「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

上田薫展@横須賀美術館 9月12日〜11月3日

2020年10月30日 17時37分15秒 | 美術館
上田薫展@横須賀美術館
9月12日〜11月3日




NHK「日曜美術館」のアートシーンの中で、上田薫展が横須賀美術館で11月3日迄、開催されていると報じ作品などが紹介された。
初期から現在までの約80点、全貌を知ることが出来る展覧会だ。
92歳ながら元気に絵筆をとられている姿を拝見し、嬉しかった。

第1章「リアル」の前史
東京藝術大学卒業制作の《自画像》(1954年)から、初個展で発表した抽象絵画。
ポスターコンクール受賞作、自らの表現を模索していた1960年代終わり頃までの作品など。



第2章スタイルの確立
視覚でとらえたものを「ただひたすらリアルに描く」。
対象だけを画面いっぱいに拡大して描く上田流リアリズムの出発点で、1970年代前半までの作品。



第3章「時間」を描く
1970年代には、溶けかかるアイスクリームやスプーンから滴るジャムなどの動くもの、つまり現象を描くことへと関心が移り、移ろいゆくものの一瞬の姿をとらえる試みから、代表作の《なま玉子》シリーズが誕生した。





第4章「光」を描く
作品に「時間」という要素を取り込む構成に成功し、次のモティーフに泡やシャボン玉を選び、被膜に映りこんだ周囲の光景や自分自身の姿を克明に描いた。
透過や反射、屈曲といった光の性質への関心は、コップやビン、液体、川の流れといった新たなモティーフにつながっていく。

第5章 素描と版画
水彩画、パステル画、版画も多く手がけている。



第6章 そして現在へ
新たな表現を目指し、留まることを知らない。



先の奥様との間にお嬢さんがいる、とは聞いていたが、画家・イラストレーターであった。



*展覧会のHPなどからまとめたが、関連映像「上田薫 制作と語り」(2020年春〜夏)、ギャラリートーク「娘と妻が語る上田薫展」の2本がYouTubeにアップされている。
制作に関わる裏話が語られ、作品をより深く理解する手がかりで、その画面を映した画像も掲載。

●上田さんは1985年に茨城大学教授に着任し、92年に退任されるまで水戸に住まわれた。
その頃、水戸芸術館は開館に向けての準備が進行中で、森田義之さん・十河雅典さん等と共に「新たな美術館」についての討論など、地元の人たちとの交流も行われた。

自ら設計された常澄のお宅に伺い、お話を伺うこともあった。
奥様の葉子さん(今ではキルト作家の第一人者として活躍されている)は作家として歩み始めた頃で、それまでのキルトとは異なる斬新な作品に感心した。

茨大を退任後は、山野美容芸術短期大学教授として相模原に転居され、更に鎌倉に移られた。

1997年にフジテレビのギャラリーで開催された個展「流れ」のレセプションに草間弥生が参加していたことにビックリ。



2011年に水戸芸術館現代美術ギャラリーで開催された「CAFE in Mito 2011 ― かかわりの色いろ」展に際しては自作を何点か寄贈された。
その時の自作前、奥様の葉子さんと。

2012年4月、鎌倉の鶴岡八幡宮を眼下に見る丘の上のアトリエを訪ねた。
2階のから大型のキャンバスを出し入れする空間など、ユニークでかつ眺めの良い住まいで、雑誌などにも紹介された。



竹林で有名な報国寺や旧華頂宮邸をご案内頂いたのも懐かしい思い出だ。

2014年7月7月20日~8月31日、水戸市立博物館で開催された「ふしぎ ふしぎ 超リアル! 上田薫のスーパーリアリズム」展
など、水戸を離れても水戸とのつながりは深い。

今回の展覧会は埼玉県立近代美術館との共同企画で、11月14日~2021年1月11日まで埼玉で開催される。
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-縄文の美と技、成熟する社会-@茨城県立歴史館

2020年10月23日 11時57分26秒 | 博物館
-縄文の美と技、成熟する社会-@茨城県立歴史館
10月10日(土)~11月29日(日)






草創期は1万年以上前で、世界でも最古の文化とも言われる「縄文時代」。
近年の研究では、縄文社会は狩猟・採集の生活を基盤としながらも自然資源を巧みに利用し広域のネットワークを有し、豊かな精神文化を持つ社会であることが分かってきた。





●縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられる。
草創期(約1万6,000 - 1万2,000年前)、早期(約1万2,000 - 7,000年前)、前期(約7,000 - 5,500年前)、中期(約5,500 - 4,500年前)、後期(約4,500 - 3,300年前)、晩期(約3,300 - 2,800年前)となる。
*約6000年前には海面が現在より4m〜5m高く、縄文海進と呼ばれる。

