顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

小石川後楽園

2017年05月30日 | 旅行

江戸時代初めの寛永6年(1629)に水戸徳川家の初代頼房が、江戸の中屋敷(後に上屋敷)の庭として造り、二代藩主の光圀の代に 完成した庭園です。光圀は作庭に際し、明の儒学者、朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から「後楽園」と名づけられました。

庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国の杭州にある西湖を模した「西湖の堤」は、その後に築造された各地の大名庭園にも大きな影響を与えました。

また、渡月橋は明の儒学者朱舜水が設計したといわれる石橋、水面に映る姿が満月のように見えるので、この名がつけられました。震災、戦災を免れた貴重な建造物の一つです。

園の中心にある蓬莱島と呼ばれる島を配した大泉水の大池は、琵琶湖を表現しており、その用水は、家康の命によって天正18年(1590)より整備された、神田上水の分流を引き入れていました。どこから写しても背景に高層ビルが写ってしまいます。

大名庭園に必須の陰陽石もありました。大名は嫡子が途絶えると御家断絶になるため、 江戸時代の大名庭園では子孫繁栄を願って陰陽石が大流行したそうです。

徳川家の家紋、三つ葉葵の原型、フタバアオイ(二葉葵)が入園口に植えてあります。京都の賀茂神社の御神紋、別名カモアオイ(賀茂葵)、毎年5月に行われる葵祭りのシンボルです。
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キンラン(金蘭) ギンラン(銀蘭)

2017年05月27日 | 季節の花

近くの公園で見つけたキンラン(金蘭)とギンラン(銀蘭)、以前はよく目にしましたが、最近ではめっきり個体数が減りました。今回も1本だけ、しかも金の方は、虫食いです。調べたら案の定絶滅危惧種に登録されている日本の野生ランの一つで、生育環境の悪化と乱獲が原因のようですが、この蘭は「菌根菌」 と呼ばれる菌類と共生する特殊な土壌にのみ生息し、採取しても育てる事は不可能なことが理解されていないようです。

それに引き換え、外来種は元気です。ブタナ(豚菜)が樹の下を覆う様は綺麗ですが、他の植物を押しのけてあっという間に一面に蔓延ってしまします。
ヨーロッパ原産で、昭和の始めころに渡来、今では本州、北海道に広く分布しています。名前は、仏名の「豚のサラダ(Salade de pore)」の直訳、原産地ではハーブとして食用にもされるそうです。

この小さく可憐なニワゼキショウ(庭石菖)も北米原産の帰化植物でした。
芝生や荒地に生育しますが、小さいためかそれほど目の敵にはされないようです。アヤメ科の多年草で白や紫の花が混じり、紫色の筋が小粒ながらキリッとした印象を与えます。
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徳川慶喜と上野寛永寺

2017年05月25日 | 旅行

東叡山寛永寺は、元和8年(1622)二代将軍徳川秀忠公と天海大僧正により将軍家の祈願所として建てられました。山号の東叡山は東の比叡山の意味で、寺号も延暦寺にならい開創時の年号を用いました。8代吉宗公の時には、境内地30万坪余、子院36坊の大寺院になり、増上寺と同数の六代の将軍の霊廟が置かれています。

この子院の大慈院にあった葵の間は、最後の将軍徳川慶喜公が慶応4年(明治元年1868)2月12日より謹慎した部屋として知られています。2か月後には水戸の弘道館に移り約3か月の謹慎後、新政府の命で駿府に移りました。
その後5月15日の彰義隊の上野戦争や東京空襲でほとんどの建物は被害を受け大慈院は焼失しましたが、葵の間は移築と修理保存が行われ、規模を小さくして現在にいたっていますが、天井や壁面に二葉葵が描かれた質素な部屋です。

根本中堂も彰義隊の戦争で焼失しましたので、川越喜多院の本地堂(寛永15年3代将軍家光建立)を明治12年に移築したものが現在の姿です。

燦然と輝く葵紋、根本中堂の祭壇には、重要文化財の薬師如来、日光、月光菩薩をはじめ四天王、十二神将などの像がずらりと並んでいます。
今回はボランティアの研修ということで特別の観覧が許され、この他にも綱吉公、吉宗公などの普段は立ち入れない霊廟もお参りすることができました。

