昨日の続きになります。
木曽川の源は長野県木曽郡木祖村の鉢盛山(標高2,446m)とのこと。
延長229kmの河川です。
天正18年(西暦1590年)には、豊臣秀吉が木曽川左岸(犬山から長島まで)の築堤をしました。
その後慶長12年(西暦1607年)、徳川義直(家康の第9子)が尾張藩主になると、翌年、さらに木曽川左岸の築堤を命じます。
この築堤は、犬山から伊勢湾まで50kmの工事をわずか2年で完成させ「お囲み堤」ともいわれます。
このとき、尾張藩では美濃側に対して、この堤防より3尺低くするよう圧力をかけたといわれていますが、おいらの調べたところでは、そんな記録は無いとのことです。
ただ、その後のかさ上げで、結果そうなったようです。
今はどうなんだろう?
この工事のとき、用水も作られているようです。
今の、般若用水、宮田用水の原型とのこと。←ごめんなさいローカルな話題で。
さて、またまた時間が来てしまいました。次は、木曽のヒノキの話題にしましょうか。
木曽川の源は長野県木曽郡木祖村の鉢盛山(標高2,446m)とのこと。
延長229kmの河川です。
天正18年(西暦1590年)には、豊臣秀吉が木曽川左岸(犬山から長島まで)の築堤をしました。
その後慶長12年(西暦1607年)、徳川義直(家康の第9子)が尾張藩主になると、翌年、さらに木曽川左岸の築堤を命じます。
この築堤は、犬山から伊勢湾まで50kmの工事をわずか2年で完成させ「お囲み堤」ともいわれます。
このとき、尾張藩では美濃側に対して、この堤防より3尺低くするよう圧力をかけたといわれていますが、おいらの調べたところでは、そんな記録は無いとのことです。
ただ、その後のかさ上げで、結果そうなったようです。
今はどうなんだろう?
この工事のとき、用水も作られているようです。
今の、般若用水、宮田用水の原型とのこと。←ごめんなさいローカルな話題で。
さて、またまた時間が来てしまいました。次は、木曽のヒノキの話題にしましょうか。