茨城県内のほか、関東地方やその周辺の遺跡から出土した土器や土偶や装身具。
国宝の火焔土器や重要文化財も含まれているのは凄いことだ。
美しい造形で技術的にも卓越した優品150点余りが展示されている。

第1章「造形美と匠の技」





新潟・山梨・群馬などから出土した火焔型土器、水煙型土器、王冠型土器。
国宝2件、重文10件、を含む。
県内出土の「阿玉台式土器・加曾利E式土器」
美浦村「陸平貝塚」出土土器。
何れも縄文時代中期の優品。



装身具も多く展示されている。
土製の耳飾り、耳環など精緻の極み。

今回の展示品は考古学の資料展示と言うより、美術品としての価値の高い品が各地から集められた。
久し振りに充実感の在る展示だった。

第2章「豊かな精神文化」

土偶や石棒や石剣・石刀。
用途がはっきりとは解明されてはいないが,何れにしても祭祀に使われたのであろう。



県内最大の石棒。



ハート形土偶・みみずく土偶・遮光器土偶など多岐に渡る。

第3章「広がるネットワーク」
硬玉製大珠・ヒスイ原石・運ばれてきた新潟の土器・黒曜石など。
特定された原産地からはるばると運ばれたものも多い。
広域のネットワークがすでに出来上がっていた証拠と考える時、農耕・牧畜の定住生活が継続して営まれていたのだ。



第4章「特化されるモノ作り」
土器・漁具など、特化したモノ作りが行われていた。

第5章「縄文文化の到達点」
単なる実用品のみならず祭祀を含めた精神文化や、美的感性は「原始時代」という感じよりかなり現代人と共通するものを感じた。

縄文の土器の美しさには以前から興味を持っていたが、縄文人の豊かな感性と生活を見直す良い展覧会だ。
会期中に再度足を運びたいと思っている。
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水戸一高の「歩く会」10月18日(日)

2020年10月19日 20時40分56秒 | 水戸今と昔
水戸一高の「歩く会」10月18日(日)







茨城県立水戸一高の名物行事・第72回「歩く会」が10月18日(日)に開催された。
新型コロナウイルス禍で通例の約70キロを3分の1に短縮、学校を出発し学校帰着、昼間のみの開催と言う変則的な形で行われた。
昨年度は、台風19号(東日本台風)の影響で中止となっており、2年連続の異常な事態だが、伝統のバトンがつながった。

午前9時出発と聞いていたので、本城橋の付近で待っていたが一向に出てこない。
知道会館の職員に訊いたら「体育館に集合して気勢をあげ、下のグランドから那珂川の勝倉橋方面に向かったとのこと。







今回は殆どの行程が那珂川の堤防沿いを歩くコース。
急いで追いかけて、元気な姿を見つけることが出来た。

この行事は2004年に発行された恩田陸の小説『夜のピクニック』のモデルで、その後2006年の映画化を経て音楽劇として舞台化もされたので、一般にも知られるようになった。

昼から翌朝まで歩くというこの行事は、夜中に数時間の仮眠を挟んで団体歩行、翌朝が自由歩行となっている。
団体歩行はクラス毎に縦隊で歩き、自由歩行は全校生が一斉にスタートし、母校のゴールを目指す。
12時迄の到着には、全校生徒中何番目かという順位が付くが、上位を狙うのは運動部の生徒だけで、大部分の生徒はのんびりと歩き通す。

修学旅行がない学校なので「歩く会」が一大行事なのは今も昔も変わらない。
茨城県の教育制度改革で、水戸一高附属中が令和3年度の開校が予定されている。
自由な校風が、進学一辺倒になってしまうのを若干危惧している。

僕らの頃は①常磐線「勿来」駅②水戸線「小山」駅③水郡線「常陸大子」駅を出発する3コースだった。
幟旗を上げての歩行は小休止を何度も重ね、明け方の大休止は地元の父兄の豚汁の炊き出しなどが楽しみだった。

団体歩行時にかわす雑談は、普段の学校生活では話さないことも話す雰囲気になる。
学校生活の思い出や卒業後の夢などを語らいつつ、の青春小説。
原作も読んだし、映画も見たが良くは憶えていない。

恩田陸の在学時は既に半数は女子生徒。
我々の時代は、女子は学年に3人で小説のような恋バナ的な話は無縁だった。
従って、自分の体験と重ね合わすことは無理な話。



ゴールの横断幕(Arukukai makes us strong)
今回、午前中は下流の勝田方面に。
午後は上流の萬代橋方面だったが午後は見てないのでゴールする光景を見届けることが出来なかった。



高2の時の「歩く会」、昭和33(1958)年。

今回は第72回とのことで、逆算すると約60年前の12回。
起源については諸説あるが、旧制中学から新制高校へと学制が変更した際に、旧制中学の「夜間歩行訓練」的なことが形を変えて生まれたように思える。
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大森多喜雄が写した、昭和45(1970)年の水戸市泉町広小路~1丁目

