顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

街の中の春!…水戸城5番目の堀跡

2024年04月24日 | 季節の花

那珂川と千波湖に南北を挟まれた河岸段丘にある水戸城、その一番西側で城より約2キロ離れた5番目の堀跡は、西の谷という緑地公園になっています。(10日ほど前の写真ですが…)

市街地に囲まれていますが、台地からしみ出した湧水が流れる谷は驚くほど自然そのものの植生が残っています。



ちょうど藤の花も咲き始めた園内で目にとまった草花を撮ってみましたが(4月20日)、外来種の侵入にも負けず日本古来のいろんな在来種が季節を告げていました。


ここに隣接する偕楽園はセイヨウタンポポに席捲されていますが、谷に挟まれたこの一画は嬉しいことに在来種のニホンタンポポ(日本蒲公英)ばかりでした。


オドリコソウ(踊子草)は、野山でよく見かける多年草で、傘を被って手拍子する踊り子の姿にぴったり、命名者に敬意を表したいと思ってしまいます。


湿地が好きなムラサキサギゴケ(紫鷺苔)は、庭づくりのグラウンドカバーとして園芸サイトで販売されているのを見かけました。


キク科のオニタビラコ(鬼田平子)です。同属で小型のコオニタビラコ(小鬼田平子)が春の七草の「ホトケノザ」ですが、シソ科で紫色の「ホトケノザ」にすっかりその名を奪われてしまいました。


春は黄色い花が多いですね…クサノオウは、黄色い乳汁が出るので「草の黄」、皮膚疾患に効くので「瘡(くさ)の王」、いろんなものに効く「草の王」などの命名説があります。


キツネノボタン(狐の牡丹)は、葉の形が牡丹に似ているので狐に騙されたみたいだというのが名前の由来といわれています。


ムサシアブミ(武蔵鐙)はマムシグサやミズバショウの仲間でサトイモ科テンナンショウ属の多年草。仏炎苞という花の形が武蔵の国で作られた馬具、鐙(あぶみ)に似ていることから名が付きました。


ムラサキケマン(紫華鬘)は、仏殿に吊るす仏具の華鬘(けまん)に似ているので名付けられました。日本全国に分布していますが、全草に有毒成分をもっています。


すでに花が実になったネコノメソウ(猫の目草)です。この状態が昼間の猫が目を細めた様子に似ているので命名されたといわれますが、あまり似てないですね。


以上は在来種ですが、やはり外来の侵入種が多く見られました。

戦後観賞用に移入された南米原産のイモカタバミ(芋片喰)は、いまや完全に野性化しています。


北米原産のアメリカフウロ(亜米利加風露)、在来種の薬草ゲンノショウコ(現の証拠)と同じ仲間です。


コメツブツメクサ(米粒詰草)、こちらはヨーロッパ原産で、7㎜くらいの小さな花ですが同じマメ科のクローバー(シロツメクサ)などによく似ています。


北米原産のマツバウンラン(松葉海蘭)、松葉のような葉とウンランに似ているので名が付きましたが、ランの種類ではありません。優し気な花ですが繁殖力の強い雑草です。



こんな街中の公園ですが、春を謳歌するいろんな花を観察することができました。

タケノコがどんどん出ていています。ここを見守っている近所の方は、伸ばしてしまうと邪魔になるところに出ているのは根元から鋸で切っていると話していました。


水戸の台地は水を含んでいるため湧水が多く見られ、水戸の地名も川や沼に囲まれたこの土地を表しています。この緑地でも水たまりに孵ったばかりのオタマジャクシを久しぶりに拝見できました。

佐竹氏内乱の舞台…桜の山入城址

2024年04月19日 | 歴史散歩

茨城県北の山間部には約500年間この地を治めた佐竹一族の山城がたくさんあります。とはいってもかすかに残る堀や土塁もほとんど山の中に埋もれていますが、中には地元の有志の方々が草刈りや案内板設置などの整備をしている所もあります。

その中で何度も訪れたお気に入りの山入城は、百年戦争といわれた佐竹氏の内乱「山入の乱」の首謀山入氏の居城でした。標高185mの要害山頂から標高100mくらいまでの尾根に階段状の連郭式山城が築かれています。


