  2002年 那珂書房刊




3月25日(日) 那珂市中央公民館ホールで東海村村長・村上達也氏の「福島原発事故後の社会を考える」と題する講演会が開かれる。

1999(平成11)年に起きたJCO臨界事故は深刻な核の恐怖におののいた大事故だった。闘病の上に死亡した人が二人。
屋内避難勧告に巻き込まれた半径10キロ㍍圏内の住民約31万人。
国や県の対応の遅れにくらべ、東海村長のすばやい事故対応と決断が村民から評価された。
以来、政府や業界の危機に対する鈍感さや、 技術過信に警笛を鳴らしてきた。

長らく地方紙の記者を務めていた箕川 恒男さんは、退職を機にJCO臨界事故を検証しておきたいと考え、一面識もなかった村上さんの自宅を訪ねたのが2000年の正月。未知の訪問者に対して快く応じてくれた。
それから、何度ものインタビューを通して纏められたのが「みえない恐怖をこえて―村上達也東海村長の証言」(2002年 那珂書房刊)

第1章 原子力への「夢」
第2章 未曾有の事故が・・・・・
第3章 風評被害の渦に
第4章 再処理と原発解体
第5章 サイエンス・フロンティアと海と
第6章 住民参加の自活型へ

参考資料
①参議院経済産業委員会での発言全文(1999年6月1日)
②衆議院科学技術委員会での発言全文(1999年11月24日)
③OECD-NEAでの発言全文(2001年11月28日)


3月25日の講演会を前に、この本を図書館から借りて、目を通した。
インタビュー形式ではあるが、技術や科学的な専門的な事柄や東海村の核開発の歴史などには注釈も挿入されている。
事故から間もない時期のインタビューだから多くの人達とのやり取りも鮮明に記憶されているから状況が良く分かる。
今となってみれば貴重な文献で、歴史の証言舎。
これらのことを、電力会社や国が真剣に対応していれば、福島の被害は少なくて済んだのかも。
九州大学の吉岡斉教授の本も読んでみたいと思った。

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「福島原発事故後の社会を考える」

2012年03月22日 20時26分10秒 | Weblog
東海村村長・村上達也氏講演会 
「福島原発事故後の社会を考える」
@那珂市中央公民館ホール(那珂市役所となり)
3月25日(日)14:00~16:00 (30分前開場)




~村長からのメッセージ~ (講演会チラシより)

原発による繁栄は「一炊の夢」。
福島では原発によって故里も家族も何もかもが奪われた。
それでも未だ原発依存の声は高い。全ては目先の金のために。
こんな考えはもう捨てましょう。
原発は垢にまみれた古い思想、
古い技術、もう夢もロマンも生まないのですから。
ドイツ人、イタリア人は古い上着を脱ぎ、新しい服に着替えました。
私たちも先に進みましょう。
市民が立ち上がる時です。

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水戸ホーリーホックVS松本山雅FC @Ksスタ

2012年03月22日 14時41分42秒 | Weblog
水戸ホーリーホックVS松本山雅FC @Ksスタ
3月24日(土)13:00キックオフ 




3月20日のギラヴァンツ北九州戦水戸ホーリーホックは0-1で惜敗したが3勝1敗の成績、湘南ベルマーレに次いで2位を守った。

24日(土)は松本山雅FCを迎えてのホームゲーム。
岡山・北九州を転戦してきたチームに御疲れさん、とねぎらいたい。
今年からJ2に昇格した松本山雅FCにもエールを送りたい。

水戸ホーリーホックの存在と活躍が水戸に元気を与えてくれる、と思っている。
更に、ビジターのチームやサポーターも活気を与えてくれる存在だ。

サッカーはクラブチーム(地域住民の連帯で維持される)の要素が強いから入場料の収入がクラブの大きな財源となっているが、今シーズンの入場者数は、
第1節 3月04日 横浜FC 2-1 Ksスタ、 入場者数5,817人
第2節 3月11日 カターレ富山1-0 Ksスタ、入場者数2,601人
第3節 3月17日 ファジアーノ岡山 3-0 カンスタ、入場者数 5,576人
第4節 3月20日 ギラヴァンツ北九州0-1 本城、入場者数 2,558人
開幕戦こそ6千に近かったが、少しさびしい数字だ。