2020年10月15日 22時23分24秒 | 水戸の今と昔
大森多喜雄が写した、昭和45(1970)年の水戸市泉町広小路~1丁目。



「トヨタ洋品店」と「「フタエ屋呉服店」
「トヨタ」は賃貸ビルに転業し、スポーツクラブ「サンスポーツ」に。

写真は無いのだが、右側に泉町交番と「小泉旅館」が在った。
「小泉旅館」は昭和49年(1974)ビルに建て替え、「安田信託銀行水戸支店」が入居した。

「フタエ屋」呉服店。
この地は「井筒屋総本店」の跡地で、「水戸の梅」「梅羊羹」「吉原殿中」などの水戸銘菓の本家だった。



「マルショウ果物店」と「岩崎薬局」
マルショウは後に6階建てに、1階~2階はフルーツパーラーや喫茶店で若い女性で賑わった。上部は事務所が入居。



「ミハシ呉服店」創業の店。
その後は水戸の南町、仙台、東京・銀座などにも支店を設ける勢いだった。



鮮魚商「八百徳分店」。
南町「八百徳」の分店として、昭和24年頃に開業。
我が家のご近所、冷凍のクジラ肉・泥鰌などを買いに行った。



備前町の道路を挟んで、建築資材「奈良屋商店」、旅館「いずみ荘」、砂糖問屋「柏屋」、「伊勢甚百貨店」「内田肉店」「常陽銀行泉町支店」



この頃のこの辺りの住宅地図。



現在の泉町広小路から1丁目。
安田信託銀行として使われた「小泉ビル」は「リリースクエアー」に。
「トヨタビル」と「フタエ屋」は撤去されてコインパーキングに。
「マルショウビル」と「岩崎薬局」共に廃業。
「ミハシ」の所は「戸塚フラワー」。



現在の備前町への通り。
角の「八百徳分店」は昨年末で閉店。
道路を隔てた、奈良屋~常陽銀行泉町支店に至る1画の全て新築されて、2006年(平成18年)「水戸京成百貨店」として開業した。

(カラー写真2枚は2010年10月に高橋が撮影)

●泉町広小路は元の濠を埋め立てて出来た広場のようなところ。
元々、軒数が少ない街だが今や風前の灯となってしまった。

1丁目の「水戸京成百貨店」は茨城県で唯一の百貨店だが、辛うじて凌いでいる。
更に、新型コロナウイルスによる影響は測りきれない。

水戸駅から大工町にかけての商店街は何故か南側が優勢で北側は寂しい。
この写真アルバムも南側のみで、北側が全くない。
撮影はしたが、プリントしなかっただけかもしれない。
全18冊の内、数冊を紹介した。
このシリーズはしばらくお休みし、機会をみて県北や人物などを掲載の予定。
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稲田「西念寺」の黄葉・昭和58(1983)年:大森多喜雄

2020年10月14日 10時28分44秒 | 水戸の今と昔
稲田「西念寺」の黄葉・昭和58(1983)年:大森多喜雄





稲田御坊の名で親しまれている稲田禅房西念寺。
親鸞聖人が恵信尼とともに約20年庵を結んだ浄土真宗発祥の地。
大森さんも昭和58(1983)年11月の13日~16日に訪れ、黄葉を愉しんだ。





















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水戸南町4丁目から泉町広小路:大森多喜雄さん、昭和45(1970)年の撮影アルバムより。

2020年10月13日 10時53分42秒 | 水戸今と昔
水戸南町4丁目から泉町広小路。
大森多喜雄さん、昭和45(1970)年の撮影アルバムより。



鍋辰商店(3丁目)と亀印製菓(4丁目)。
道幅の狭い道路が隔てている。



亀印製菓の間口は広く、奥行きは裡通りまで通じた広い敷地で、銘菓「水戸の梅」の製造工場をはじめ、小売り販売やレストラン・茶房も在った。



正電社・田鍋時計店・大丸紳士服店。
大丸紳士服店の店頭に閉店セールの表示がある。
翌年から再開発が始まったのだ。



「ほまれや鮮魚店」は再開発に参加せず、藤沢小路に移転する。



「ほまれや鮮魚店」と「久保田果物店」の間には袋小路が在って、奥に5~6軒のお店で商店街を成していた。
「久保田果物店」の隣のシャッターに「美容室ロリエ」と書かれてある。

