その日暮らし

田舎に暮らすこの虫は「カネ、カネ、カネ」と鳴くという。

雲と自由が棲むという里で百姓に成りきれるかな?

夢屋王国(国勢調査「あ」ver.5)

2011-09-20 04:33:27 | 夢屋王国

三連休も今日が最終日…楽しいことは、あっという間に過ぎてしまうものであります。我が家の長男『ポン太郎君』の夏休みも、もう直ぐ終わりであります。夏休み後半、オッカーザウルスとこっそり京都へ出掛けて来たようであるが、有り余る時間を有効に使えないのは、若者の常なのでしょうか?オヤジはと言えば、夏の日盛りに彼に時給700円で畑と庭の草むしりをお願いし、非常に助かったことは確かであります。自分の限界を知るのだ…などと言いくるめて『第2サティアン』のビアガーデンで記憶を失わせ、積み土のう工法を伝授し、トラクターにも乗せてやった。「何事も経験!!!」などと尻込みする彼をその気にさせるのは、結構大変なのであります^^;
彼は、まだオヤジが恐いらしい…いつの日か、彼に組み伏される事を心のどこかで待ち望んでいるのでありますが…。

そして久し振りの雨でありました。畑はカラカラで、秋野菜の水枯れが心配になり夕方帰宅しては、薄暗い中をジョウロで水を遣る。台風被害で心配されている方々には大変申し訳ないのでありますが、こちらでは恵みの雨なのであります。雨が小降りになった頃合を見計らっては、ガーデンパーティ用のテーブルの脚を詰めてみたり、『第2サティアン』に棚を作ったり…。発展途上国である『夢屋王国』は、雨の日もやらなければならないことが次から次へと発生するのであります。そんな毎日なので、建屋の前にあるスモモの樹に2回目の発生を確認していたアメリカシロヒトリのコロニーから、幼虫たちが一気に分散し、ペロリとスモモの葉を食い尽くしてしまいました^^;
有機農業実践者ではありませんが、余程の高木でも無い限り、アメリカシロヒトリはコロニー(ネット)を形成している幼齢の内に枝ごと除去するのが一番確実な防除方法なのであります。第1世代は、確実に除去いたしました。少々、スケベ心を持って飼育できないかと思ったのが運の尽きであります。第2世代の発生を承知しながら、もう少し大きくなるまでと放置した結果、葉がありません。食べるものが無くなってしまうと彼らは木から降りて(落ちて)、地面を這い、食える植物を探し移動するようです。数メートル離れたところにある大豆の葉に着いていたのには、さすがに驚きました。人間もこれ位、貪欲に生への執着を持たないと、この世の中では取り残されてしまうのだよ『ポン太郎君』…^^;

No.064 アメリカシロヒトリ Hyphantria cunea 昆虫綱 鱗翅目(チョウ目)ヒトリガ科
「火取蛾」と書いてヒトリガと読みます。戦後、アメリカ軍の物資に紛れ込んで侵入したと言われており、1945年に東京都内で発見されたらしい。蛾の性行動…性フェロモンと視覚の関係について、日高敏男氏が研究成果を発表されておりますが、詳細は忘れてしまいました。幼齢時代のネット(コロニー)が特徴的で、発生を知ることは容易なのでありますが、親の顔が一般的に知られていない。そう言えば、夏の盛りにスモモの主幹に白い蛾が止まっていたような…^^;

「降れば、ドシャ降り」…英語のことわざを思い出させるような、まとまった雨になりそうです。そうそう世の中、上手く事が運ばないのであります。




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夢屋王国(どんが祭り)

