「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

牧野藩下屋敷の一部を使用の民家@笠間市大郷戸

2017年10月02日 22時58分13秒 | 建築
牧野藩下屋敷の一部を使用の民家@笠間市大郷戸
「笠間ぶらぶら」その3





廃藩置県で民間に払い下げられた牧野藩下屋敷の一部を使って建てた富田家。
木造平屋建て124坪、欅と檜木を使用した豪壮な建築。




沢山部屋が在る中、下屋敷だった部分は床の間、中の間、次の間の3部屋。

案内してくれた大和田さんは、子供の頃に何度も訪れた。とのことだが、生憎、所有者が不在であった。
残念ながら、内部は拝見できなかった。





斜面から流れ出る湧水による池のある庭。
往時の華やかさが偲べる。




奇妙な形の燈籠があった。

この家の山側、500m位の所に、高野公男の生家が現存。
所縁の方がお住まいらしい。写真は撮りませんでしたが。



驚いたのはこの屋敷の直ぐ近くの「竹江家」住宅。
あたかも「豪族の御殿」と云う感じに見える。

この様な屋敷が現存しているのか、と驚いた。
塀や門、屋敷内まで見事に美しく管理されていた。


●笠間は笠間氏が鎌倉時代初期からの領地。
その後、幾多の大名の所領となるが、江戸時代中期より明治まで《延享4年(1747)-明治4年(1871)》牧野家が領有した。

佐白山の麓にある山麓公園は江戸時代「下屋敷」と呼ばれていた。
笠間城の下方にあたるのでそう名付けられ、笠間藩の役所と藩主の居宅を兼ねて御殿があった。
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旅館・静観荘@奈良市東木辻町

2013年12月13日 17時39分21秒 | 建築
旅館・静観荘@奈良市東木辻町

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法隆寺~中宮寺~藤の木古墳~龍田神社~法輪寺~法起寺を廻って、出発点のJR法隆寺駅に戻る。
貸自転車を返却し法隆寺駅から奈良駅に。

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JR奈良駅の駅舎は新築され、旧駅舎は今では観光案内所。

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駅から興福寺方面に通じる三条通りも拡幅されて、新しい建物が目立つ。
以前は骨董商なども多かったが、様変わりしていた。

この日から三泊を予定している「静観荘」に向かう。
興福寺近くの通称「奈良町」はアーケードが商店街で、地元の人向けの店もあれば観光客用の土産物屋など、様々な店が軒を連ねている。
南に向かって進むにつれアーケードが無くなり、住宅が多くなる。

もう少し進めばJR桜井線の「京終」(きたきょうばて)と云う無人駅が在るから、都の外れだったのかもしれない。

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住宅地の一角に、桃山風の玄関の「旅館・静観荘」

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大正時代の建築で、中庭を中心にロの字型に建物が取り囲んでいる。

奈良には古い建物が多いから、百年前の建築は珍しくはないだろうが、その様な旅館に泊まる機会は少ないから楽しみだ。

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赤レンガ図書館 @東京都北区十条台

2011年04月12日 23時00分06秒 | 建築
レンガ造りでも

明治から大正時代にかけて西洋風な建物が造られた。
レンガを積み上げた赤ンンガは象徴的。
しかし、地震に弱く、だんだん姿を消した。

今回の大震災で、水戸市内のレンガ造りの建物や塀などが崩れた。
水戸市備前町のフレンド教会・少友幼稚園も大きな被害を受けた。
元通りに復元するか、壊して新築か協議中とのことだ。

東京都北区の十条は旧日本陸軍の兵器厰の跡地で現在も一部は自衛隊が使用している。
大半は東京都の所有で、戦前の建物ながら、生きながらえた建築物を蘇らせて使用している。
新築以上に経費はかかるにしても、文化財の保護の役割は重要だ。

1919年(大正8年)旧陸軍の兵器工場の倉庫として建設された。
ガラスを取り入れた、最新の技術と融合して図書館として生まれ変わったのは2年前。

大震災後、初めて上京して、東京の災害に対する備えはかなりと感じた。
最も、東京の震度は水戸ほどではでは無かった、であろうが。





外観はレンガ造りを生かし、主な館や葉新築。
屋根は軽い素材のようだ。





入り口はカフェ/レストラン。





構造体の補強は、デザイン化された支柱を多用している。

水戸市内の被害を受けた公共施設、耐震構造とデザインを融合して再生してもらいたいと思った。

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サグラダ・ファミリア、スペインうたたね紀行④

2010年05月25日 01時50分16秒 | 建築
スペインうたたね紀行④

サグラダ・ファミリア


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スペイン観光の大きな目的の一つがアントニ・ガウディの建築群、と云う人は多い。
僕もその一人だが、詳しく分からず、漠然とした憧れ。
現場に立って観ること、その記憶は生涯の思い出になるはず。

