「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

常陸国出雲大社@笠間市福原

2017年01月20日 22時44分18秒 | 宗教
常陸国出雲大社@笠間市福原




彫刻家・島剛さんの個展が常陸国出雲大社の境内「ギャラリー桜林」で開催されていると聞いて、陶芸美術館から足を延ばした。

笠間市福原の国道51号線沿いの山を切り拓いて、出雲大社(島根県・大社町)より分霊を鎮座する社が出来たのは平成4(1992)年12月4日。

ご祭神は大国主大神。
大注連縄は長さ16m、重さ6tで日本最大級。





拝殿の天井に、美術家の奥田コウドウさんが「常陸の雲」を描かれたと聞いてお詣りしたのは開設時で、調べて25年前と分かったが、もっと以前と思い込んでいた。



拝殿奥に鎮座の本殿は入ることは出来ない。
柵の外から拝んだが、国宝出雲大社本殿(島根県大社町))・神魂神社(島根県松江市)本殿と同じ「大社造り」。



神魂神社本殿。(2007年11月の訪問時の撮影。)


常陸国出雲大社は平成26(2014)年9月から単立宗教法人となった。

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熊野詣は多くの謎

2015年07月11日 17時43分45秒 | 宗教
熊野詣







高野山や熊野に関してはまるで知らないに等しい。
やっと念願がかなって訪れはしたが、要所を巡るバスの旅。
とは言え、現地に足を踏み入れたことは事実。
見た体験をもとに書き置き、徐々に手を加えたいと思っている。

白洲正子の『西行』(1988年 新潮社)に

熊野は記紀万葉の時代から知られた霊地であり、今も多くの謎を秘めている。一口に三山といっても、その関係がどうなっているのか、九十九王子の成立についても、ほんとうのところは解っていない。古くは「熊野の国」とよばれたように、それは深い山と大きな川と、そして海にかこまれた秘境で、遠いわりには道は伊勢からも紀伊からも通じていた。平安時代には、高野山や吉野からも行けるようになったが、どれを通っても気が遠くなる程の道程であることに変りはない。

現代においても、「深い山と大きな川と、海にかこまれた秘境」であることに変わりはなかった。



基本的に
●熊野三山は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社の総称。
●熊野古道とは、主に以下の5つの道を指す。
紀伊路(渡辺津-田辺)
小辺路(高野山-熊野三山、約70km)
中辺路(田辺-熊野三山)
大辺路(田辺-串本-熊野三山、約120km)
伊勢路(伊勢神宮-熊野三山、約160km)

高野山を参拝してから小辺路(こへち)沿いに熊野を目指す自動車路。
高野・熊野の2つの聖地を結ぶ小辺路は『修験の道』としての性格をも帯びており、修験宿跡や廻峰記念額も残されていると伝えられている。
峰沿いの古道ならば、2泊3日或いは3泊4日を要する。
1000メートル級の峠を3つ通過する様な感じらしく、バスの旅は70㌔を約3時間、山と谷をひた走った。バスではいっぱいの細い道が多い。

和歌山はまさに「山」の国、を実感した。備長炭で有名な《ウバメガシ》等も生えているのだろう。目立つのは杉林だが、原生林の照葉樹林も見受けられる。
林業の盛んな時代は宝なお山だったろうが、輸入材や鉄骨やコンクリートの時代、化石燃料の現代において、自然保護は難しいだろうと思った。

龍神温泉などを経て、やっと熊野本宮の近くまで出たが本宮には翌日の拝観と云うことにして、南紀勝浦の宿を目指した。

途中、翌日の予定「熊野速玉大社」を拝観することに。



「熊野速玉大神(くまのはやたまの おおかみ・イザナギ尊)を主神とする神社。大社のある新宮市 の地名は、古代からあった神倉神社に対して新しくこの速玉大社が 建立されたことが由来となっている。日本全国に約3千社ある熊野神社の総本社である。神仏習合の時代の、この大社の本地仏は薬師如来。