*「亀印製菓」から「美容室ロリエ」までの敷地が、翌年に「東水ビル」として再開発されることになる。



「田原屋・水戸店」
川崎に本店を有する総合衣料チエーンで大繁盛だった。
隣の菓子舗「鉢の木」は建て直したが、現在も盛業中。



昭和35(1960年)の撮影の王子運送水戸支店。
王子運送が平須に転室した跡地が「田原屋」となる。
隣の生蕎麦「はま勘」の一部分が「鉢の木」の敷地となった。



「鉢の木」、中華そば「千代美」、手芸用品「フタバ」。



レストラン「エリエイト」、ケーキ「ヨシノ」カメラ「富士商会」。



*文政5年(1826年)の南町~泉町。
水戸城の第一外郭の紀州堀までは、武家屋敷のみ(田町越えの際に商家は転出させた)。
堀を隔てた鉄砲町と泉町の通り沿いは商家(赤色)と武家屋敷。
1887(明治20)年になると、紀州堀の北側を埋め立て、西町と鉄砲町の間に道路を新設するなどの区画整理を行った。

●亀印製菓が中心となって設立した「東水ビル」に「東急ストア」が誕生したが、1980(昭和55)年に撤退。その後「ユニー水戸店」となったが1993(平成5)年に撤退した。
「東水ビル」は長期に渡って空きビルとなったが、2007(平成19)年に住友不動産に売却され6月に取り壊された。
田原屋の土地も住友不動産が取得し、高層マンションを建てる計画したが、実現せず。
2008年(平成20年)に遊休の敷地の一部を、水戸市が住友不動産から借りることで合意が成立。
2009年(平成21年)に「南町自由広場」がオープンした。





*南町自由広場の一部は飲食店、「ユードム アリーナ」として使用されている。



*「千代美」から「富士商会」までは4階建てのビルに改築された。
ラーメンハウス「千代美」は昨年で営業を中止した。
(カラー写真は2020年10月に高橋が撮影した)
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「笠間の菊まつり」大森多喜雄のアルバムから。

2020年10月11日 23時43分27秒 | 水戸今と昔
「笠間の菊まつり」大森多喜雄のアルバムから。

日本三大稲荷の一つである笠間稲荷神社をメイン会場に「笠間の菊まつり」が10月17日から始まる。

大森多喜雄さんは水戸市内を始め茨城県内の昭和の時代を写しとった。
昭和59(1984)年の「笠間の菊まつり」のアルバムから。































(プリントをスマホで撮影したので、画質が落ちています。)
●第113回笠間の菊まつり
期間:令和2年10月17日(土曜日)から11月23日(月曜日・祝日)まで。
場所:笠間稲荷神社ほか
※今年度は、コロナウイルス感染防止の観点から、菊人形展の開催はない。
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大森多喜雄が写した、昭和45(1970)年の水戸市銀杏坂から南町1丁目。</

2020年10月11日 11時24分15秒 | 水戸の今と昔
大森多喜雄が写した、昭和45(1970)年の水戸市銀杏坂から南町1丁目。



当初は、丸興という月販会社のため地元の組合が建設した共同ビル。
その後、川又書店・駅前店などを経て現在の1階はセブンイレブン。
この北側の大銀杏が「銀杏坂」の由来だが、今の京成ホテルに向かう上り坂を指した。
この銀杏の木は戦災で焼け残り再生した復興のシンボルだった。
ここから郵便局に至る坂道(現・銀杏坂)は堀を一部埋め立て明治20年に開削された新道。

ビジネスビルとして建設された、フジビルの旧館。
地下に「はロマンス座」という映画館が在った。
現在の新館は1階にJTBなどが入居している。



ホテル・新治館は新築されて「アーバンホテル・シルバーイン」。
1・2階がテナントの商業部分、3階がフロント。
当時としては斬新な方法だった。



久米洋服店もテナントビルとして姿を変えた。
東照宮の鳥居の辺りも久米ビルの新築に伴い変わった。

鳥居を潜ると映画館「水戸東映」は宮下銀座の入り口として大賑わいだった。
今は、駐車場となっている。



木造2階建ての「中屋旅館」はビル建て替えビジネスホテルに。
その後、オーナーが代わって雑居ビルに。

「小林パン店」昔ながら堅パンなどで人気のパン屋さんだった。
パン屋からビジネスビルに転換、現在1階には画廊が入居。



相田商店の跡地は福島銀行水戸支店ビル。

福甚ビル、地下に素晴らしい喫茶店が在った。
奥に赤い「観音堂」、「観音堂たばこ店」と「不二家」やうなぎ屋が入ったビルの間には細い通路が在った。
現在、この南側を含め大型の「ライオンズ・マンション」。
道路に面して「リクシル不動産・マイルーム館」

ミマツホテルは、既に現在のビルとなっていた。
隣の木造2階建ては取り壊され現在は更地。



菓子問屋・杉山産業。
現在、新築されて賃貸ビルに、スピーク英仏会話などが入居している。
南に抜ける通路を挟んで「パチンコマルゼン」隣に「大福パチンコ」
パチンコ屋が2軒連なっていた。
マルゼンの跡地はコインパーキング。
大福の地下にも喫茶店が在ったが、火事で類焼し新築。
AUショップを経て現在は居酒屋が入居。