1882年に着工し、今なお建設中ということもあり、通常の聖堂を観るのとは異なっていた。
朝一番の会場と同時に団体予約で入場したが、来訪者は多数だ。
見学を終えて、出た時は入場を待つ人たちが列を成していた。
これほど来場者の多い教会は世界的に見ても、数は少ないのではないのでは。

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地下には設計に関連する模型、建設開始から現在に至る資料などが展示されている。
『ウィキペディア(Wikipedia)』からの解説を。

サグラダ・ファミリアとは「聖家族」を意味する。
正式名称はEl Temple Expiatori de la Sagrada Família(聖家族贖罪教会)。
日本語では聖家族教会または神聖家族聖堂などと呼ばれる。

民間カトリック団体「サン・ホセ協会」が、貧しい人々のために聖家族に捧げる贖罪教会として建設を計画したもの。

初代建築家フランシスコ・ビリャールが無償で設計を引き受け、1882年3月19日に着工したが意見の対立から翌年に辞任。
その後を引き継いで2代目建築家に任命されたのが、当時は未だ無名だったアントニ・ガウディである。
以降、ガウディは設計を一から練り直し、1926年に亡くなるまでライフワークとしてサグラダ・ファミリアの設計・建築に取り組んだ。

ガウディは仔細な設計図を残しておらず、大型模型や、紐と錘を用いた実験道具を使って、構造を検討したとされる。
それらを含め、弟子たちがガウディの構想に基づき作成した資料などは大部分がスペイン内戦などで消失してしまっている(模型も破片になってしまった)。
この為、ガウディの死後、もはや忠実にガウディの構想通りとはならないこの建築物の建造を続けるべきかという議論があったが、職人による伝承や大まかな外観のデッサンなど残されたわずかな資料を元に、時代毎の建築家がガウディの設計構想を推測するといった形で現在も建設が行われている。

北ファサード、イエスの誕生を表す東ファサード、イエスの受難を表す西ファサードはほぼ完成しているが本来は屋根がかかる予定であり、またイエスの栄光を表すメインファサードのある南側は未完成である。
完成すれば、イエスの12使徒を象徴した12本の塔が立ち並ぶ。


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東側の生誕のファサードでは、キリストの誕生から初めての説教を行うまでの逸話が彫刻によって表現されている。3つの門によって構成され、左門が父ヨセフ、中央門がイエス、右門が母マリアを象徴する。




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中央の門を構成する柱の土台には変わらないものの象徴として亀が彫刻され、中央の柱の土台にはりんごをくわえた蛇が彫刻されている。
また、門の両脇には変化するものの象徴としてカメレオンが配置されている。
中央門では、受胎告知、キリストの降誕、祝福をする天使、東方の三博士や羊飼い達などが彫られている。
左門ではローマ兵による嬰児虐殺、家族のエジプトへの逃避、父ヨセフの大工道具などが彫られ、右門には母マリア、イエスの洗礼、父ヨセフの大工仕事を手伝うイエスなどが彫られている。

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西側の受難のファサードには、イエスの最後の晩餐から磔刑、昇天までの有名な場面が彫刻されている。
東側とは全く異なり、現代彫刻でイエスの受難が表現されており、左下の最後の晩餐から右上のイエスの埋葬まで「S」の字を逆になぞるように彫刻が配置されている。

最後の晩餐→ペテロとローマ兵たち→ユダの接吻と裏切り→鞭打ちの刑→ペテロの否認→イエスの捕縛→ポンティウス・ピラトゥスと裁判→十字架を担ぐシモン→ゴルゴタの丘への道を行くイエスとイエスの顔を拭った聖布を持つヴェロニカ→イエスの脇腹を突くことになる槍を持つ騎兵ロンギヌス→賭博をするローマ兵→イエスの磔刑→イエスの埋葬と復活の象徴、そして鐘楼を渡す橋の中央に昇天するイエスが配置されている。


以上のようなことだが、
外観・内部とも一言で言えば「凄いものだ」としか言いようがない。

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特に内部は、通常の教会建築とかなり異なる。
にかく、観ることが出来てよかった。

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日本人の彫刻家・外尾悦郎の手がけている、生誕のファサードの彫刻群の制作にかかわる姿も度々テレビで放送されている。

現地のガイドの説明によれば、この地区は当時の新市街地、教会が一つもないこと計画されたとのこと。スペインでは住宅区ごとに教会堂が在る、ということが当たり前のことらしい。

ガウディ及びサグラダ・ファミリアについては、以前から日本及び日本人の評価が高く、逆輸入の形でスペイン及び世界的な評価を受け「世界遺産」の登録がされるようになったとのことで、多くの先達の審美眼に尊敬の念を表したい。


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春風萬里荘 @笠間市

2010年02月28日 02時18分39秒 | 建築
春風萬里荘 @笠間市

1月20日に北鎌倉の魯山人の旧居を訪ねることが出来た。
その時、NHKの取材チームが撮影しているた。
たまたま日曜美術館を観たら、その際の取材が放映された。
偶然は重なる、必然なのかも知れない。

