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「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

瓦と塼

2013年12月30日 10時50分06秒 | 文化遺産
瓦と塼

今回の旅では大好きな塼や瓦が元来存在していた場所を訪ねルことが出来た。
山田寺、川原寺、橘寺、などの瓦や塼は大きな品ではないが、希少な価値がる。

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天人文の塼。
岡寺の本殿仏殿の壁面を飾っていたものと云われる。
飛鳥時代の岡寺は現在位より西、今の治田神社のところにあったとされる。
この優美な天女、現存するものは少なく、岡寺や飛鳥資料館の展示品は模造のようだ。
模造と云っても精巧な出来で、実物にほぼ近いように思える。
この様な塼で荘厳されたお堂は、いかなるものであったろうか。

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鳳凰塼。
正に飛び立たんと翼をいっぱいに広げた姿。
これも、鳳凰塼と同じく岡寺のお堂にあったといわれる。
現在は壺坂寺の寺宝らしいが、いかなる経過で壺坂寺に収まるようになったのか。
これまた、謎だ。この写真は飛鳥資料館に展示されている模造品だが、十分に鑑賞に堪える。

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橘寺、川原寺の塼。
どちらも聖徳太子ゆかりの寺で、道路を挟んで向かい合っている。
これらの塼は着色あるいは、金色に荘厳されていたのかもしれない。

塼や瓦が存在した場に立てたことを幸せに感じたが、飛鳥の宮跡や寺跡の位置関係や方角などが理解できたことも嬉しかった。現場に立つということが、何よりのこと。



粘土を雌型の原型に押しあててうつしとり,乾燥させて窯で焼いた浮彫状の像。

中国では周代に塼が建築に用いられ,漢代には特に発達した。
塼の表面に仏像をあらわした塼仏の遺品は北魏からみられ,斉,周(北周),隋,唐の遺品は多い。製作年代の明らかなものに東魏の興和5年(543)銘観音塼仏,唐の貞観元年(627)銘三尊仏塼仏などがある。
日本には7世紀後半ごろに伝わり,660年代前半創建の奈良県川原寺の裏山遺跡から,塑像断片などとともに1辺約20cmの方形三尊仏塼仏を中心とする大量の塼仏が出土している。

と云うことなのだが、理屈無しに好きである。


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頑張れ!スカイマーク

2013年12月28日 18時17分11秒 | 街創り
スカイマーク頑張れ

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12月20日(金)スカイマーク社が、茨城空港と米子鬼太郎空港をつなぐ「茨城-米子線」(神戸経由)の運航を開始した。毎日1往復の定期便で所要時間は2時間半で便利になった。
これまでの、神戸便・札幌便・那覇便に加え、茨城空港発は4便となった。

1月6日~3月29日の期間は片道4,800円と云うから魅力だ。

6月下旬に羽田からスカイマークで博多に行ったが、これまた格安の運賃だった。
博多空港から市内までは地下鉄で15分位、とても便利だ。

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神戸空港~三の宮はポートライナーで20分足らず。

今回の茨城空港発神戸を利用しての奈良の旅でスカイマークが安くて便利であることを実感した。

利用者が少なく採算が合わなければ、突然の中止もありうる。
多くの利用者を願い、神戸の街を少しばかり紹介。

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北側の異人館街に行く通りには、「ダルビッシュミュージアム」が。

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異人館は今や神戸の大きな資源。

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港の近く、旧居留地の辺りも震災から完全に復旧。

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公園の一角に、震災記念の灯。

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岸壁に保存されている、震災時の状況。
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当時のパネルなども展示されている。

街の何処にも震災の痕跡は感じられない。
東日本大震災の記憶さえ、忘れ去られようとしている。

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横浜の中華街ほど大きくはありませんが「南京街」には中華料理店が軒を連ねています。
多様な食文化は神戸の魅力です。