3月17日の埼玉スタジアム、浦和レッズVS柏レイソルの試合は41,069人。J1に所属し、さいたま市は100万都市だから比較にならないとはいえ、入場者が千と万では桁が違う。当然サポーターの熱気も凄い。
柏は前年の覇者、お互いに負けられないゲームで、テレビの画面からもサポーターの熱気が伝わってきた。

この両チームと比較するのは酷だが、水戸のホームゲームにより多くの人達に来てほしい。水戸を含め周辺の市町村の人達が、シーズン中に1人1回スタジアムに来れば、かなりの人数だろう。

スタンドでの観戦はテレビ観戦とは全く異なる楽しさがある。
ケーズデンキスタジアムも5000人以上の入場者が有るときは、それなりの活気と楽しさが有る。

「今年はJ1」が目標だが、容易な道ではない。
とにかく、スタンドを1万人が埋め尽くす状況になりたい。

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尊厳死を考えるin 茨城

2012年03月21日 15時08分04秒 | Weblog
尊厳死を考えるin 茨城 @県民文化センター・分館 集会室10号
3月24日(土) 14:00~16:30 (開場13:30)


お見舞いに行って、意識が無くなり自分の力では生命が維持できないが、全身にチューブや線が繋がれて、生かされている方。
或いは、親族がそのような状態の際、見ているのがつらい。
特に、高齢者の場合は終末の医療はどうあるべきなのかを考えさせられる。

たまたま、「日本尊厳死協会」を知って入会した。
10年位前のことだ。
「尊厳死」というのが仰々しが、終末期医療での延命処置は必要ありません。
と言うことで、特別の規制はない。
年会費が夫婦2人で3000円、以前より少し安くなった。
年に1~2度、会報が送られてくる。

公開講演会の案内はがきを戴いた。
 
① 講演:「尊厳死運動の 過去・現在・未来」
   松根 敦子 (関東甲信越支部長)

② 講演;「あらためて考える ~ 緩和医療と後悔少なき生死~ 」



大津 秀一医師(東邦大学医療センター勤務)
    水戸市出身 緩和医療医師、 日本尊厳死協会 受容協力医師

③ 質疑応答:松根 敦子、大津医師
*お知り合いの方をお誘いあわせ、ご参加ください、とある。
入場無料で、事前の申し込みも必要ない。
お時間の取れる方は是非、ご参加ください。

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今日は春分の日。

2012年03月20日 17時25分08秒 | 西の谷緑地公園
ウグイスはまだかいな。
今日は春分の日。
暑さ寒さも彼岸までと言うが、一向に暖かくならない。
偕楽園の梅は六分咲き。
早咲きは満開で、今がちょうど見ごろだ。
水戸市内は、観光客の姿も多い。

梅にウグイス、ホーホケキョ。
西の谷では、未だにウグイスの聲を聴かない。
例年なら鳴き声と、飛ぶ姿を見かける時期と思うが。



実物を見かけないので、お菓子で。
築地「塩瀬」の鶯餅と、鎌倉「豊島屋」の干菓子、




ウグイスはウグイス色と思われる人が多いが、あの色はメジロの色。



ウグイスはスズメのような色で声程の姿の良さはない。

鶯の聲、早く聴きたいな。

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「あぐり白寿の旅」吉行 あぐり・吉行和子著 集英社文庫

2012年03月20日 00時19分16秒 | Weblog
「あぐり白寿の旅」吉行 あぐり・吉行和子著 集英社文庫



朝の連続テレビ小説「カーネーション」を見ていると、1997年に放送された「あぐり」を思い出す。

15才で洋裁の修行をスタートし、夫を戦争で亡くすも、女手ひとつで3人の娘を世界的ファッションデザイナーに育て上げ、自身も生涯を終えるまでファッションデザイナーとしての道を全うした小篠綾子さんと、女学校在学中の16歳で結婚してから美容師をこころざし、1929年(昭和4年)に独立して山の手美容院を開店し、吉行三兄妹を育てた吉行 あぐりさん。
1952年(昭和27年)に東京・五番町(市ヶ谷駅前)に吉行あぐり美容室を開店。90歳を過ぎても、馴染みの客に限定して美容師として仕事を続けていたが、2005年(平成17年)に閉店。日本の美容師免許所持者の中では最高齢。