知り合いの方のお客様の案内に同行し、春風萬里荘に行くことになった。
ご承知のように、魯山人旧居の母屋が笠間日動美術館の分館として昭和40(1965)年に北鎌倉より移築され、春風萬里荘となった。



茅葺き入母屋造りの重厚な構えの江戸時代初期の民家は、もともとは、現在の神奈川県厚木市近郊の地にあたる高座郡御所見村の豪族で大庄屋・伊東家の母屋であった。



三和土(たたき)の土間の左手にある、本来は馬屋であった洋間は、年輪を刻んだ欅の木目を見せた「木レンガ」を敷きつめた床。自然石そのままを組み上げた暖炉や手斧削りの梁の棚板。

風呂場は脱衣所を含めると十畳間程の大きさ。



魯山人らしく、長州風呂と上り湯と洗い場がゆっくりとした広さの中に配され、周りの陶板はやはり彼自作のもので、半円筒形の織部陶板が青竹のようにめぐらされ、棕櫚縄でしめられた絵付けがなされている。
放送を観たばかりなので、いつもより丁寧に観た。

茶室「夢境庵」は、



千宗旦(千利休の孫)によってつくられた裏千家の名茶室「又隠」を手本として、魯山人が設計したもの。
三畳控えの間、四畳半本勝手、洞庫口水屋からなり、床柱は黒柿、長押は南天の樹を用いている。
躙り口際の塗り壁になっている部分に貴人口が設けられ、出入りを容易にしてある。
北鎌倉に在った時は、母屋より離れた茅葺き入母屋造りの独立した茶室で、魯山人の安息所として使用していた。

*茶室について知らないことばかり、解説を参考に記した。

見れば見るほど、知れば知るほど。観えるのは間違いがないが、解ったからどう。
ということでもないが難しい。

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ヒルサイドテラス40周年

2009年07月01日 10時54分19秒 | 建築
代官山、ヒルサイドテラス


入り口前、案内板と寄せ植え。季節の草の植え込みに気配りが。

東急東横線代官山駅から徒歩五分、ヒルサイドテラスが40年前に誕生した。
ヒルサイドテラスは旧山手通り沿いで数次にかけて実施したプロジェクトで、ヒューマンスケールな空間構成、成長する都市建築として高く評価されている。10m軒線を守り、用途地域が変わった第六期では、10m以上の部分をセットバックさせている。
設計は槙文彦(1928~)。
地元の土地所有者と協同組合形式の再開発のモデルだろう。この開発以後、代官山エリアは大きく変貌した。

旧山手通りのカフェ。

1969年A棟、B棟ができてから40年を迎えるとのこと。
恥ずかしながら名前は知っていたが訪ねるのは初めて、設計者や住人に関しても何も知らなかった。
この40年間に、緩やかに棟を増やし現在は旧山手通り沿いに12棟があり、これからも徐々に増殖するのだろう。
店舗、事務所、住宅、パブリックスペースからなる複合施設の開発は難しい。
更に、継続発展させるのは、いかに東京都はいえ、至難のわざと思う。

最近の大型開発(例えば、六本木ヒルズ・ミッドタウン)のように広域・高層化した方が効率よく集客度も高い。
片や大量生産、片や手造りの差だ。
姿勢は大幅に異なる。10メートル軒線を守り、人間的な目線を大事にするのは素晴らしいことだ。

住宅として事務所として使用している人たちはの多くは、各界で活躍している人が多いらしい。
その人達の協力もあって、当初からの方針が貫かれているのだろう。
当初からの参加者ではないがヒルサイドプラザ、ヒルサイドテラスの運営者、北川フラムの企画力、実行力は目を見張る。

*『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、
北川 フラム(きたがわ ふらむ、1946年10月5日 - ) は、新潟県高田市(現上越市)出身のアートディレクター。株式会社アートフロントギャラリー代表。女子美術大学芸術学部芸術学科教授。京都精華大学客員教授。父は良寛研究家の北川省一。「フラム」は本名であり、ノルウェー語で「前進」を意味する。を経て東京芸術大学美術学部卒業。国内外の美術展、企画展、芸術祭を多数プロデュースする。1997年より越後妻有アートネックレス整備構想に総合ディレクターとして携わる。国内外で展覧会・企画展を多数開催。
2000年から開催されている「大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレ」では総合ディレクターを務める。また、2007年には新潟市美術館館長に就任する。


ギャラリースペースと奥のライブラリー。



F棟エントランスとカフェ。

ヒルサイド内に事務所、カフェ、ギャラリー、等いくつか運営しているらしい。
昨年からはヒルサイド・ライブラリーも開設した。
会員制の図書室という感じである。このことに関してはまたの機会にふれたい。

とにかく、世の中に素晴らしい人が沢山いるものだと感心した。



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