*阪神淡路大震災
1995年(平成7)1月17日に発生したマグニチュード7.2の明石海峡の淡路島寄りを震源とする地震に伴う地震災害。死者6425名,不明2名,負傷4万名以上,住宅全半壊20万以上,住宅全半焼7000以上にのぼる。
道路,鉄道など交通網,ガス,水道,電気,電話などライフライン施設が寸断されたほか,護岸,港湾施設などが破壊された。山麓部では地滑りが,臨海部では大規模な地盤の液状化現象が観測された。

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国のまほろば@明日香村

2013年12月28日 09時35分00秒 | 文化遺産
国のまほろば@明日香村

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橿原神宮前駅でレンタサイクルを借りて初冬の飛鳥路を廻った。
かなり高低差がある所も有り、押して登ることも。
のどかな田園風景の中に点在する社寺や遺跡を尋ねる旅は愉しいものだ。

倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし

飛鳥駅前の営業所に返却する手もあったが、橿原神宮の方が電車の本数が多く奈良まで戻るのに便利なので、振り出しに戻ることにした。
飛鳥のちの半分を廻ったという感じだ。
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橿原神宮前駅からまもなくの、剣池と孝元天皇陵。
飛鳥には多くの天皇陵や高松塚等の古墳も多い。

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岡寺。

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橘寺・聖徳太子生誕の地。

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川原寺跡

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飛鳥寺・日本最古の本格的仏教寺院。

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水落遺跡・飛鳥水落遺跡。
古代の漏刻(水時計)跡とされる遺跡。

甘樫丘は橿原市内の大和三山や藤原京などの風景を望むことができる。
飛鳥路の中心ともいえる。
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以前は自然のままだったが、丘全体が国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区となっている。散策路も整備され、は万葉集などで歌われた植物が植えられた「万葉の植物園路」となっている。
たまたま、この日は地元のボランテアの方々の散策路清掃日であった。

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丘の北側には甘樫丘展望台。西に樫原神宮方面や畝傍山。

東方に明日香村。
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明日香村の街路、文化財指定の、昔ながらの町並み。

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飛鳥の石造物@明日香村

2013年12月27日 10時05分13秒 | 文化遺産
飛鳥の石造物@明日香村

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明日香村を中心とした地域には、飛鳥時代に石で作られた遺物・遺構が遺されている。
人物像などは明らかに異形なもので、その他用途のはっきりしないものも多く、謎の石造物と言われている。

道教との関係を示唆する見解もあるが、詳しいことは分からない。
散在しているから、全てを見るのは難しいが、「飛鳥資料館」には精巧に復元された模造品があるので、おおよその大きさなどは分かった。
しかし、現地で見るのが大切で、今回見た幾つかを記すが、機会が有れば他の石造物も見たい。

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石舞台古墳。
超有名だが、僕は初めての拝見だ。古墳だから他の石造物より時代は上がるのだろうが、被葬者を含め詳しいことは分からない。
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30数個の岩の総重量は約2300トン、特に天井石は約77トンとかなりの重量ということで、造られた当時の優れた土木・運搬技術の高さがうかがわれる。
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酒船石(明日香村岡)。
上部に幾何学的な溝が掘られた石ゆえに、用途を含め謎が多い。
この下に位置する亀形石造物が発見されたので、関連性も示唆されているが、どうなのだろう。
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亀形石造物
平成4年(1992年)に酒船石の北の斜面で石垣が発見され、『日本書紀』の斉明天皇の時代に記述される工事に該当する遺跡と推測されている。
その後、平成12年(2000年)に大規模な発掘が行われ、砂岩でできた湧水設備とそれに続く形で小判形石造物と亀形石造物が発見された。
これら2つは水槽になっており水を溜めたと推定される。
さらにそれに続いて石を並べた溝や石段があり、全体を囲むように石垣や石敷がある。

酒船石の麓にこれほどの遺跡が埋まっていたとは驚いた。
おそらくは、祭祀の遺跡だろう。

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亀石(明日香村川原)。
亀がうずくまったように見える巨石。
河原寺と橘寺に通じる道路沿い、どの様な意味を持つのか。

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猿石(明日香村下田平)1702年(元禄15)に梅山古墳の西の田から掘り出された。 (飛鳥資料館の模造)