地元の国安げんき会が建てた城の想定図をgoogle航空写真に当てはめてみました。本丸は一番下の郭になっていますが、茨城城郭研究会の「茨城の城郭」では一番高いところがⅠ郭、一番下がⅤ郭とされています。いずれにしても頂上部分は詰めの城で、主要部分は下の廓だったのではないでしょうか。


土橋と竪堀の案内板がある遺構は、クルマを停めてすぐのところです。


郭の周りをまわって上り道が造られています。

ここは「茨城の城郭」では2郭とされ、さらに一段高いところが1郭です。


1郭には山中にしては立派な案内板が建っています。


1郭の奥にある櫓台が要害山の山頂で国土地理院地形図では185.3mになっています。


櫓台にある祠は、荒れ放題でしたが整理されてしめ縄が張られていました。


櫓台から見下ろした1郭、桜が散り始めていました。


クルマで下山途中には段々状の廓が続きますが、農地や、道路などで改変されていて遺構とは断定できないようです。


下の廓付近から見た地元の国安地区の集落です。


下山した県道33号から見た要害山の全景です。手前に流れる山田川は鍋足山を源に37キロ流下して久慈川に合流し太平洋に注ぎます。

ところで山入の乱とは―
常陸源氏の名門佐竹氏8代貞義の七男師義は足利尊氏に従って転戦し、観応2年(1351)に播磨国で討ち死にしますが、その戦功により子の与義が国安郷一帯などを与えられ、山入氏を称したといわれます。やがて小田野や高柿、依上などの庶家を周辺に独立させ、佐竹宗家と肩を並べる勢力を持つようになりました。

その後応永14年(1407)11代宗家の佐竹義盛に子がなく、関東管領上杉憲定の子を養子に迎えようとしたとき、山入与義、長倉義景などの有力支族がこれに反発し、宗家との間で山入の乱が起こりました。一旦鎮圧されましたが、山入氏はたびたび佐竹本家と対立し、延徳2年(1490)山入義藤、氏義の代には宗家15代佐竹義舜の太田城を奪い14年も占拠したこともありますが、のちに義舜の反撃に遭い、永正3年(1506)に山入城は落城してしまいます。

山入氏義はその子義盛と共に一族の小田野義正のもとに身を寄せますが裏切られて斬られ、5代約100年の山入の乱はようやく終結、庶流の小田野氏、高柿氏、国安氏などは生き残り、佐竹宗家の家臣として存続したとも伝わります。

まさに、「花散るや兵どもの夢の跡」の城址で、攻防の鬨の声が聞こえるようなひとときを過ごしました。



さて、近くにある「竜神大吊り橋」を久しぶりに訪れてみました。30年前にオープンの時、名称募集で「ビッグ375」(橋の長さに因んで)というのを応募した仙人ですが見事に外れました。

ちょうど男女4人のグループが高さ100mの橋からのバンジージャンプに挑戦していました。遠すぎた写真ですが、人間と繋がれたロープの落下速度が異なるため、ロープは緩んで落ちてゆくのが写っています。上がってきた4人は笑顔で楽しかったと…、なんと女性が3人でした。なお、料金は19,000円と掲示されていました。

