その日暮らし

田舎に暮らすこの虫は「カネ、カネ、カネ」と鳴くという。

雲と自由が棲むという里で百姓に成りきれるかな?

この道の先に…

2024-02-29 08:40:50 | 転職

この坂は仏に通じる道…?

その先に『何か』がないと歩みを止めてしまうのか、『何か』があると信じて歩み続けるか…車の轍(先行者)がいるのだから通れるに違いない。しかし、雪道で不慣れな場所であるから、どこに通じているのかも分からない。引き返した跡がないのだから、大方、最終目的地である「パレス松風(温泉)」に繋がる林道に違いないと予想は出来るのだけれど、失敗すると引き返すのに難儀するから『おやじぃ』は車を止めて、徒歩を選択しましたが…。「旅行ガイド」に紹介されている『名所(目的)』に向かっている訳でもないから、『小さな旅』は、得てして、こういう場面に遭遇する。「イノシシのワナ仕掛けてあります。」などと注意書きもあり、雪道には大型犬(猟犬か?)の足跡あり。途中、イノシシ、カモシカの類に遭遇したらどうしようなどと不安を感じながら歩いていたら、ゲ!やっぱりあった「イノシシの足跡」…これを『儲け(何か)』と感じるかどうかは貴方(貴女)次第でありますけれどね^^;
大げさに言えば『人生』もこんなもの…『何か(目的)』を求めて歩みを続けている訳でもありますまい。地位や名声、家族の幸せetc.確かに、それらを目的として生きている方もいらっしゃるでしょうが、『脇道』にも必ずや『何か(未経験)』があると信じて疑わない『おやじぃ』でありますよ。探しているのは観音堂…カーナビは「目的地に到着しました。」と音声ガイドを終了しているのだけれど、目的の観音堂が見当たらない…人生にカーナビなどあるはずもなく、歩いて探すことにしただけでありますけれどね…かなり大げさな文章ではある(笑)


杉木立の中に観音堂発見!

さて、800mほど歩いたところで小さな観音堂が見えて来た。どうやら本来の参道入口を見逃してしまったようでありますよ。(これまた、人生アルアルのような気もするが^^;)こちら置賜三十三観音 第20番霊場「仏坂観音」…直ぐ下を走る県道17号が『仏坂?』と推理したのだけれど、元の峠道は「狐坂街道」と呼ばれていたらしく、お堂の傍らには童子の墓石も何基かあったことから、それが「仏坂観音」の名の由来かしらなどと新たな推理をしているところです。(北海道室蘭市に開削した際の犠牲者を追悼する坂も存在する。また、全国にも仏坂という名の峠道があるようです。)
はてさて、こちらのお堂は平成19年の落慶とある。享和元年(1801年)に『最上騒動』で焼失という縁起もあるのだけれど、「最上騒動」は江戸時代前期から元和8年(1622年)の最上氏改易までのお家騒動だから年号が一致しないのでありまして、享和元年には最上地域で、打ち壊しや一揆が多発したとの記録もあるようだから、それを指しているのかも知れないなぁ。米沢藩と山形藩の確執は今も続いているような気もするから、恐るべし歴史の記憶…得てして、領民は藩主を称え、侵略や略奪を受けた領民は『恨み節』を語るものである^^; 遂に出ました「オレが出る。」と岸田総理…アンダが出て来て『何か』真相が明らかになるのかい?支持率Upのためのパフォーマンスも大概にして欲しい。今日のお題「この道の先に…」は『この国の先は…』と書き替えることにいたしますか。『何か』はあるはず…いつの世も『恨み節』を唸るのは収奪される側であることに違いはないようである(笑) 

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重荷とひがみ

2024-02-28 06:39:36 | 転職

担う『モノ』が重すぎる^^;