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石人像道祖神とも呼ばれる。
1903年(明治36年)須弥山石と同じ場所から発掘された石像で、岩に座った男性に女性が後ろから手をそえている。男性の足元から口まで内部に細い管が通り、途中で女性の口にも分岐していることから、噴水施設であったと推測されている。衣装は飛鳥調のものであるが、風貌から男女のモデルをペルシャ・インドに求める説もある。(飛鳥資料館の模造)

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須弥山石
1902年(明治35年)明日香村石神の田から発掘された(石神遺跡)。
浮き彫りがほどこされた石を3段に積み上げられた噴水装置だが、外側の模様や内部の水路がつながらないことなどから本来は4段ないし5段であったと推測されている。『日本書紀』には斉明天皇が外国からの使者を迎えて須弥山石のもとで饗宴を開いたことが記されており、文献と一致する唯一の石造物。
(飛鳥資料館の模造)



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山田寺跡@桜井市山田

2013年12月22日 22時11分56秒 | 文化遺産
山田寺跡@桜井市山田

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東京藝術大学大学美術館で11月24日まで開催された「興福寺仏頭展」。
白鳳の笑みを充分に拝見することが出来た。
この仏頭は、大化の改新で名高い蘇我倉山田石川麻呂が、641年に建設をはじめた山田寺の本尊として678年(天武天皇7)に鋳造された丈六仏像。
この像の故里を拝見したいと山田寺跡に。

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(跡地の脇に小さなお堂が建っている)

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飛鳥の中心部を西に望む丘陵に立地し、塔、金堂、講堂跡の土壇や礎石が良好に保存されている。
本格的な発掘調査は1976年(昭和51)に開始され、南から南門、中門、塔、講堂が一直線上に配列された伽藍(がらん)であることが判明した。
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1982年の発掘調査によって、その東回廊が、倒れた状態で地中に埋もれているのが見つかった。
1,000年もの間、地中に眠っていた建築部材は、脆くこわれやすくなっており、保存処理に、14年という歳月がついやされた。

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これらは、山田寺跡から歩いて10分足らずの「飛鳥資料館」に展示されている。
飛鳥の文化財を調査・研究する「奈良文化財研究所」の展示施設で、昭和50(1975)年に開設された。

沢山の出土遺物や模造品が展示されており、飛鳥の田園風景の地下には、「日本書紀」に記された世界が、時を止めたまま埋もれていることが良く分かる。
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山田寺の屋根に葺かれていた瓦は、「単弁単子葉」と言う独特の紋様。


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『野の花でおもてなし 無法庵 花往来』田中昭光(淡交社)

2013年12月22日 22時11分52秒 | Weblog
『野の花でおもてなし 無法庵 花往来』田中昭光(淡交社)

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茨城空港から神戸空港経由、奈良・斑鳩・飛鳥の旅の記録がまとまらないうちに、東京・真鶴・熱海の美術館行脚の12月だった。
奈良博物館前の「奈良茶房・友明堂」のウインドや店内の「花と器」は定評のあるところで、奈良を訪ねる人達のお休み処。
日々の花を写真で紹介した『野の花を活ける 茶花十二か月』(文化出版)昭和59年に出版以来、版を重ねた。
店主の田中昭光さんが平成24年に担当した淡交テキスト「茶花」に『野の花を求めて』と題した連載が、このほど単行本として出版された。

『野の花でおもてなし 無法庵 花往来』を出版された。
季節の野の花を自由に見立てた器に生けているが『無法庵昔語り』と題し、交流のあったお茶人などとの、昔話が挿入されている。
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どのページをめくっても素晴らしい花と器に出会える。
花は全て、自分自身が身近なところから摘んできた花ばかり。

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(ご夫妻で花を探しに、野山を歩いている写真が掲載されている)