さて、慶喜公は朝敵とされましたが、赦免の上公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言、寛永寺による歴代将軍の仏式ではなく葬儀は寺院の一画を借りて神式で挙行され、墓所も歴代の霊廟でなく隣地の寛永寺管理の谷中墓地に埋葬されました。

向かって左側が慶喜公の葺石円墳の墓で従位勲一等の石柱、隣に正妻美賀子、後ろに側室の中根幸、新村信や老女一色須賀が並びます。
最後の将軍、慶喜公については、卑怯者や臆病者などの声もありましたが、最近では日本を真っ二つにしての争いを避け、近代化への道筋をつけた大英断を評価する声が多くなったのは、嬉しい限りです。

この谷中墓地は有名人の墓が多いので知られています。真ん中の墓碑は日本資本主義の父とも言われた渋沢栄一のものです。慶喜公に仕えた最後の幕臣で、維新後もよき理解者として支えました。冥府でこの国の未来を語り合っているかもしれません。
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二人静と一人静

2017年05月22日 | 季節の花

貰ってきたフタリシズカ(二人静)が庭の木陰で咲いています。センリョウ科の多年草で、名前は謡曲「二人静」に由来し、2本の花穂を静御前とその亡霊の舞う姿になぞらえたものといわれます。粒状の白い花は、3本の幅広い雄蕊が内側に巻いて花のように見えるもので、花弁は付いていません。
花穂の数が多い、三人静や五人静も見られますが、五人になると、姦し(かしまし)とでも言うのでしょうか。

隣には、本家のヒトリシズカ(一人静)、同じセンリョウ科の多年草ですが、花期は1か月ほど早く、すでに実になっています。葉の形などはよく似ていますが、花は糸状の白い花がブラシのように咲き、見た目は全然違います。これも白い糸状の部分は雄蕊で花弁や萼はありません。
静御前が一人で舞っている姿を連想して付けられたと言われますが、名前負けしているような地味な花です。

二人静ひとり静よりさびし  角川照子
一人静こぞりて咲くもしずかなり  佐浦久江
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田中愿蔵刑場跡

2017年05月20日 | 旅行
福島県東白川郡塙町の「道の駅はなわ」敷地内には「田中愿蔵刑場跡」の碑があります。もとは、彼が斬首された久慈川河原にありましたが、度々の洪水に晒されたため、すぐ上の高台のこの場所に移転されたものです。

田中愿蔵(天保15年(1844) - 元治元年(1864))は、藩校「弘道館」、江戸の昌平黌に学びわずか18歳で水戸藩の郷校、時雍館(野口郷校)で館長を務めた秀才で、元治元年3月27日(1864)藤田小四郎が尊王攘夷を唱え筑波山で挙兵すると、時雍館の教え子らを率いてこれに加わり天狗党幹部となって一隊を指揮します。
しかし、愿蔵は途中から本隊から離れ、別働隊として独自の行動を取ります。栃木宿や真壁宿では軍資金を断ると家々に押し入って金品を強奪したうえ放火し、「愿蔵火事」と呼ばれて後世に悪名とともに語り継がれました。

那珂湊の戦いにも参加し、天狗党側が破れると北へ敗走、一時は助川海防城を占拠しましたが、幕府軍の攻撃を受けて9月26日に陥落、10月に八溝山に篭って再起を図りますが食料弾薬も尽き果てたため隊を解散し、三々五々山を下り、逃亡した隊士達もほとんど捕われて処刑されました。
愿蔵は真名畑村(現・塙町)まで逃れましたが、捕縛され塙代官所に送られ、10月16日に久慈川の河原(上記写真付近)で斬首されました。 享年21歳、わずか7ヶ月の凄まじい生き方で幕末を駆け抜けました。彼の足跡の毀誉褒貶は、ほとんど悪名だけですが、300人もの身分を問わないザンギリ頭の一隊を、きちんとした統制で率いた能力は、別な生き方で花開いたのではと思ってしまいます。合掌。
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