2011-09-19 09:48:04 | 夢屋王国

連休2日めは、朝から薪作り。冬越し用に建設廃材を30cm程度の長さに切って行くのでありますが、ひと冬どの程度使うのか想像もつきません。『第2サティアン』はコンパクト設計なので、少量でも直ぐに温まります。軽トラ1台分もあれば、持つのではないだろうか…などと、のんびり鋸引きをしておりますが、薄っすら汗ばむのでありました。
長男『ポン太郎君』が起きるのを待って、今日はオッカーザウルスの実家、河北町谷地のどんが祭りに行く約束をしております。バカ婿は、ビールを冷やしておくよう前夜に電話を掛けておいたのであります。もう25年の付き合いであり、私の実家同然、何の遠慮も必要ないのであります。久し振りに林家舞楽をじっくりと見てみたい…が『夢屋国王』は、冷蔵庫のビールを総て空けることを命じられ、さらに、お袋に留守番を命じられたのでありました^^;

 

『寒河江女に谷地男』…男っぷりを競うかのように、地元若衆が神輿渡御・神輿還御の露払い役を務めるのであります。(私は留守番…画像は『ポン太郎君』撮影)

 

谷地八幡宮の石鳥居を、奴中央の『大鳥毛』が通過すれば、神輿還御は終了となる仕来りらしいのだが、昔は、その男っぷりを誇示するため、かなりの重量の『大鳥毛』を押し合いへし合いしながら、潜らせない、または潜らなかったとのことでありますが、最近の若いもんは…とジィさんの口説きが入るのであります。とはいえ、来年は18年に一度の大当番が巡ってくる。年老いた谷地男のジィさんは、張り切っているのであります^^;

私が見たかった『林家舞楽』は、神職家による一子相伝の舞楽であり、1,100余年の歴史を持つものであります。大体、この頃は5本目のビールに手が伸びていたころでありますねぇ。
まぁ、来年も祭りはやって来るのであります…ビールは今しか飲めないのだから、まぁいいか^^;

山形B級グルメの「どんど焼き」であります。溶いた小麦粉を鉄板で焼き、中身はソーセージと青のりに海苔といったシンプルな食べ物でありますが、大して美味しいものでもありません。勢いで『ポン太郎君』に買わせました^^;
通常は、一晩お泊りするところでありますが、オッカーザウルスは実家より『夢屋家』の方が良いらしい…酔っ払いオヤジを車の後部座席に押し込んで、夕刻帰ったのでありましたとさ。

No.063 チョウゲンボウ Falco tinnunculus 鳥綱 タカ目 ハヤブサ科
我が本田に棲み付く猛禽類は、朝日の逆光で、そのシルエットでしか見ることが出来なかったのでありますが、昨日、ようやく私の立ち位置から撮影できる場所に止まってくれました。『貧乏父さん(H.N.)』には、以前「ノスリ」ではないかと説明していたのですが、羽根の色からしてチョウゲンボウのようであります。

追記)友人Tの指示で『夢屋農園』のニンニク作付け場所をトラクターで耕運しておきました。農家のお店「トマト」で、ホワイト6片の種球が1kg2,600円であります。『貧乏父さん』用の作付け地も確保してあります^^;
『夢屋農園』では、ニンニクのオーナー制度を始めたのであります。あなたも一口乗ってみませんか…(営業中^^;)


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夢屋王国(土木工事編)

2011-09-18 06:17:25 | 夢屋王国

6枚で約20aほどの『夢屋農園』の田んぼは未整理地であります。昨年の春先から気になってはいたのですが、田んぼの真ん中を流れる水路に架けられた石橋が落ちてしまい、水は石橋の上を流れる有様でした。水を掛けるには何の不便も無いのですが、今年の春先苗箱を運ぶ時、遂に一輪車で川を渡ることが出来なくなってしまいました。さらには、水の流れで川岸も侵食を受け始めている…『夢屋土木』に架橋工事発注することにしたのであります。