カバーの「野に咲く花を気どらずに活け ひとり楽しみ客と語らう」のとおり、田中さんの話し声まで聞こえてきそうだ。


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MOA美術館@熱海市桃山町

2013年12月22日 22時11分41秒 | Weblog
MOA美術館@熱海市桃山町

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昨年、箱根町強羅の「箱根美術館」を観て感激したが、創立者の岡田茂吉が「日本の優れた伝統文化を世界の人々に紹介したい」との願いを継承して、1957年(昭和32年)に熱海美術館を開き、岡田の生誕100周年にあたる1982年(昭和57年)を機に、現在のMOA美術館が開館した。

この美術館は国宝の紅白梅図屏風( 尾形光琳 二曲一双)、手鑑「翰墨城」 1帖 311葉、色絵藤花文茶壺 (野々村仁清 )3点の他重要文化財65点を有する美術館だ。
更に、復元ではあるが、秀吉の「黄金の茶室」など話題の多い。

20年以上前に訪れたが、再訪して、感激を新たにした。
エントランスから美術館本館まで約60mの高低差を、総延長200mにおよぶ7基のエスカレーターで登る。
エスカレーターの壁面や天井は照明が刻々と変化し、 エスカレーターの途中に直径約20mの「円形ホール」がある。
自然環境をそこなわないようとの配慮からオープンカット方式を採用し、山の斜面を上から掘り下げて通路を設置し、完成後もう一度土を盛って木を植え、元通りの山に復元した大工事。

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ヘンリー・ムアの「王と王妃」が設置されたムア広場 。

初島や伊豆大島、房総半島から三浦半島、伊豆半島まで180度の大パノラマを眺望できる。
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能楽堂もある。

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横山大観、菱田春草ら日本美術院の巨匠、京都画壇の竹内栖鳳の作品をはじめ、上村松園、伊東深水等の美人画など、日本画約50点の企画展が解されていた。。

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復元された「光琳屋敷」。
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構想の雄大さに改めて驚き、収集品の質と量にも驚嘆した。

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「天上の舞 飛天の美」@サントリー美術館

2013年12月22日 21時46分39秒 | 美術展
「天上の舞 飛天の美」@サントリー美術館
2013年11月23日~2014年1月13日まで


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宇治の平等院を訪ねたのは何時の事であったろうか。
古美術の世界に魅入られ、暇を見つけては奈良や京都に通った。
鳳凰堂に関しては、建物の見事さと堂の扉の下の七宝の飾りが印象深い。
堂内が暗く、阿弥陀さんや雲中供養菩薩像をはっきりと観た記憶は薄い。

平等院鳳凰堂が2014年春に解体修復・落慶を迎えるのに先立ち、国宝「雲中供養菩薩像」14躯や、国宝「阿弥陀如来坐像光背飛天」6躯などが「天上の舞 飛天の美」と題してサントリー美術館で展示されることになった。

「飛天」とは、仏を讃えて空を舞い踊る天人のこと。
あるものは腕や脚を大きく伸ばして踊り、あるものは楽器を奏でるなどその華麗な姿は様々で、古来多くの人々を魅了し続けてきた。

飛天はインドで誕生し、中央アジア、中国を経て日本に伝わった。
ガンダーラの彫刻から始まった歴史を、彫刻・絵画・工芸の作品によって紹介している。
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中川一政美術館@真鶴町真鶴

2013年12月22日 21時46分26秒 | Weblog
中川一政美術館@真鶴町真鶴

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相模湾に面し、鶴の様に伸びた半島の町が神奈川県下足柄群真鶴町。
先端の真鶴岬に近い山の中にアトリエを構えていた画家・中川一政(1893-1991)の記念館が開館したのは、1989年平(平成元年)3月だ。

平成2年には「第15回吉田五十八賞」(建築設計)、平成10年には「公共建築百選」(建設省=現国土交通省)を受賞するなど、建築物としても高い評価を得ている。
中川にとって、1986年(昭和61年)松任市に作品を寄贈した「松任市立・中川一政記念美術館」に次いで2つ目の美術館となった。

美術館には、作品並びに収集品など約600点が寄贈された。
それらは、年に数回の企画展などを通じ、順次公開されている。

真鶴は、1949年(昭和24年)にアトリエを構えて以来、「福浦」や箱根「駒ヶ岳」など1991年(平成3年)に97歳11か月で没するまで、制作に励んだ地であり、没する2年前に開館した記念美術館は正に記念だ