観音さまを追っかけてばかりいると、こちらのお口が干上がってしまうので、久しぶりに、そして真面目にお仕事をすることにいたしましょう…1年後には新規の事業計画を策定しなければいけないので、未着手の工事要望箇所を見て回り頭に叩き込んでおく。手持ち予算で事業を進めていたら、あと20年間は掛かる勘定となる。(当然、『おやじぃ』は息をしていないだろうし、それを管理する農家戸数も減少し、村社会も大きく変質しているに違いないと思いながら…。)
集落を巡る水利は、田んぼ(農家)のためだけではなく、田んぼには想像以上の湛水能力(調整池としての役割)があり、雨水下水道や河川改修が進んでいない田舎では、ある意味、防災施設でもある訳なのだけれど、一旦、洪水が起これば行政の不作為を責め立てることはあっても、農家の日々の管理に思いを馳せる方はほとんどいないに違いない。『補助金漬け』の農政を甘いと批判し、非効率な農家は市場経済の場から撤退せよと、『効率至上主義』のオピニョンリーダーが声高に訴えたければどうぞ、どうぞ…洪水、環境荒廃が進んだとしても、『おやじぃ』にはもう関係ない。災害が起これば、むしろ『効率的』な復旧工事で潤えばよい。『儲け話』は、そこいらに転がっているのに、真面目に取り組む者ほど『儲からない』という何故?「農業基本法」の改正が約20年ぶりに改正されようとしているとのことですが、「スマート農業」なんですと…そうそう、これからは農業もスマート(賢く)にならなければ…いや、『儲かる』ヤツの多くは「クレバー(ずる賢い)」なヤツに違いない。スマートに振舞ったところで、何故か『重荷』を背負わされている彫刻のような表情は続くに違いないのでありますよ(笑)


こちら入浴料150円ですが…

さて、天に唾したところで降りかかるのは我が身であるから止めておこう。仕事の終着点は「上山温泉」の共同浴場にしようと決めていた。観音さまから今日は離れようと思っていたのに、共同浴場のお隣は「最上三十三観音 第10番霊場 上山観音」でありましたよ。(全くの偶然です。)『モテる男』というものは、概してこういうものであり、一度捨てても観音さまの方から寄ってくる。(何と不遜な態度であることか^^;)コチラの観音さまの縁起もまた数奇な運命を経ているようであります…お殿様の庇護があったらしく、本堂の立派なこと…。
はてさて、お風呂に入ると地元の業界の方が、背中に「大日如来」を背負って入浴されていた…公衆浴場では珍しい光景ではあるけれど、見ないみない^^; 人は、意識するしないに関わらず、何かを背負っているのかも知れない。(背中に彫りたくはないけれど…)徳川家康が残した「人の一生は重荷を負うて…」という有名な遺訓がありますが、それは成功した方のセリフであって、凡人の場合は軽いに越したことはない。しかしなぁ~最近は「説明責任」という言葉が軽いなぁ。「♯確定申告ボイコット」もトレンド入りとか…「奴らが無申告だから、我々も確定申告をボイコットする。」気持ちも分からなくはないけれど、『〇×ちゃんがやってるから私も』的な幼い発想にも思えてくる。野党の皆さんにも問いたい…『奴らを追い詰めるだけの証拠を握っているのかね?』倫理審査会を公開しても、のらりくらりと逃げられては、不信感は双方に降りかかるようにも思えるが…パフォーマンス合戦に庶民は飽きあきしているんじゃないのかなぁ…重い屋根を背負う覚悟も必要ではと思いますけれど。国民はすでに『ヤラセ』と気付いているかも知れないけれどね(笑)

 

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節介とちょっかい

2024-02-27 08:12:50 | 巡礼

山懐にあるお寺の雰囲気…

明日は荒れ模様のお天気のようである…しからば、今日の内に『数』を稼いでおきますか^^;
隣町の米沢市や南陽市ならば、片道30分程度の時間で済みますが、近場の観音さまは大方回ってしまい、残るは西置賜郡の各市町…北端の白鷹町までは1時間ほど掛かってしまう。腰の温泉治療も兼ねているから、本日は「第29番 松岡観音」「第13番 関寺観音」「第20番 仏坂観音」の順に巡ることにしよう…ようやく「効率」というものを考え始めるように成りました。(と言うか、終着は「パレス松風」と決めているから誰が考えてもこの順番になる^^;)直江兼続の妻『お船ちゃん』が選定したと伝えられる「置賜三十三観音」ではありますが、「補陀山 岡応寺」も小さなお寺(無人?)である。(寺の大小で、仏さまを『格付け』するのも失礼な話ではあるけれど…)縁起によると、どうやらこちらの観音さまは、南陽市「熊野大社」に合祀されていたものを、神仏分離令によって、霊場番号共々この地に移管されたらしい。(なるほど納得…やっぱり、由緒、寺の大小で『格付け』してしまう悪いクセである^^;)
観音堂から山の中腹の広場まで、三十三観音が祀られているということなので、登ってみると『おやじぃ』より前に歩いた方の足跡が残っているのだけれど、下った足跡がない…こういう情景というのは、良からぬことを考えてしまう。第一番、第二番と薄れた文字を確認しながら登ったのだけれど、第29番が欠番…ここは「29番札所だから欠番かね?」違うんだなぁ~雪で観音さまが前のめりに倒れていたという次第…こうした場合、『おやじぃ』の不浄な手を掛けてよろしいものやら、よりにもよって第29番かね?