工事前の石橋の状況…水も流れていないので、何の画像か判然としませんが、『夢屋土木』の社長は、積み土のう工法による護岸と架橋工事を選択したのであります。

従業員は、社長の長男『ポン太郎君』ひとりであります。オヤジから見れば、ぎこちないノコギリの使い方でありますが「やって見せ、言って聞かせてさせてみて、褒めてやらねば人は育たじ」という『山本五十六』の格言を守り、じっと我慢して見ております^^;
時給700円の臨時従業員は、オヤジの言い付けを無難にこなすのでありますが、如何せん非力であります。ゆとり教育が生んだ弊害をモロに受けてしまいました。

何とか親子で河床に沈んだ石を引き上げて、災害復旧工事は完成したのであります。私が子どもの頃から見慣れた橋でありますが、こんなに大きなコンクリート片が入っているとは気付きませんでした。石橋の下からは、栗の角材や朽ちた杭が出てくる出てくる…。昔は、秋の水枯れとともに、この橋の下に小さな一年物の鮒が集まってきて、バケツ一杯泥ごとすくったものであります。それを煮て食べたりもしました。動物性タンパク質を補給するために、田舎ではそんな生活をしていたのだよ…などと講釈を垂れても、『ポン太郎君』には想像も出来ない世界であります。

社長の竣工検査を経て、作業終了であります。この後、竣工祝賀会を『第2サティアン』で行ったことは言うまでもありません。お隣の田んぼは、稲刈りが済んでいることにお気づきでしょうか?
我が家の田んぼも来週末は、稲刈りであります。ただし、従業員『ポン太郎君』の夏休みは終わってしまうんだよなぁ…^^;

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夢屋王国(免許皆伝)

2011-09-17 22:54:46 | 夢屋王国

古老の三回忌を迎え、気持ちの整理をつけている内に何か湿っぽい気持ちになってしまいました。『夢屋王国』周囲の田んぼは一段と色付き始め、今週末から稲刈りが始まることでしょう…が、天気予報は雨…降ったり止んだりのマークが一週間程続きそうです。秋野菜の水の心配からは解放されますが、一方では稲刈りが出来ない…上手く行かないときはこんなもんです^^;
歯車が噛み合わない時は、無理に前に進もうとしない。これもまた重要な処世訓だと最近思うようになりました。少しは、大人になったかな…。

黄色い花の連なりが「金水引」ならば、赤い実の連なる植物は「ミズヒキ」か?ん~正解^^;こうしてみると、命名者の発想は意外と単純なのかも知れません。最近の子どもたちの名前を見ていると、読めない漢字の羅列であり、それはそれで親の思い入れもあるのだろうけれども、さすがに、これは如何なものかと思う名前があることも事実であります。
人生50年などと言っていた世の中も、今では男子でさえ平均79年間、その名前とお付き合いしなければならないのですから^^;
かく言う私も、長男『ポン太郎君』に『成樹』などと言う名前を付けてしまいました。我が家の苗字と組み合わせ、「小さな野にあって、人に安らぎを与える木陰を作るような樹に成って欲しい。」などと、語呂合わせと親の願望を込めたのですけれどもね…。
そんな『ポン太郎君』と力を合わせ、本日、我が家の田んぼの石橋を修理いたしました。恐らく、私が子どもの頃からそこにあった橋でありますから、少なくとも50年間は、誰も手を掛けなかった橋であろうと思います。非力な親父と息子が力を合わせ、悪戦苦闘した土木工事の模様は、明日のブログにUpすることにして、我が家の古老が為し得なかったことに挑戦している『夢屋』は、きっと我が親父に「免許皆伝」を授かったのだなどと、自分勝手にその死を受け入れられるようになったのであります^^;


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夢屋王国(古老の思い出5)