今回の展示は「参考作品」と位置づけられる中期の作品が主に展示されていた。
参考作品とは、本人が焼却してしまいたいと思った作品でありながら、焼かれなかった作品で、本人にとっては不本意であったらしい。
それらは、後年の作に通じるものが沢山ある。

中川作品の多くは油絵だが、書も多くの愛好家がいる。
僕もその一人だが、一見下手に見えるが、書けそうで書けない書は油絵と同等に評価されている。

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更に、古美術の収集家としても知られ、没後の2003年に開催されたオークションには168点が出品され、完売した。
特に、1万円以上として出品された作者不明の油絵がゴッホの作と分かり、数千万円で落札され、話題を呼んだ。

この時のカタログには多くの愛蔵品が掲載れている。
出来得れば、どれでも1点欲しくなる。

話題は脇道にそれたが、念願が叶った訪問であった。

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唐招提寺@奈良市五条町

2013年12月21日 00時49分59秒 | 文化遺産
唐招提寺@奈良市五条町

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平城宮跡を出て大宮通りに、平城京の二条通りである。
右折して秋篠川を目指す。
川沿いの自転車道を走り唐招提寺に。

山門に至る道は拡幅され、大きな駐車場も出来た。
2000年から2009年にかけて行われた金堂の解体修理(「平成の大修理」)の際に環境整備が行われたのであろうが、余りの変り様に驚いた。

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しかし、山門を入ればまるで変わらない姿に安心した。0

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金堂は奈良時代建立で、寺院金堂としては現存唯一。
堂内には中央に本尊・廬舎那仏坐像。
向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の3体の巨像を安置する。
本尊の手前左右に梵天・帝釈天立像、須弥壇の四隅に四天王立像を安置する。

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講堂は平城宮の東朝集殿を移築・改造したもので、天平宝字4年(760年)頃、平城宮の改修に伴って移築された。

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経蔵、宝蔵、ともに奈良時代の校倉造で礼堂(鎌倉時代)の東側に並んで建つ。

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戒壇は境内の西側にある。
建物は江戸時代末期に焼失して以降再建されず、3段の石壇のみが残っていた。
1978年にインド・サンチー式の古塔を模した宝塔が造られ塀も回されたらしいから、訪れたのは35年も前のことになる。

唐招提寺到着は3時半頃、閉門までの時間も迫り、ゆっくりと拝観できなかったのは心残りだが、再訪が叶ったことを喜びたい。


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平城宮跡歴史公園

2013年12月20日 22時43分02秒 | 文化遺産
平城宮跡歴史公園

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近鉄線で奈良に向かうと、大和西大寺駅を出た電車は、平城宮跡を横切る様に進む。

しかし、発掘し整備されている平城宮跡は平城京のほんの一部。
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今から1300年ほど前、唐の長安をモデルに東西4.3km、南北4.8kmの長方形。東側に、東西1.6km、南北2.1kmの外京を加えた総面積は2,500ヘクタールで、現在の奈良市街より広大な地域だ。

いつもは車窓から見る風景を実際に訪ねることが出来た。


近鉄線で奈良に向かうと、大和西大寺駅を出た電車は、平城宮跡を横切る様に進む。

しかし、発掘し整備されている平城宮跡は平城京のほんの一部。
今から1300年ほど前、唐の長安をモデルに東西4.3km、南北4.8kmの長方形。東側に、東西1.6km、南北2.1kmの外京を加えた総面積は2,500ヘクタールで、現在の奈良市街より広大な地域だ。

いつもは車窓から見る風景を実際に訪ねることが出来た。

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遺構展示館
発掘した状態(遺構)をそのまま見られる。

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東院庭園

皇太子の宮殿があった場所で、「東宮」あるいは「東院」と呼ばれていた。
南東端に東西60m、南北60mの池があり、これを中心に構成されている区画が東院庭園で発掘された池の周りに復元された建物。
柳など、調査から分かった樹木も植えられている。