お礼に「御朱印」というものを…撮影だけ^^;

さて、手を清める水もないから、雪で清め、拝んで、とりあえず起こしましたけれど、これって『余計な節介』というヤツかねぇなんて考えた。関わらなければ済むものを、余計なことに口を出し、手を出した結果、厄介なことに巻き込まれる。(今まで、何度経験したことか^^;)ホレホレ、登りの時は気付かなかった「第8番石仏」も倒れているじゃないですか…第29番を救っておいて、第8番を救わないのは『逆恨み』の原因になる。(仏さまは、そんなに心が狭いとは思わないけれど^^;)結局、もう一体、手を掛けることになるのだから…。
はてさて、「節介」とは、元来、節操を堅く守り、世俗に流されないことを言うらしく、何故か「お」がついて「お節介」となると、いらぬ世話をやくこととなるらしい。また、似た言葉の「ちょっかい」は、猫が片手でかき寄せるようなしぐさから、横から余計な手出しをすることを言うらしい。『おやじぃ』の本日の行いは、「節介」か「ちょっかい」か?これは、下心アリアリの「功徳」というものでございます…何せアナタ、約30kgの石仏を抱えて台座に戻して差し上げて、ホーレ、腰がピクリともしませんから。これぞ、「福徳観世音菩薩」の御利益、ごりやく。所願成就に『腰痛治癒』を油性ペンで書き加えておきましょう。(これが「お節介」だわなぁ^^;)ちなみに、『おやじぃ』の前に参詣した人の足跡は、山の方まで延々と続いているようにも見えましたが、どうやらお寺に下る「裏道」もあるらしい…こちらは「厄介」なことにならなくて良かったよかった(笑)

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こだわりやしがらみ…

2024-02-26 10:42:01 | 巡礼

「トラノオモミ」か?「ハリモミ」か?

昨日は勤め人時代の元上司の一般焼香に参列し、久し振りに元同僚たちと顔を合わせました。「こういう場所でしか顔を合わせなくなってしまったねぇ…。」繰り返される同じフレーズに、高々10年程度の期間なのに、人間とは一気に老け込んでしまうものらしいと改めて感じたところであります。
画像は、置賜三十三観音第26番 遠山観音(西明寺・真言宗)…ご本尊は「十一面観世音菩薩」とのことである。何故に「十一面」なのか?「十一面観音」は「十種勝利(現世での10種類の利益)を与えてくれるというから、これに阿弥陀如来の「仏相」を加えて「十一面」ではなかろうかなどと、また勝手な解釈をしております。(数に関する明確な由来は存在しないようである^^;)般若心経が「空」という世界観を説いたものとするならば、「十一面観音」は、病気、災難から逃れ、金銀、食事に困らないとされているのだから、仏教伝来の折りに庶民の信仰心をくすぐるには最上の『布教アイテム』だったような気がしてきますなぁ。(バチあたりもんが!)
お堂の傍らにある「トラノオモミ」(植物学的には「ハリモミ」とのことである。)は、奥方の病気平癒を願って、上杉藩四代(謙信公を初代とした数え方^^;)藩主 上杉綱勝公の手植えとされているから、360年の樹齢ということになる。「トラオノモミ(トウヒ)」ならば、本州中部の亜高山帯に分布し、「ハリモミ」であっても日本海側の多雪地帯には、ほとんど分布しないとのことであるから、これまたありがたい…『おやじぃ』は「トラノオ」と聞いて「虎の尾を踏む」という言葉を思い出す…「仰げばぁ尊し~♪」と大木を見上げながら、足は『尾っぽ(根)』を踏んでいるという罰当たりであることに変わりはないようである(笑)