2011-09-16 04:25:29 | 夢屋王国

昼休みの散歩コースである「大沢山」の山道にイタドリの花が咲いていました。花というよりは「萼(がく)」だろうと思うのですが、それならイタドリにも実が着くのでしょうか?
27歳の時、私の祖母は亡くなりました。親父の涙は、一度しか見たことが無いと言いましたが、実は、祖母が無くなって親父が仏壇に向かっているとき、微かに肩が震えていたこと、そして、棺桶が火葬場の炉に入れられるとき、親父が後ろを向いていたこと…人には涙を見せたことはありませんでしたが、涙を流していたようです。
姉夫婦と私たち夫婦にそれぞれ子ども(二姫)が授かり、親父がポツリと漏らした言葉「俺は、一生男の孫を抱けないようだ…。」男とは不思議なもので、会話などしないくせに、男子の誕生を待っている。跡継ぎなどという言葉は、今時流行らないのだけれども、どこかで『位牌持ち』の誕生を待っているのであります。
3年後、長男『ポン太郎君』が生まれた時の喜びようは尋常ではありませんでした。それまで、食べた食器すら片付けたことの無い親父が、オシメの交換をし、オンブして寝かしつける。長女・二女には一切手を掛けたことが無かったのに、そんな姿は子煩悩なオジイちゃんという評価を得るようになったのであります^^;

その長男『ポン太郎君』の大学進学が決まり、神奈川県に引っ越してから、急激に親父の体調が崩れていくのであります。リュウマチ性肺炎…主治医から忠告は受けておりましたが、間質性肺炎が一気に進行するとは私も想定外のことでありました。一旦退院は出来たものの、82歳の年齢には堪えたようであり、さらに、ボケが進行しはじめました。
痴呆症というよりは、簡単な物忘れなのでありますが、漢字が思い出せない、人の名前が出て来ないなどと悩むようになりました。しかし、彼にしてみれば、痴呆症の進行する妻がいて、自分自身も痴呆症が進行すれば、私たち夫婦に多大な心労を与える…そのことだけを心配していたようであります。お盆を自宅で過ごしたものの、再入院。

その時の親父の肺は、真っ白に変化しておりました。「俺が死んだら、妻の年金は下がるのか?」「綾子(従妹)が最後のお別れに来たようだ。」「俺の貯金は、ここに仕舞ってあるから、こういうふうに使ってくれ…。」
体調は快方に向かっているはずなのに、亡くなる1週間ほど前から不吉なことばかり口走るようになりました。
「明日から、大部屋に移れるそうだ。」
「それは、体調が良くなった証拠だよ。」
そんな会話をした帰り際の背中越しに、彼が「お前だけは、無理すんなよ。」と掛けてくれた言葉が、私が聞いた最後の親父の言葉になってしまいました。実は、帰り際、ナースステーションに寄って、親父が個室から大部屋に移る予定があるかどうかを確認したのでありますが、そんな予定はないと強く否定されたのであります。ボケ症状を心配する親父にこのことを伝えるべきか、このまま帰るか、散々悩んだ挙句、私は伝えないことを選んでしまいました。
翌日、硬直した親父を自分自身が発見することになるだろうとは思いもせずに…。
男の親子は会話が無い…しかし、古老が亡くなる半年間は、今までの不足を補うように会話をしたような気がします。腕相撲の勝利で親父を乗り越えたと思ってから37年目、親父は水田反収14俵という、新たな課題を息子に残して、余りにも潔く、この世を去ってしまったのであります。
(終わり)

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夢屋王国(古老の思い出4)

2011-09-15 09:15:36 | 夢屋王国

昨日の夜中に山形組の『さくら子ちゃん(H.N.)』からの情報で、『第2サティアン』から十六夜の月を眺めておりました^^;
我が家の古老は、笑わない、そして泣いた事がない。野球やプロレスが大嫌いで骨董好き、時代劇が好きで、子ども番組と重なっても決して譲ることはありませんでした。親父の前では、大人しくしていないと怒鳴られる…したがって、良い子でいなければいけないのであります。いつの間にか、人間嫌いになって、無口になって大学進学のためだけの勉強をしていた。そんな自分が変われたのも大学4年間の影響であると思っております。何しろ、泥棒と人殺し以外は、何でも覚えて来いと母親に言われたのですから…^^;
そんな大学2年生の冬、急に家に帰るように葉書が舞い込んだのであります。その当時の家の中は、母親は更年期障害、親父は五十肩を患い、余り良いことが無かったようで、さらには、長年勤めた親族の会社を親父は辞めることを決心したのでありました。帰郷した私を茶の間に座らせると、親父はボロボロと泣き始めたのであります。これが、最初で最後の親父の涙でありました。