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以前は発掘された跡の柱を示す植え込みのみだったが、大極殿や朱雀門が復元され,往時の姿を望むことが出来るようになった。

朱雀大路は幅約74m。
道路というより広場と呼びたくなる。

人力しかない時代に、これほどの都を築いた先人に対して、驚嘆する以外にない。
発掘されたのは、ほんの一部分でこれから多くのことが解明されるだろう。

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海龍王寺@奈良市法華寺町

2013年12月20日 18時17分59秒 | 文化遺産
海龍王寺@奈良市法華寺町

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奈良国立博物館と興福寺の間に国道369号が走っているが、この道を北上すると京都へと続く。鉄道が開通する前はこの街道を利用したので、東大寺「転害門」の辺りは多くの旅館があったとのことだが、今でもその雰囲気を残している。
転害門を左折して西に向かえば平城京に至る一条通り。

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この通りの北側には聖武天皇陵、光明皇后陵。

さらには、ウワナベ古墳・コナベ古墳と呼ばれる大きな古墳があり、古来から栄えた場所であろう。地図を片手に自転車で街歩きをすると、自由自在、いろいろなところを見ることが出来る。

在原業平ゆかりの寺で花の寺としても有名な「不退寺」は以前に行ったことがあるので、今回は通過した。

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光明皇后が創建した国分尼寺の「法華寺」は皇后のお姿をうつしたと云われる「十一面観音像」(木彫)はあまりにも有名だが、春と秋の特別開帳の時期しか拝観できない。
門前から境内を覗いて、海龍王寺に。

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海龍王寺は「隅寺」「隅院」「角寺」「角院」などと呼ばれる。
光明皇后宮(藤原不比等邸跡)の東北の隅にあったことから付けられた名称と言われ、「法華寺」の一角に位置する。
第八次遣唐使によってもたらされた「海龍王經」により航海安全を祈願し、隆盛を極めた時もあった。

明治以降は境内の荒廃が進み、無住の時期が続いたが、昭和28年(1953年)に住職が着任し、堂宇の修理、境内の整備が行われた。
と云うことだが、門の脇の築地など改修されていないが、このままの方が、奈良の雰囲気を感じることが出来る。余りにも完全に修復、時には無かったものを作り上げてしまうのは如何なものかと感じることが多い。

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西金堂には天平時代の「五重小塔」(国宝)が安置されている。
天平時代の建築技法を今に伝えている。

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小さいながら、趣深い寺だ。

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なら仏像館@奈良国立博物館

2013年12月20日 16時24分47秒 | Weblog
なら仏像館@奈良国立博物館

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骨董・古美術が好きになって図録など本を読む楽しみも覚えたが、博物館や美術館や参考館・資料館の見学に費やした時間が多い。

東京国立博物館の年間パスポート購入すれば、東博・京博・奈良博などは通常展示は何度でも観られる。
各館ごとに企画展も開催される混雑するが、平常展は優品が並んでいるしのに観客は少ない。

奈良国立博物館の本館は、明治27年(1894)に完成した奈良で最初の本格的洋風建築で、当時宮内省内匠寮技師であった片山東熊(かたやまとうくま・1854-1917)が設計した。
フレンチルネサンス様式で、明治中期の欧風建築として代表的なもの、といわれる。最近の耐震検査においても、十二分の強度を有していたらしいから、明治期の設計や施工技術は素晴らしい。
それほどに由緒ある建造物であったが、1972年に新館が建設されると活用されなくなってしまった。

最近、博物館等の耐震化や展示空間の改装が多くなった。
奈良国立博物館・本館も平成22年7月にリニューアルし「なら仏像館」として再オープンした。
飛鳥時代から鎌倉時代にいたる仏像や仏教美術が数多く展示され、さらに、中国・朝鮮半島の仏像等も展示されている。
展示室や照明が一新され、とても明るく観やすい空間となった。

第一室 大和の仏たち

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特に、国宝・銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)は長谷寺所蔵。
技巧を駆使し、裏側の銘文なども資料として、一級の文物だろう。