一遍上人絵伝・熊野速玉大社

場所は現在と同じらしいが、敷地の広さ、建物の再建日時などは何時なのか?
*「絵伝」は全体的に人物を小さく扱い、背景の自然描写に大きな関心が注がれ、四季の風景を美しく描いた歌絵は名所図絵的な趣きがる。
人物や建物の的確な描写には鎌倉時代の写実主義的な傾向が強く見られ、山水の描写には中国宋代の影響が指摘される。大和絵の伝統と外来の宋画の力強い表現を加えた作風は独特だ。



神仏習合や「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」の違いがどうも呑み込めない。

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壇上伽藍 @高野山

2015年07月10日 19時00分11秒 | 宗教
壇上伽藍 @高野山



根本大塔
伽藍の中心として816年高野山開創の頃より建設に着手、887年頃に完成した。
高さ50m四面30m。曼荼羅を立体的に配置してある。
現在の建物は1937(昭和12)年再建。外壁は1996(平成8)年に塗り替えられた。



大塔の内部。

高野山が開かれた当初、諸堂が建立された場所で、奥の院とともに高野山信仰の中心地。
伽藍とは僧侶が集い修業する閑静清浄なところで、諸堂に於いて種々様々な法要が営まれる。



金堂。
高野山一山の総本堂。年中行事の大半がここで勤修される。
現在の堂は1932(昭和7)年再建。







四隅の八供養菩薩と堂裏の壁面は、笠間出身の木村武山の筆。
武山は仏画の画家として名高い。茨城県人としては必見の仏様。



御社(みやしろ)
819年に大師は地主神を祀った。
1522年の再建。



西塔。
887年、大師が遺された「御図記」に従って大塔に続いて建立。
現在の塔は1834年の再建。



御影堂(みえどう)
弘法大師空海の御影(肖像画)がおまつりされているので、御影堂と呼ばれている。大師在世中には「念誦堂」とも、「真言堂」「持仏堂」などとも称されていたようだ。現在の建物は弘化5年(1848)。
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総本山 金剛峰寺 @高野山

2015年07月10日 08時49分14秒 | 宗教
総本山 金剛峰寺 @高野山





高野山は今年(2015年)で開創1200年。
4月2日から5月21日までの50日間「 高野山開創1200年記念大法会」が執り行われた。奥の院を案内してくれたガイドさんによると「奥の院の参道は銀座の大通り並みの混雑だった」とのこと。

高野山は標高800m以上の山々に囲まれた東西6㌔南北3㌔の台地に120余の堂塔・寺院を擁する一大宗教集落。
その中心が「総本山 金剛峰寺」全国の高野山真言宗3000ヵ寺の総本山。
総本山金剛峯寺という場合、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指すが、狭義としては1863(文久3)年に再建された主殿(本坊)を中心とした寺域。
宗務所が置かれ全山及び全国の末寺を統括している。



主殿(本坊)。

記念行事に展示された、木を積み上げたアート作品。



障壁画に飾られた部屋が沢山。



蟠龍庭。
四国産の青い花崗岩140個と京都産の白砂。



広間では茶菓子の接待と講話もあります。



主殿(本坊)の厨の天井の木組み。


護符と神棚。
日本の仏教は神仏混交でした。
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高野山 奥ノ院

2015年07月09日 19時08分17秒 | 宗教
高野山 奥ノ院



(奥ノ院への参道は杉や高野槇の古木が林立している)

「熊野三山、8つの世界遺産めぐり」をテーマのパックツアー。

限られた日程で観る時間も少なく旅と云えるほどではないが、初めての南紀の地、念願の場に立てたことは嬉しかった。
知らないこと、分からないことだらけを実感し、戻ってから図書館で本を借り、読みはしたが、そう簡単なことではない。
宿坊や現地に宿泊しながら巡るべきところなのだが、取りあえずのまとめ書き。