どちらも職業婦人(働く女性・今や一般的)の草分け。
女性が職業に就くのが珍しい時代だった。

「あぐり白寿の旅」は《白寿》=99歳、の記録で、レビュー記事に依れば、

「旅」にまつわる思い出を綴った日記が前半、後半は、長女で女優の吉行和子さんのエッセイ風日記。

91歳で初めての海外旅行がメキシコで、その後訪れた海外旅行の思い出などが記されている。
どこの国・どの場所に行ってもなんでも見て、食べて、行動して楽しめる人。
年齢にこだわらずに新しい物に挑戦する人。

股関節脱臼で入院生活中も「生きているって、やっぱりいーなあ。ありがとう」の言葉は、入院生活でさえも、「旅」だった。

更に、
『吉行あぐり 102歳のことば』石 寒太著



『「あぐり」その後―吉行あぐり103歳と家族の肖像』 阿部 和江著
も出版されている。

明治の女性の逞しさ、胆の太さは凄い。

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長寿の記念樹・カシワバアジサイ @水戸市

2012年03月18日 21時11分06秒 | 山野草
長寿の記念樹・カシワバアジサイ @水戸市



水戸市役所から、記念樹を配布しますから近くの市民センターで受け取ってください。との葉書きが着いた。

《転入の世帯と、生まれた人にはウメ》
《長寿―70歳を迎えた人―はカシワバアジサイ》

とのこと、子供が生まれた時にウメかサクラの苗木を貰って、何処かに植えてきた記憶があるから、随分前から行われている制度なのかもしれない。

満70歳を迎えれば「国民健康保険高齢受給者証」が送られてきて、医療費の支払いが2割になる。(平成24年3月31日までは1割)
有難いが、予算処置による法律の改正によって変わるのだ。

70歳が長寿と言われると、何やら気恥ずかしが『人生僅か50年』はそれほど昔の話ではないから、確かに長生きしたということか。
死亡記事を見ても90歳代人が圧倒的に多い時代となったのだ。
かと言って、聖路加病院理事長の日野原 重明さんのように100歳を過ぎて現役は稀で、多くは老健施設などで生かされている。人達が大多数だろう。
死の間際まで、自分の口で飲食し、自分の足で歩く人生を願う。

とにかく、記念樹を貰いに五軒市民センターに行ったが、残された苗木がいっぱいで枯れそうなものもあった。

苗木を貰っても植える場所が無ければ意味がない。
かくいう僕も、我が家に植える余地はない。
西の谷の一隅に植えようと思って貰って置いた。



カシワバアジサイは北米東南部の原産でユキノシタ(アジサイ)科アジサイ。
葉は柏の葉に似ていて花は純白。
八重で房状に咲き上がるが重さで上部から下がり気味になって咲く。
大きく育った木は花も豪華な大きさになり、満開になると中の花びらが外に出てきて芯が長くなり長い間咲きつづる。
最近、目にする様になった品種だ。
とりあえず植えてきた。
根付いて花を咲かせてくれるのを望んでいる。

しかしながら、記念樹の配布は意味があるのかを疑問に思う。
財政が厳しい中で、苗木の購入・連絡のはがき・配布する市民センターの人手などの予算は決して少なくはない。

前年度の事業や予算や予算を踏襲するのではなく、常に見直す姿勢が必要だ。
現在、水戸市議会が開催中。
議会傍聴と予算の内容を訊きに市役所を訪れたいと思っている。

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吉行和子さんと夏木マリさん

2012年03月17日 22時02分55秒 | Weblog
吉行和子さんと夏木マリさん

NHKの連続テレビ小説『カーネーション』はコシノ三姉妹を育てた母親のものがたりも最終章に入った。
三姉妹がデザイナーとして成功し、孫も登場する年代となった、
それに伴って、女優は尾野真千子から夏木マリに交代した。
70代となっても自分のブランドを立ち上出る元気さを持ちながら、孫たちを気遣うお祖母ちゃん役を、夏木マリが渋く演じている。


1990年3月22日に水戸芸術館は美術館・コンサートホール・劇場からなる現代芸術の複合施設として開館した。
各部門は芸術監督が責任を持って運営に当たり、自前の楽団や劇団の公演を主とし、自主企画の演奏や展示をする基本方針は、22年を経過した今も守られている。地方自治体が運営する文化施設として稀有な例だ。