幼い兄弟を育て上げたものの、35歳(当時は遅く儲けた子どもでした。)で儲けた長男に仕送りが出来なくなる…そんな自分の不甲斐なさに涙したものと思われます。ハンカチなど持ったためしもなく、茶の間の台拭きで何の臆面も無く涙を流す親父に、ただ驚き、大丈夫だよと言っている自分が不思議でありました。
正直なところ、育英会の奨学金が月23,000円、仕送りが40,000円。寮生活で朝夜飯を食べても23,000円あれば「食う」ことだけは確保できたので、あとは、当座の昼飯代と小遣い銭をアルバイトで稼ぎ出せば良いだけ…と高をくくってしまえばそれだけのことだったのであります。半期10万円程の授業料は…国立大学はありがたいものであります。我が家のように貧乏だと「授業料免除制度」を受けられたのでありますから…事実、入学金と最初の授業料はお支払いしましたが、後の3年半は、授業料免除で乗り切りました^^;
貧乏な寮生が大多数で、同郷の『斎藤くん』なんかは、弟のためにアルバイトをして逆に家に仕送りをしていたくらいですから、私なんざぁ、恵まれた方であります。

「俺は家が貧乏で、勉強したくても勉強出来なかったから…お前が勉強したいなら金だけは続ける。」これが口癖だった親父は、心底、自分が情けなくなったのかも知れません。再上京して、『斎藤くん』が勤める進学予備校を紹介してもらい、生活の道を確保した『夢屋』の銀行口座に、それでも親父は最後まで仕送りを続けてくれたのでありました。
目出度く(最後は綱渡りでしたが^^;)大学を卒業した『夢屋』は帰郷して就職、結婚と孫の誕生、祖母の死…古老は次第に老い、変化していくのでありました。(続く)

夜中の中途半端な時間に目が覚めてしまい、今朝も月を眺めながら朝を待ちました。『夢屋農園』のデラウエア(ぶどう)は、完全無農薬、晩腐病付きぶどうでありますが、酸っぱくて鳥も食べないようであります^^;

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夢屋王国(古老の思い出3)

2011-09-14 10:53:28 | 夢屋王国

齢47歳にして、我が家の古老は「2級管工事施工管理技士」の資格試験に挑んだ。尋常小学校しか出ていない古老が、47歳の硬くなった頭で教科書を独学で勉強したのであります。当時、彼が勉強した教科書3冊は、我が家の家宝として大切に私が保管しておりますが、「ベルヌーイの定理」など、高校時代に物理を選択しなかった私には、その公式さえ理解できないのであります。今思うに、当時の彼は、理論や原理を理解するのではなく、長い間仕事で培った経験に理論を当てはめて理解していったのではないかと思うのであります。井戸掘り職人に流体力学が必要あるのだろうか?時代は、家庭井が飲料水から消雪用水に変わっていく時代であり、施工管理技士有資格者が現場常駐管理しなければ、一定契約金額以上の給排水配管工事が出来ない制度に変わって行くのでありますから、何としても取得しなければならなかったのであります。
山形県内でも第1期の資格取得者であり、取得後、町水道課に誘われたこともあったようでありますが、当時の役場の給料は安く、子育てが出来ないという理由で誘いを断ったようであります。
幼い兄弟を育て、子どもを育てるという理由から、結局、貧乏生活を余儀なくされることになるのであります^^;