宮下に抜ける路地を挟んだ共同ビルの角は小貫菓子店で、現在・バイロンベイコーヒー水戸店。
この辺りのアーケードは最近まで残っていた、



「銀寿司」のお嬢さんが女優さんになった、との話を聞いたことが有る。
この辺りに郵便局方面への歩道橋が設置された際に位置関係が変わったかもしれない。
現状と対比しようとしてもよく分からないところが有る。



「山城屋」は7階建ての「水戸スタービル」に。

「キムラ」「沼田緑園」の2軒は隣の「新世界」がビル化した際に同化したか?
パチンコ「新世界」ビル、2階は喫茶ルポ―。
現在は1階に居酒屋と洋服、2階に居酒屋、間口の広い雑居ビル。



「食堂・石井屋」現在も4階建ての石井ビルとして存在。
1階は洋装店2階が飲食店。
「婦人服・カトレア」は、その後「ミスタードーナッツ」の時代が長かった。
現在はカフェ・バーとなっている。
「宝石の小林」ビルになって、現在も営業している。



「岡見玩具店」・「セキネ靴店」・旅館。
この3軒が旧サントピアの敷地となった。
サントピアが終業・取り壊されて現在は駐車場。



菓子の「木村屋」魚屋「八百徳本店」は今も揃って在る。



港屋酒店のスパーマーケットは「ダイエー」進出の際に閉店し、その後貸店舗に。
一部は自営のワインバー。
「会沢ミシン商会」はビルになって、現在1階は婦人服店。
ビルになった頃、2階に素敵なコーヒー店が在った。



「アイサワ服装店」現在は更地。
南町1丁目と2丁目の間の交差点(現在のスクランブル交差点)

「シンヤタクシー」とユニホームの「タイヘイ」
2階はコーヒーの「ふじたや珈琲店」



1丁目の「ミナミ食堂」は変わらず営業中。

思い出すままにコメントを付けたが、不確かな部分もかなりある。

●大森多喜雄さんが水戸市内や茨城県内を移した19冊のアルバム。
50年前、中には60年前の撮影も含まれるが、ほとんどシミや退色がない。
ミューズ水彩画紙のスケッチ ブック(ワトソンブック・F6)に貼られていたので湿気の影響が少なかったのではと思う。


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大森多喜雄が写した昭和45(1970)年の水戸市南町3丁目・南側

2020年10月08日 13時36分09秒 | 水戸今と昔
大森多喜雄が写した昭和45(1970)年の水戸市南町3丁目・南側



角が丸くて大型のガラスの岡崎家具店は南町2丁目。
この脇の南北に貫くのが「旧「大坂町」は江戸時代の幹線道路。



紳士服のエビサワ。
その後、ビルとなったが、軽井沢の「茜屋珈琲店」が入居した時は当時の水戸には衝撃的だった。
隣の洋品店「カトウ」。
カバンの老舗「竹脇カバン店」
現在は、両方の敷地に竹脇カバン店のビルが建つ。

横須賀履物店は5階建てのビルになった。
横須賀さんが家主の貸しビル、現在1階は保険屋さん。





「水戸の梅」などでお馴染み「井熊総本家」
何故か昨年から営業を停止している。
三浦の文具は健在です。



万年筆の「天下堂」ここは早めに貸しビル業に。
高校生の頃に通った懐かしい店です。



橋本荒物店と隣のビルは解体されて、今は駐車場。

新井金物店も立て直されて、貸しビル。



小林肉店は貸しビルに、早めに貸しビル業に転換した。
イワマ洋服店は近年廃業。
隣の紳士服の「こくふだ」、ビルとなりましたが元気に営業しています。



靴店「ミハシ」は泉町の呉服の店から始まって靴屋も、あちこちに支店も在って大繁盛でした。
ここには現在、別の呉服店。
カワカミ化粧品店。ここは今何だっけ?