発足当時の演劇部門の芸術監督は「SCOT」の鈴木 忠志。
唐十郎、寺山修司らとともに、1960年代に起こった演劇運動の代表的な担い手の一人。

開館記念公演は
ウリピデス原作『ディオニュソス―おさらば教の誕生―喪失の様式をめぐって1』次年度はシェイクスピア原作『マクベス―おさらば教の隆盛―喪失の様式をめぐって2』が演じられた。

その時、客演したのが吉行和子さんと夏木マリさん。
お二人は「SCOT」の団員と同様に稽古の時から水戸に滞在していた。
吉行さんは「劇団・民芸」の出身だか夏木さんは歌手としては有名であったが役者としてのキャリアはこの頃に始まる。

多くの劇団員はアパートなどに合宿の状態だったが、吉行さんと夏木さんは別格で、水戸京成ホテルに滞在されていた。

当時の水戸京成ホテルの9階は水戸市を見渡すレストランとラウンジバーが在り、水戸では一番お洒落なところだった。

たまたま、バーでお二人にお目にかかり、ずうずうしくも一緒に写真に納まって頂き、お話までしていただいた。
僕は「水戸芸術館に協力していただき有難う」感謝の言葉を述べたかった。

その後、NHK連続テレビ小説『あぐり』が1997年に放送された。
小説家・吉行淳之介、女優・吉行和子、詩人・吉行理恵の実母の実話エッセイをモチーフに展開されたドラマ。
ヒロイン・あぐり(田中美里)の美容師にかける情熱と、それを取り巻く人間模様。ヒロインの夫・エイスケを演じた野村萬斎は強烈な存在感を示し、只者でないと思ったが、野村万作の長男と知り納得した。



90歳を過ぎても、馴染みの客に限定して美容師として仕事を続た話は今回の「カーネーション」にも共通する。
さらに言えば、子供達が、それぞれの才能を発揮している。
教育ママより己の仕事に打ち込む後姿が真の教育なのかもしれない。



吉行和子さんはエッセイストとしても知られている。
「どこまで演れば気がすむの 」(潮出版社、1983年11月/潮文庫、1985年)
「 気分は夕焼け色」 (潮出版社、1986年4月)
「男はみんなハムレット」 (文藝春秋、1989年6月)
「兄・淳之介と私」 (潮出版社、1995年7月)
「楽園幻想」 (堀文子画、講談社、1997年5月)
「老嬢は今日も上機嫌」 (新潮社、2008年6月)
「ひとり語り 女優というものは」 (文藝春秋、2010年5月)

これまた、ずうずうしい話だが拙著〈一つの象徴の造型〉「後藤清一」を贈呈したら、出版されたばかりの「男はみんなハムレット」を署名入りで戴いた。

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水戸3連勝で2位浮上。

2012年03月17日 21時18分17秒 | Weblog
水戸3連勝で2位浮上。

水戸ホーリーホックはファジアーノ岡山に3―0で勝利。
開幕以来3連勝で2位に浮上。
勝点9は湘南ベルマーレと同じ。
今年は辰年で『青龍』水戸の年。

次は3月20日(火)アウェーの「北九州」に勝利して4連勝。
J1昇格も夢ではない。

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バー「ルパン」@銀座5丁目

2012年03月16日 15時11分16秒 | 食べ歩き
バー「ルパン」@銀座5丁目



東京駅の駅舎改修復元工事は今年度末には完成予定。
創建時のドームも姿を現した。
丸の内・京橋・銀座の至る所で大規模な再開発が行われ、巨大ビルが出現している。
銀座は相次いで新しい店舗が開業し、かっての銀座と異なる街となってきた。
表の華やか店舗と対照的に、路地裏の狭い敷地に居酒屋・焼き鳥屋、・バーなどがある。僕にとってはこちらの方が好ましい。
既に、遅過ぎかもしれないが、今のうちに散策しておかねば、消え去る心配がある。