中学1年になった私に、腕相撲をしようと言って来たのはこの頃であります。男5人兄弟の長男でありますから、腕力だけには自信があったようでありますが、子どもの頃から百姓仕事や剣道をして来た私も、右腕だけは自信があって、親父に腕相撲で勝ってしまいました。息子に負けたことが、どれだけ悔しかったのか「俺は、左腕が本当の利き腕なんだ。」という理由で、左腕で腕相撲を一番…これは、さすがに一瞬で負けてしまいました。(内心、かなり喜んでいたに違いない^^;)
この経験は、親離れをする原因ともなりました。今まで、恐いイメージしかなかった親父から腕相撲で勝てた…実に単純な理由ではあるのだけれども、この一件で自信をつけた私は、親父を乗り越えたような気分になったのであります。中学・高校・大学と一度も学校に来たことは無かったし、進路について話し合うこともありませんでした。「俺は、勉強したくても出来なかった。勉強したいと思うのならば金は続ける…。」これが、親父の口癖でありました。
子どもの頃から泣き虫だった私に「男は親父が死んだ時意外は涙を見せるものではない。」などと、祖母は幼児教育をしましたし、私も親父の涙を見たことなど一度もありませんでしたが、私が20歳を迎えたある日、家に帰るよう呼び出しを受けて、私は生まれて初めて、親父の涙を見ることになるのであります。(続く)

十六夜の月に誘われて『第2サティアン』でお月見…起きたら5時半でした^^;

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夢屋王国(古老の思い出2)

2011-09-13 02:40:05 | 夢屋王国

昭和35年に私が生まれ、その頃の子どもたちの多くがそうであったと思うのでありますが、父親に遊んでもらったなどという記憶がありません。無骨一辺倒で、家の中で騒ごうものなら、怒鳴り声が響く。子どもに対する愛情表現が下手であり、高度経済成長期の田舎町では、食うことが精一杯だったのかもしれません。当然、おもちゃを買ってもらうなどと言うことは一切無く、盆や正月に帰省する叔父たちが、花の都東京から買ってきてくれる最新式のおもちゃが唯一の楽しみでありました。一番下の叔父と兄弟のように育ったものですから、遊びと言えば近くの用水路での鮒釣り。当時は、未整備の水路であったことから、それぞれに秘密の釣り場を持っておりました。当時は、竹の延べ竿50円、釣り針10円…ミミズの餌で鮒を釣る訳でありますが、たまたま私が30cm程度の鯉を引っ掛け自宅に持ち帰った翌日、突然、親父は継ぎ竿150円を買って来てくれたのであります。小学2年生の時、お年玉を貯めたお金でグローブを買いたいと言う私を米沢に連れて行き、突然バットを一本買ってくれた…親父に何か遊び道具と言えるものを買ってもらった記憶は、この2回しかないのであります。

5歳離れた姉に言わせれば、お前だけが可愛がられたとのことなのですが、特段、可愛がられたとは思わない。むしろ、近所に住む母方の伯父に可愛がられたと思うのであります。実は、これには理由があって、姉と私の間には、もう一人、死産の子どもがいたらしい。今で言うと妊娠中毒になる母親の体を気遣って、私を身籠った時、母親に堕胎せよと言ったらしいのであります。それを、今度は跡取りだから産めと諭したのが伯父であり、俺がお前の命の恩人だという伯父が、この話をする度に親父はさらに不機嫌になるのでありました^^;
今では考えられない光景でありますが、私が子どもの頃住んでいた家は、冬の吹雪の日には、部屋の中に雪が舞い落ちるような家であり、暖は茶の間のこたつ位しか無かったのであります。一番下の叔父と姉は、ばあちゃんと寝るのが常であり、賑やかな声が聞こえてくると私も一緒に寝たくて、ばあちゃんの布団で寝ることが常でありました。一度だけ、正月に父親と寝た記憶があるのですが、朝、布団から起き出そうとする私を抱き寄せた親父…父親に抱っこされた記憶は、この一度だけであります。