500年前の落城の城址と令和時代の女性バンジージャンプ、なんともタイムスリップをしたような麗らかな春の日になりました。


城跡に咲いていたマムシグサ(蝮草)です。茎の周りの葉鞘の色がマムシに似ているので命名され果実は猛毒とされます。
桜の花びらが散っていました…。

やっと満開!…水戸の桜いろいろ

2024年04月14日 | 水戸の観光

例年よりずいぶん遅かった桜の開花も、今年は入学式に合わせるように4月第2週に入ると満開になりました。

追い立てられるように駆け足で撮ったあちこちの桜です。


水戸城三の丸に残る巨大な堀跡の桜並木は、老木を伐採し世代交代されましたが、桜の名所とされた以前の姿になるのにはもう少しかかりそうです。


桜並木の奥に見えるのは、水戸藩の剣術の流派のひとつ、北辰一刀流の東武館です。現在でも民間剣道場としては特異な存在として知られています。


三の丸に建つ茨城県庁の旧庁舎は、昭和5年建築で今も現役、近世ゴシック様式のレンガ張りの重厚な外観はいろんなロケや撮影に使われています。 


旧県庁舎裏の梅林沿いの桜並木は、句会の花見の宴の指定席でした。


すでに永い歳月が流れてしまったいま、天に昇った懐かしい顔がたくさん浮かんできます。



水戸城の天然の堀の役目をした千波湖畔の桜並木は約30種750本、ビル群の奥に水戸城址があります。


湖面の前方の台地は標高差約20mの偕楽園です。水戸城から西へ約3キロの地にある偕楽園は出城的役割も果たしたといわれています。



逆川緑地は逆川沿いに広がる細長い公園で、水戸藩2代藩主光圀公が敷設した上水道「笠原水道」の水源地があります。


一級河川の逆川は、両岸に連なる斜面林からの湧水を集めて流量を増し、驚くほどきれいな水が市街地の中を流れています。



水戸八幡宮は、佐竹義宣公が水戸に居城を移すにあたり造営し、その本殿は国の重要文化財に指定されています。 


拝殿左手には、水戸藩9代藩主斉昭公のお手植えと伝わる左近の桜(二代目)が満開でした。


もちろん当時の桜といえばヤマザクラ(山桜)で、茶色い新芽の様子が歴史を感じさせてくれるような気がします。



最近地元では脚光を浴びている安国寺のシダレサクラ、菜の花畑を配した一画がありました。

寛文3年(1663)創建と伝わる曹洞宗の寺院で、山門脇の古木は樹齢約170年、ライトアップされると水を撒かれた山門の石畳に映る幻想的な「逆さ桜」が評判になっていますが、残念ながら撮影した日はまだ5分咲きくらいでした。


いつものように気を揉まされた桜の季節は、あっという間に終わりを迎えます。それにしても何かと急き立てられたようなこの時期、季語の「花疲れ」が身に沁みました。
       
解く帯の渦の中なる花疲れ  白川節子
大かがみありたじたじと花疲  赤松蕙子
花疲れとは酔ひざめに似たるかな  今瀬剛一
首傾ぐ弥勒菩薩や花疲れ  殿村莵絲子
花疲れこの世に疲れたるごとし  大串 章

縄文住居と桜…大串貝塚ふれあい公園(水戸市)

2024年04月10日 | 水戸の観光

今年の桜は、やっと満開になったと思ったら数日雨模様になったり、天の悪戯が続いていました。

大串貝塚ふれあい公園は奈良時代初期の和銅6年(713)編纂の「常陸国風土記」に載っている巨人伝説「だいだらぼう」と縄文時代をテーマにした公園です。


公園入口には水戸市埋蔵文化財センターがあり、ギリシャ神殿のような柱が並んでいます。


縄文海進の時には、この台地の下まで海が押し寄せていましたので、常陸国風土記に載っている伝承が頷けます。
「昔々、大櫛(おおくし)の丘に大男がいた。男は丘にいながら海へ手を伸ばし、砂浜の貝をほじくり出して採っていた。食べた貝は朽ちて積もって丘となり、この丘の名は大朽が今は大櫛という。」


伝説の巨人「だいだらぼう」の像は15.25m、手のひらが展望台になっており米どころの田園地帯から太平洋方面が眺望できます。


縄文時代の複製住居が数棟立っています。




周りには銅で出来た縄文人たちが生き生きと活動していました。もちろん現代の子供たちも!!