文具の浦井は廃業。
「コロンビアクリーニング店」は反対側に移転。



栗原写真館はビルになって、スタジオは上部の階に。



総合衣料「十字屋」。
所に本店を持つ大型店でした。其の後「リードビル」としてショッピングセンターの世になるも廃業。
現在は駐車場。



佐久間漆器店、水戸藩時代からの老舗。
その後「高山ビル」となったが、ほとんど入居者がないまま。



坂場化粧品店。
坂場銃砲店。
親戚だったようです。
其の後石川時計店になって、現在は魚屋とレストラン。
アメリカ屋靴店。

脇の通路の小野瀬さんが地主。
現在何軒かが入居する貸しビル。
其の後石川時計店になって、現在は魚屋とレストラン。





鍋辰酒店。
新築されて、現在はセブンイレブン。

●大森多喜雄さんは姉の嫁ぎ先の会社を手伝い、定年退職後は撮影三昧、水戸市内や県内の各地を旅した。
アマチュアカメラマンではあったが、現像から引き延ばしの全てを行い、プロカメラマン以上の腕前だった。
このアルバムは縦41.5㎝横33㎝と大判で、見開きとして使用している部分もある。
現像・プリントの全ての作業を自宅の暗室で行った。
モノクロプリントはマット調なので落ち着きのある画面。
淡々とありのままに撮影されている。
約50年前の水戸市の姿、かなりの部分が変わった。
空き地や駐車場になってしまうと、以前は何が在ったかも思い出せない。
今となっては貴重な資料だ。
多くの方々に見て頂く機会が有ればと考えている。

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大森多喜雄が写した昭和45(1970)年頃の水戸市下市本町

2020年10月07日 00時45分24秒 | 水戸今と昔
大森多喜雄が写した昭和45(1970)年頃の水戸市下市本町



大森多喜雄(1910~1992)さんが、1970年代の水戸市内・笠間・北茨城など茨城県内を写したアルバムが遺族の押し入れから見つかった。
モノクロで数百枚の写真が約20冊のアルバムにまとめられてある。

『筑豊のこどもたち』の土門 拳(1909~1990)と同時代に生きた大森は、土門拳の影響を感じる作品もあるが、地元の風景や風俗を写した。

その中の1冊は、水戸市下市の旧本1丁目から4丁目の商店街の南側と北側が対応するように構成されているので、街並みを散策している感じになる。



































時代を記録するという、写真の大きな役割。

(アルバムをスマホで撮影したので、現物よりかなり画質が落ちています)

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水戸信願寺の「親鸞と恵心尼と信蓮房」@ 水戸市 緑町

2020年10月06日 09時51分29秒 | 水戸今と昔
水戸信願寺の「親鸞と恵心尼と信蓮房」@ 水戸市 緑町



「親鸞と妻の恵心尼と幼い信蓮房の三人」。
(1979年・渡辺卓凞・作)

新築された客殿前の芝生に再設置された。



東日本大震災までは本堂脇の石組の台の上に。







親鸞。
親鸞像と恵信尼・信蓮房像は別に鋳造されている。



恵信尼・信蓮房の二人像。

美術史家の山本 哲士さんは、『信願寺の親鸞上人たち。イタリア映画を見ているよう。』と題し、

『親鸞が越後から常陸国に向かった時、親鸞は39歳、恵信尼は30代前半、信蓮房は4歳だったそうだから、その様子を描いた彫刻像なのだろう。
3人のそれぞれの表情、動き、着衣の流れ。 
マッシブ(量感)であり、しかも動きがある。
寡黙だけれど、一人ひとりにもストーリーがあり、そして、3人の関係も繊細。
正面から見て、心持ち 親鸞が前に出るような立ち姿。
恵信尼の振り切ったような眼差し。
俯き、一輪を握りしめる信蓮房。
いかにも渡辺さんらしい作品。
渡辺さんは、自分が茨城県の美術博物館に就職した時、嘱託でいらっしゃった方。ずっと県の広報関係の技官をされ、ポスターや図案の仕事をされた。
一方、彫刻家としての活動を続けられた。』
『自分は幼い頃からよくお目にかかっていた方だった。
実は渡辺さんは、僕の小さい頃をモデルにしてくれた作品もある。
ロダンや、その後の日本の近代彫刻家の作品がいろいろよぎる。
この作品があるこの信願寺の門柱は、彫刻家 後藤清一さんの作品。
深く親鸞に帰依した人だった。
この石の彫刻も、優しい形であり、空に向かって堂々としていた。
当然ながら、後藤先生と渡辺さんのこの彫刻をめぐる交流もあったのだろう。』

*山本さんのFB掲載文が適切と思い、引用させて戴きました。
(一部を抜粋)





信願寺の門柱。
彫刻家・後藤清一のデザインによる。
柱と言うより仏塔のようでもある。



山門・本堂・塀などが東日本大震災による損傷で撤去され更地となっている。
一日も早い復旧が望まれる。

●信願寺の創建は貞永元年(1232)、親鸞聖人の弟子の1人唯信房が開山したと伝えられる。
唯信房は橘村幡谷城主だった人物で、当時は幡谷次郎信勝と名乗り日頃から観音菩薩を信仰していた。建保4年(1216)、信勝の霊夢に観音菩薩の化身が立ち、その御告げにより鹿嶋神宮に参拝の為、幡谷村を訪れた親鸞一行を城に招き入れ弟子となり唯信という法名を授かったと云われる。