小学6年生の時、アルバイトと称して親父の仕事の手伝いに出かけました。当時、親父は井戸掘りの仕事をしておりまして、3m程の足場に登らせ、パーカッションの削井管を足場からずれないように抑えていろと命じる。前日、相方のオヤジが、指を挟んで潰したから気をつけろなどと言うものだから、私は高さと重さと恐怖でビビリ上がるのでありますが、許してもらえませんでした。
これは、立派な労働基準法違反であります^^;
この頃、親父は私に英語の読みを盛んに聞くようになる。夕方、定番のヤン坊マー坊の天気予報を見ながら、「YAMMAR(現:YANMAR)」の表記を見ては、何故、ヤムマーと読まないのかと聞いてくる。尋常小学校でローマ字表記しか知らない親父は、納得いかなかったようであり、英語読みだろうと答えると不思議がっておりました。この時、親父は齢47歳にして、二級管工事士の資格試験に挑戦しようとしていたのであります。(続く)

 

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夢屋王国(古老の思い出)

2011-09-12 05:39:14 | 夢屋王国

『久岳法徳清居士』の経ち日は、9月29日であります。このブログの中でもお話しましたが、古老が亡くなる前日、母の介護用に調達した愛車『ボロクソワーゲン(←さくら子ちゃん命名)』が病院駐車場でオーバーヒートし、オッカーザウルスに迎えに来てもらう40分間、もう一度、古老の病室を覗こうか、いやいや、顔を出せばまた、古老は心配するだろう・・・などと逡巡し、結局、病室から出る時に背中越しに掛けられた言葉が、古老の遺言となってしまいました。49年間、彼の声に怯え、反発し、彼を乗り越えられたと確信し、今、彼の足元にも及ばないと再認識する私…。

大正15年12月1日寅年生まれ、彼は「父:久一、母:ヨシ江」の長男として、この世に生を受けたのでありますが、12月25日からの7日間が昭和元年であり、翌年の昭和2年4月1日生まれの方々とも同級生なものですから、人には昭和元年生まれであると自己紹介するオヤジでした^^;
昭和15年3月、彼は旧糠野目村尋常小学校を優秀な成績で卒業するものの、元来『夢屋家』は貧乏であり、高等科に進むことが出来ず、家計を支えるために仕事をすることになる。自分よりも成績の悪かった同級生が、学校の先生になり後々高給取りになったことを羨む古老に私は反発し、人生を悔いて生きるよりも、その時々に精一杯生きてやるなどと考えるマセガキに育っていくことになるのであります。

昭和20年3月戦争に召集されるものの、あと1週間もすれば戦地に送られるという矢先、日本は8月に終戦を迎えたのであります。兵学校でも物覚えは、大卒者よりも良かったということが自慢でありました…便所の中でも教本を暗唱していたようであります。
昭和21年、数え年22歳で彼の父:久一は他界する。この時、彼は途方に暮れたらしい。なぜなら、彼の一番上の弟が12歳、一番下が1歳の4人の弟たちを育てなければならなくなったのでありますから…。
戦後混乱期に幼い弟たちを抱え、父親代わりとなって働き続けた人であります。この頃の人々は苦労したことでありましょうが、人の苦労話は詰まらないので止めておきましょう^^;

昭和29年に結婚。翌年長女を儲け、昭和35年に私が生まれる。ここから、古老の思い出話になるのでありますが、お酒も十二分に回りましたので、今宵はここまでにいたしましょう^^;

 


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夢屋王国(三回忌法要)

2011-09-11 08:54:45 | 夢屋王国

本日は、夢屋第三代「久岳法徳清居士」の三回忌法要であります
私『夢屋』は、神妙な面持ちで法要に臨み、滞りなく式を執り行うのでありました。←まだ、終わっておりません
それでは、みなさんさようなら

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