中央に特別公開の「定朝様の丈六阿弥陀像」(奈良・外山区所蔵)
文化財の保護や修復も博物館の大きな仕事で、修復なった平安時代の丈六の阿弥陀仏が期間限定で公開されていた。
地方のお堂などに、地元の人達に守られている仏様が結構ある。

第二室 如来の種々相
「阿弥陀如来立像」(兵庫・浄土寺、鎌倉時代)
以前に浄土寺を訪ね拝観したはずだが、御堂の見事さだけが印象に残っている)

これまた修復されて、お寺に戻るまでの期間限定の特別展示「降三世明王坐像」(大阪・金剛寺、鎌倉時代)は丈六仏でいかにも鎌倉時代を思わせる色彩と迫力ある姿。
第三室から第十三室まで石仏、金銅仏、塑像と塼仏などが展示されていた。
あくまでも信仰のための仏様だが、御堂で見るよりも明るく広範囲な角度から拝見できることは嬉しいことだ。

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馬の目@奈良市高畑町

2013年12月19日 21時59分23秒 | 食べ歩き
馬の目@奈良市高畑町

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浮見堂から興福寺や奈良国立博物館に向かう荒池の畔は、壊れた築地塀なども残され古都の雰囲気が漂う。
その一角に「食事処・馬の目」がある。

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道路の反対側は、老舗の料理旅館「江戸三」で、母屋と離れ屋10室のみとか。

40年近く前、奈良や京都の古社寺や博物館を廻った際に入った骨董と食事の店。
昔と同じ構えなので入ってみた。

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店名の通りに「馬の目の皿」が長押の上に沢山飾られ、数えられない程の「蕎麦猪口」並んでいる。

古民家風の作りを上手く使っている。
今ではこの様な店も増えたが、その姿に圧倒され我が家も同じようにしたい、と憧れた。

当時と違ったのは、その頃から有名になった佐藤勝彦さんの書画の作品や陶器などの常設館を兼ねるようになったことだ。

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店内は佐藤作品でくまなく埋め尽くされている。

この作家は水戸で個展を開催したことがあって、会場で制作の実演もされた。
椿の絵柄の杯を買ったが、どなたかに差し上げてしまって、今は手元にない。
季刊誌『銀花』などに何度か特集されたし、手書きの書画を挿入した特集号も発行された。

店内で食事に供される器は、全てが佐藤勝彦作だった。

昼のメニューは、季節の野菜や魚を使った五品の料理に季節のご飯、自家製の香の物、みそ汁、デザートが付く定食のみ。

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土瓶に入ったほうじ茶。

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石鯛の刺身。

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サワラの麹漬け。

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レンコン饅頭。

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蕪とノドクロ。

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洋風茶わん蒸し。

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おひつに入ったご飯はムカゴ入り、なめこ汁、香の物。

丁寧に作られたお料理と、お運びの気の利いた女性、古いものと新しいものが一体となったインテリア。

味も心も満足した奈良での昼食だった。

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奈良時代のピラミッド・頭塔@奈良市高畑町

2013年12月19日 15時11分23秒 | 文化遺産
奈良時代のピラミッド・頭塔@奈良市高畑町

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白毫寺をあとに新薬師寺方面に。

高畑町には志賀直哉の旧居があり、閑静な場所だったが、今では住宅地だ。
破石町の交差点脇のホテルの裏庭に頭塔(ずとう)と呼ばれる奈良時代の遺跡が在ると聞いていたので立ち寄った。
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1辺30m、高さ10m、7段の階段ピラミッド状の構造をしている
東西南北の各面に石仏を配置する。1922年(大正11年)、国の史跡に指定された。奈良文化財研究所による1986年(昭和61年)からの発掘調査終了後、北半部は復元保存、南半部は発掘前の現状保存の形で残されていた。

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石仏のうち「浮彫如来及両脇侍二侍者像」(東面第一段)

頭塔から東大寺方面への坂を下る。

この辺りは春日山からの地下水が湧き出すのか、池が多い。

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特に、丘に囲まれた荒池の「浮見堂」は風情がある。

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