開山当時は幡谷に在ったが、何度か移転を繰り返し慶長10年(1605)に水戸城に西側(現在の信願寺町)に移り、延宝9年(1681)に火災で焼失すると水戸藩2代藩主徳川光圀の命により現在地に移された。
親鸞二十四輩第二十三番寺として信仰を集めている。

●渡辺卓凞(わたなべたくあき)大正6(1917)年水戸市生まれ。
東京美術学校卒、茨城県立美術館嘱託。
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吉田正雄さんのこと。『草花は語る』(岩田正著)から

2020年10月03日 12時55分32秒 | 人と作品
吉田正雄さんのこと。
『草花は語る』(岩田正著)から







水戸プラザホテルのフロントとロビーを飾る吉田正雄作の絵画。

『草花は語る』(岩田正著)は花にまつわる物語だが、人との出逢い・交遊録で、1回に数名以上、全編で数百人が登場するのも愉しい。
地元の石岡の同窓生、水戸までの通勤を共にする友人、勤務先の上司、画廊・企画催事で関わった作家たちなど多種多彩だ。

「スイートピー」(193㌻、平成4年2月9日・1992年)は画家の吉田正雄さんの、あれやこれや。(抜粋・転載)

『先日、二科会の評議員・吉田正雄さんの画業40周年記念の新作展が、私どもの店で開かれ盛況裡に終了した。開会に先立ち開かれたレセプションには数多くの知人が集い、祝いの生花があふれた。
この日が実は吉田さんの誕生日でもあった。やや遅れて来場した水戸観光協会長の金沢正一さんの奥様から「先生これお誕生祝の花よ」と、本当は展覧会祝いの花を渡られたが、誠にいいタイミングだった。
上野の美術の秋を開く二科展に私が初入選したのは19歳の時だったが、吉田さんは何と17歳の高校生だった。以来、40年画業一筋に生きてきた。
今は亡き東郷青児の愛弟子として、その卓越した表現力と斬新な感覚で二科の全ての賞を獲得してきた。
不思議な縁がもとで、いろいろと私どもの企業は吉田さにお世話になった。
中央ビルゴールデンホール八階にある金属製のレリーフは、昨年亡くなった綿引敬之輔会長の依頼で作成したんものだ。
工事中のビルの外壁にある作業リフトに、吉田さんは何トンもあるレリーフの塊を抱えて会長と一緒に乗り、命の縮む思いで取り付けた作品だ。
水戸プラザホテルのロビーにある長さ10㍍の油絵も吉田さんの作品だが、恐らく県下最大の大作だろう。
今月11日より、県立つくば美術館で吉田さんの画業40周年の回顧展が開かれる。
自選した作品群が一堂に展示されるが、苦労したなつかしい作品、授賞に輝いた作品などが並ぶことだろう。
多彩な吉田さんが手がけた壁画が完成した「東雲」で開く回顧展の祝宴の日は、ちょうど私の誕生日だ』(抜粋・転載)



水戸プラザホテルの庭園のオブジェ「創世」
ゴールデンホールのロビー設置のものと似ている。

豪快で洗練された国際人「怪獣マサオ」と親しまれ、水戸にも度々来られていた。
クリスマスパーティーやゴルフコンペなど思い出が沢山で、いささか長い引用になった。
画業40周年記念の新作展とレセプション、つくばの「東雲」の祝宴にも出席させて頂いたが、吉田さんらしい華やかな集いだった。
中央ビル・ゴールデンホールの巨大なレリーフも印象に残る。







版画による年賀状、交友が多いから数百枚規模だろうが、律義に毎年頂いた。

晩年はバリ島に工房を設け、彫刻など立体作品も手掛けた。
絵描きより芸術家として幅広い分野で活動したいと願っていた。
二科会のリーダーとして期待されていたが、残念ながら1998年に63歳で亡くなられた。



本年の1月19日~26日、土浦市民ギャラリーで「吉田正雄の世界展Ⅱ ~土浦とパリ、バリ~.」と題する回顧展が が開催された。
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長山はく筆:竜胆(リンドウ)

2020年10月01日 19時42分34秒 | 人と作品
長山はく筆:竜胆(リンドウ)






秋に青紫の花をつける竜胆(リンドウ)は、桔梗(キキョウ)とともによく知られている。
中国植物名(漢名)の竜胆・龍胆(りゅうたん)の音読みに由来し、中国では代表的な苦味で古くから知られる熊胆(くまのい)よりも、さらに苦いという意味
で竜胆と名付けられたという。

花屋で売られているリンドウは一直線の茎に花が沢山着いて味気がない。
骨董と山野草の収集家・墳本喜久蔵さん宅の庭で拝見した野草のリンドウは地を這うような姿で丈も花も可憐だった。
株を戴いたが栽培するのは難しく、いつの間にか消えてしまった。