高野山は和歌山県伊都郡高野町にある標高約1,000m前後の山々の総称。
平安時代の弘仁10年(819年)頃より弘法大師空海(774年-835年)が修行の場として開いた高野山真言宗の本山で、比叡山と並び日本仏教における聖地。



(弘法大師肖像)



(「一遍上人絵伝」国宝・奥の院での参詣の様子。)
卒塔婆が林立する参道を上った所にある空海の廟所・高野山 奥の院。
三間四方の宝形の建物が廟で、玉垣の手前 の礼堂の傍らで念仏を唱えているのが一遍上人。*廟所と玉垣は現在も同じ。

●「一遍聖絵」または、「一遍上人絵伝」は伊予国(現在の愛媛県)に生まれ浄土宗を修めたのち、新しく独自の宗旨である時宗を興した開祖一遍(遊行上人)を描いた絵巻。国宝。
奥書により、1299年(正安1年)一遍の弟子にあたる聖戒が詞書を起草し、法眼の地位にあった画僧の円伊が絵を描いた。
長時間たって編集される高僧伝と異なり、一遍死後10年に、一遍が遊行した足跡を再確認しつつ、記録を基に、聖戒が一遍に同行した時衆と共に再踏破した後に書かれた物であり、資料的価値が高い。
*空海没後、約450年を経過した時に描かれ、現在とはかなり様子が異なるのが窺える。





歴史上の人物の墓所や霊廟が延々と続く。約20万基の墓地があると云われる。



小さな五輪の塔など纏められて、大木の下に。


この橋の先、燈籠堂と空海の廟所は別格の浄域につき撮影禁止。
弘法大師は今でも生き続けていると考えられていて毎日、食事が備えられる。
参拝した際、その僧侶の一行に出会った。



奥ノ院の案内図の前、ガイドさんの説明。
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一遍上人@清浄光寺(通称遊行寺)

2015年02月26日 07時52分44秒 | 宗教
一遍上人@清浄光寺(通称遊行寺)





藤沢には、鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派「時宗」の清浄光寺(通称遊行寺)が在る。
伊予国(現在の愛媛県)に生まれた一遍上人は、浄土宗を修めたのち新しく独自の宗旨である時宗を興した。
とは言え、一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、独自の踊念仏という信仰を生み出し、全国を遊行して貴賤を問わず広く念仏を勧め、民衆の布教に努めた一遍とその仲間は「時衆」と呼ばれ各地で活動したから、何処が本山と云う考えは薄かったようだ。



法灯を継ぐ人を「遊行上人」と呼んだが、三十二世遊行上人他阿普光は、天正19年(1591年)に常陸国の佐竹義宣に招かれ、水戸に水戸藤沢道場(後の神応寺)を建立し、時宗の本拠とした。
今は南町だが旧町名の「藤沢小路」はその名残。こうして短い間だが、遊行派本山となった。当初は寺号がなかったが、清浄光寺再興を受けて寛永10年(1633年)に神応寺と改称し、延宝8年(1680年)に現在の元山町の地に移転した。



その様な所縁の寺なのでお詣りしたが、寺宝として有名なのが「一遍上人絵伝」一遍聖絵(いっぺんひじりえ)または、一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん)。
長時間たって編集される高僧伝と異なり、一遍死後10年に、一遍が遊行した足跡を再確認しつつ、記録を基に、聖戒が一遍に同行した時衆と共に再踏破した後に書かれた物であり、資料的価値が高いので国宝に指定されている。

全巻を観た記憶はないが多くの本に掲載されている。

清浄光寺蔵なのだが、法蔵館に常時展示されているかは未確認。



20年位前に鵠沼在住の友人を訪れた際にこの寺を一度、お詣りした。
今回、二度目だが奈良や京都の他宗の本山と比べると質素なものだ。
関東と関西の信仰心の多少によるのか、宗派として在り方に拠るのか。

僕は寺社仏閣を訪れた際、何かを願う気持ちよりも、「生かせれて有り難う御座いました」申し上げることが多い。
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