埋蔵文化財センターでは、大串貝塚や市内で発掘された埋蔵文化財が展示されています。


ここはあまり広くはありませんが50本の桜があり、知る人ぞ知る花見の名所になっています。なお今週末まではライトアップも行われるそうです。

枝垂れ桜がより紅く…早朝の六地蔵寺(水戸市)

2024年04月04日 | 水戸の観光

水戸市の枝垂れ桜の名所、六地蔵寺は我が家から近い位置にあるので、満開だという情報を得た次の日4月2日、桜の撮影にいいという早朝7時半に行ってみました。


早速、薄紅色がより濃く感じられるような(いたって個人の感想です)早朝の瑞々しい花が迎えてくれました。


境内に入る両側には、右に樹齢1100年の大杉と左に800年の大銀杏の巨木がそびえています。


この時間には年配のカメラマンが数人いるだけですが、大型バスを含めて220台の駐車場が備わっています。最近では近くの施設入所の方が車椅子で来ている微笑ましい光景も見られます。


この六地蔵寺の山院号は倶胝山聖寶院、別名「水戸大師」ともよばれ、約1200年前の大同2年(802)の開山、真言宗の安祥寺流系六地蔵法流の本山で末寺25寺をもち、この地の歴代領主である大掾氏、佐竹氏、徳川氏から手厚い保護を受けてきました。


本堂には徳川家菩提寺、真言宗本山、水戸大師という大きな看板が掲げられていますが、今でも将軍家と水戸徳川家歴代の御位牌を護持しているそうです。


本堂の大棟には徳川家の葵紋が付いています。ここの枝垂れ桜はエドヒガン系のイトザクラで、他の桜より一足早く開く淡紅色の花とその優雅な樹姿は、水戸藩2代藩主徳川光圀公が本寺院に参詣された時、その美しさに深く感銘したと伝えられています。


現在の枝垂れ桜は、光圀公が花見を楽しんだ桜の「孫生え」ともいわれ、樹齢約200年の老木などおよそ50本が植えられています。


シダレサクラの下には実生から芽を出した小さな苗が何本か顔を出しています。住職の家族の方々があたたかく見守っているそうです。


光圀公最晩年の寄進と伝わる地蔵堂は、裳階(もこし)付きで二階建てに見えても屋根裏の高い平屋で、元禄時代の建築様式の特色を示しているそうです。堂内に本尊の六地蔵菩薩立像(木像6体)が安置されています。


真言宗の開祖である弘法大師(空海)も桜に囲まれてより柔和なお顔になっているようです。お寺に枝垂れ桜が多いのは、天井から吊るす仏具、天蓋に見立てたという説もあるのが頷けます。


六地蔵とは、死後に赴く地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六つの道から救済するために配され地蔵菩薩だそうです。


二本の本柱の前後に控え柱を立てた簡素な造りの四脚門は、室町時代末期の様式がよく表れているとされます。


旧法寳蔵は光圀公の命により建立された寺宝の収蔵庫で、明治42年、蔵の改修のための調査で、慶長小判30枚が見つかり調査の結果、公自身が将来の法寳蔵修繕費として置いたものであることが判明しました。


六地蔵寺の護持している平安から室町時代中心の学問的価値の高い資料や文化財は3000点以上におよび、すべて国及び茨城県の重要文化財に指定されており、関東地方では公的機関を除くと金沢文庫、足利学校に次ぐ規模になるそうです。旧法寳蔵に代わり向かい側に新法宝蔵が建立されています。


光圀公が手掛けた「大日本史」の編纂に重要な役割を果たした二人の先人の墓所が隣接地にあり、枝垂れ桜に覆われていました。

「大日本史」編纂の彰考館総裁として,藤田幽谷ら多くの門人を育成した立原翠軒(1744~1823)とその一族の墓所、「立原翠軒 居士之墓」と清冽な篆書体で書かれています。


栗田寛(1835~1899)と養子の勤は、明治維新後も大日本史の志、表の編著の継続と完成に尽力し、明治39年(1906)光圀公以来250年に及ぶ大日本史(本紀・列伝・志・表の397巻と目録5巻の計402巻)の大事業を完成させました。



枝垂れ桜の名所といわれるだけあって、お寺側でも信仰に関係なく訪れる花見客のために広い駐車場や設備を整えて水戸の観光に一役買っています。あるお寺で聞いた「人が集まってこそお寺には意味がある」という住職の話を思い出しながら、早朝の枝垂れ桜を堪能させていただきました。