銀座5丁目みゆき通りから細い路地を入ったところにあるバー「ルパン」。



写真家・林忠彦が撮影した太宰治三人の写真は有名だ。
地図を頼りに探したが、袋小路の様なところで、分かりづらい。



怪盗ルパンの看板、ドアを開けると地下に降りる階段。

落ち着いた雰囲気でうす暗く、クラッシックな内装。
古めかしいく、タイムスリップした空間は僕の好み
カウンターだけで、10人くらい座れる。
ボックス席もありそうな感じ。

開店間もない5時30分頃に訪ねたが、既に、男性の3人連れ、若い女性の2人組の先客あり。

マティーニを注文。
バーに行った時の僕の定番、他にはジントニック。
気分で、何とやらのシングルモルトのストレート、などもありますが。

注文しながら「どんなところか、試したかった」旨をバーテンさんに伝えたら、僕の様な観光客?も多いらしく、昔噺「銀座・ルパン」なるパンフレットとマッチを進呈してくれた。

1928 (昭和3)年、高﨑雪子「カフエー」(女給のサービスでお酒を飲ませる洋風の酒場)スタイルで開店。
1936(昭和11)年、控室だった一階も改装してL形のカウンターを作り、カウンターバーにして営業。
1945(昭和20)年1月に銀座は大空襲を受けるが、ルパンは幸いにも直撃は免れた。
1946(昭和21)年)コーヒー店として再開。
1949(昭和24)年5月に酒類が自由販売になりバーを再開。
1972(昭和47)年、古いビルを壊して、新しいビルを建築することとなる。 ビルは新しくなってもルパンは今まで通りの店にするため、タモのカウンターをはじめ、総ての内装を丁寧に取り外して保管し、 ビルの躯体が出来た段階で元通りにした。
1974(昭和49)年にやっと営業を再開。
内装材量の一切が創業当時のモノゆえに、時代を感じるのは当然だ。

パンフレットには、
『開店以来の主人・高﨑雪子は、1981年(昭和56年)から病で店に出られなくなり、 1995年(平成7年)に88歳で他界致しました。 1951年(昭和26年)以来バーテンダーを務めて来た弟・武も、2008年(平成20年)の開店80周年を目前にして亡くなりました。』

 『時代と共に、ルパンにお越しになるお客様も段々に変って参りました。雪子は、ルパンがいつの時代のお客様からも常に愛される店・ 安心して寛いで頂ける店でありたいと願っておりましたが、その気持がいつの時代にも生きるよう、誠実な営業を心掛けて参ります。』
とある。
店の広さに対して従業員の数も多いし、丁寧な客扱い。
創業者の精神が受け継がれているのだろう。


ルパンお勧めのカクテルは「モスコミュール」のようだ。
次回は飲んでみることにしよう。
変化の激しい時代だが、この店が変わらずに営業を続けることを願う。

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そば所 よし田 @中央区銀座7-7-8

2012年03月15日 15時56分12秒 | 食べ歩き
そば所 よし田 @中央区銀座7-7-8



日本では『衣食住』というが、中国では『衣食住行』なのだ、と村松 友視の随筆で知った。
移動手段が確保されることで、生活は成り立つ、松村は自分なりに拡大解釈し、行・交・動・遊・泳・飛まで及んでいる。
要は行動し見聞することも人生の大きな要素。

月に1度くらい上京し、あちこち見歩くのを楽しみにしている。
高速バスを利用するから、東京駅周辺や銀座に行くことも多くなった。

創業は明治18年、オリジナルのコロッケそばで有名な「そば所 よし田」 
銀座7丁目の中央通りから外堀通り側に1本入った路地にある。
久保田万太郎もひいき客だったという老舗。



次から次へと訪れるお客さんでいっぱい。
辛うじて隅の席に座れた。
テキパキとした元気のいい店員さん。
東京の老舗蕎麦屋に共通する、客あしらいのよさだ。
使い込んだテーブルと小あがりのある店内は活気にあふれている。
この雰囲気がいいですね。



お酒は 「菊正」、蕎麦味噌が付かないのは残念。

名物はオリジナルのコロッケそば、これを食べる心算で入ったが牡蠣蕎麦のメニューが目に入り注文。



牡蠣がふっくらと、軽く火が通った状態で旨かった。
次回はコロッケそばを食べてみよう。

「街のお蕎麦屋さん」が銀座のど真ん中で営業を続けている。
うれしいことだ。

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