そんな折に「竜胆」の色紙を見かけて手に入れた。
日立出身で水戸市千波に在住した女流画家くらいのことしか知らなかった。

『草花は語る』(岩田正著)の最終100話「健康と生きがい:ヒメジョン」で長山はくさんの人なりを知ることが出来た。一部を抜粋したが、お目に掛かっておけばよかったと、残念である。

『明治、大正、昭和、平成と画道一筋に来年九十九歳になる日本画家長山はくさんがいる。
長山はくさんは東京女子美術学校に学び、松岡映丘に師事し、昭和7年には帝展で特選を獲得した画家だ。
私は、長山さんが東京で戦災に遭い、疎開していた御前山にいたころからの知り合いだ。
失意のどん底にあった御前山時代以後、はくさんは山口蓬春先生などに励まされ、あまり丈夫でない身体をかばいながら花を描いてきた。はくさんを支えたのは画業へのあくなき執念だったろう。
私の学生時代に六十歳近かった、はくさんだが清楚で端麗な姿にあこがれを抱いた思い出がある。
川合玉堂先生の推薦で北白川宮家日本画講師を務めていたはくさんが、御前山時代は絵筆はおろか畑仕事に追われたり、田植をさせられたり散々な思いをしたそうだ。
大正初めに女子美大に行ったお嬢さんにとって、父と師の死、戦災、農作業と追い打ちされた人生は、誠に変転と試練の歴史であったろう。
竹下夢二の描くきもの姿の美人に似たはくさんは、明治人の気骨で一人身で生きてきた。』(書かれたのは1992年、93年出版)

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『草花は語る』岩田正著(新いばらきタイムス社発行・1993年)

2020年09月29日 20時11分25秒 | 本・雑誌
『草花は語る』岩田正著(新いばらきタイムス社発行・1993年)







野辺の草花に寄せた身辺時評と人間模様。
四季折々の草花を、みずみずしい水彩画を添えたエッセイ100話。

岩田正さんは1932年生まれ。茨城大学教育学部美術家卒。
伊勢甚百貨店に三十余年勤務。宣伝畑二十年、役員七年、美術サロン顧問を務めた。
1990年10月から92年9月まで「新いばらきタイムス市場に100回にわたり連載されたものをまとめ『草花は語る』として1993年に刊行された。
装丁・題字・挿画まで岩田さん自身が手がけた。









カラーを含む34枚の絵も収録。(B6判、270頁)

コロナウイルス禍になってから、昔の旅の写真を見て振り返ったり、古い本を読み返したりすることが多くなった。
「伊勢甚百貨店」宣伝部や画廊という仕事柄、交流範囲の広い方だった。
ルックスも話もスマートな洗練された方だった。

巻末の著者紹介に住所と電話番号が有ったので懐かしく思ってお電話した。
昭和7年(1932)の生まれとあったので、少々の不安はあった。
電話に出られたのは奥様で「3年前に亡くなられた」とのことだった。



出版の年に頂いたハガキが挟まっていた。
岩田さんの句が添えられていた。
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徳川慶朝 追悼展@サザ コーヒー 本店:ギャラリー SAZA

2020年09月26日 16時06分50秒 | 美術展
徳川慶朝 追悼展@サザ コーヒー 本店:ギャラリー SAZA
9月15日〜28日 10時〜18時30分






江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜のひ孫で2017年に亡くなった徳川慶朝さんの追悼展が、ひたちなか市のサザ コーヒー 本店:ギャラリー SAZAで開かれている。

1950年静岡県に生まれ、間もなく東京の港区高輪に転居し育った。
カメラマンや大学講師として活動しながら、2004年にサザコーヒ―と共に自身で焙煎した「徳川将軍珈琲」を生み出した。
これが縁となって07年に、ひたちなか市に移住することに。
サザ会長の鈴木誉志男さん達と農業法人を作り、稲作を始める。
収穫した米をかまどで炊くなど、昔ながらの田舎暮らしを愉しんだ。



フリーのカメラマンとして徳川ゆかりの地を撮影したり、慶喜家の歴史を伝える本も執筆。
慶喜家に伝えられた文物は「松戸市戸定邸歴史博物館」に寄託するなど、資料の保全にもつとめた。







会場には、写真やゆかりの品などおよそ100点を展示。
徳川ゆかりの場所を撮影した写真では、慶喜の弟・昭武や慶喜の家臣で、実業家の渋沢栄一がパリ万博を見学した際に訪れたフランスのホテルや、慶朝さんの父が過ごしたブラジルの家の写真など。

慶朝さんの姪、山岸美喜さんが会場で説明などをなさっていた。





訪問は9月20日(日)お彼岸の連休中とあって「サザ コーヒー 本店」は大盛況、拡張された駐車場も満車だった。
ソーセージとスープの付いたパンセットと珈琲を戴いた。

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