こちらは「桑山観音」の絵馬ですが…

さて、『おやじぃ』の『小さな巡礼の旅』も3分の1ほど巡り終え、いい加減に唱える『うろ覚え 般若心経』も、 こうしてお堂に掲げられている絵馬にも『何故』がつきまとってしまうのでありますよ。人間や動物の行動には、何らかの『意味』があるはずである。こちら武者絵の絵馬も天保十二年とあるから、時代は「天保の改革」と時期を同じくする。天保八年には大飢饉があり、貨幣経済が進むとともに、農村では離農が相次ぎ、「人返し令」が出されるほどだから経済も疲弊していたようである。豪商、豪農が我が子の健康丈夫を願い掲額したものか、武家社会への反目かなどと考えること考えること^^;
はてさて、般若心経が説く「心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖(しんむけいげ むけいげいこ うむくふ)」…「罣礙」とは「こだわり」や「しがらみ」を指すらしい。一切が『空』と断じてしまわれると、そもそも我が人生とは何だったのかとまた考え込んでしまう。(何も大層なことを行ってきた訳でもないくせに…。)しかし、元上司と共に励んだ『仕事』とは一体何だったのかとまた問い返し、人間の手によってできる『救済』のひとつを叶えたではないかなどという思いも消せるものでもない。そうそう「十一面観音」の裏側の「お顔」は「大笑面」と言われ「悪への怒りが極まって、悪行を大口を開けて笑って滅する。」という意味が込められているのだとか…。泣いたり笑ったりの人生ではなかったか?仏さまとて、怒りや笑いの顔を見せるのだから、生身の人間が「こだわり」から逃れられる訳もない。「即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦」…覚えたての「真言」を故人に伝え、かつての『有能な部下』は、もう少しだけこの世で修行を積んでから参りますと心で誓ったのでありましたとさ(笑)

 

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有機農業運動…星寛治さんへ

2024-02-25 09:22:04 | 巡礼

偲ぶ会の次第を使わせていただきました。

2023年12月7日、日本有機農業の先駆者である「星寛治さん」が逝去されました。子どもの頃から有機農業の実践者の話題は耳にしておりましたが、当時は有畜農家がそのたい肥を農地に還すことは当然のこと位の認識しかありませんでしたし、むしろ、氏のお名前を知ったのも学生たちによる「農ゼミ」に参加するようになってからである。社会に出てから、都会に暮らす「農ゼミ」参加者と地元「共生塾」との交流会をお願いしに自宅まで押し掛けたことがありましたけれど、気さくに快諾していただきました。氏を偲ぶ会が実行委員会の手で執り行われ、『おやじぃ』も出席させていただきましたが、氏の経歴を振り返りながら、「詩人であり、ロマンチストであり、信念の人であった。」という思いを再確認したところであります。「何故、除草剤を始めとする防除薬剤を頑ななまでに否定されるのか?」(百姓は楽をしてはいけないのか?)と反問しつつ、『おやじぃ』が掲げる「総合防除(省農薬)」という概念には一部合致する…手段や主張は違えども、目指すべき方向性に違いはなかったのではないか?などと『大人』になって思い始めております。氏が口にされた『有機農業運動』とは、農村社会と農政に対する問い掛けであり、後継者たちが進める『有機農業活動』は、有機農業の経済性に重きを置いた活動に変容しているようにも思えるのでありますが、氏の投じた一石は、脈々と受け継がれているはずである。ご冥福をお祈りいたします。


「宮大工」はある意味「芸術家」かも?

さて、我が在所、高畠町の『巨星墜つ』といえども、氏の志は、天界から後継者への道標となって輝き続けるに違いない。中国に「豹は死して皮を留め、人は死して名を留む。」という故事があるようである。午後から神妙な面持ちで、置賜三十三観音第25番 赤芝観音(龍性院)を訪れたのだけれど『何』もない…1993年河川工事の際に発見されたという「草木塔」もあるのだけれど『映え』ないのよぉ~。『珍釈 般若心経』を唱えながらお堂を一周すると、先の地震の影響か?お地蔵さんが一体倒れておりまして、一旦拝んでから手を掛け元に戻しましたが…これで『御利益』間違いなし!こちらの聖観世音菩薩は「福徳延命」「一生財産に困らない」とあるから、さっそくの『御利益』が…何せ、今朝こうして息をしているのだから、一日の延命にはなったようでありますよ。冗談はさておき、多くの観音さまは『秘仏』扱いであり、何年(60年が多いかなぁ?)かに一度の御開帳…「やれ、京都の有名仏師による名がある。」などと言うと、市の文化財などの指定を受けたりしますけれど、木鼻(柱の外に出た部分)の彫刻を見るにつけ、無名の彫物師(入れ墨じゃない方)や宮大工の技に惚れ込んでいます。(彫りモノだけに^^;)名を残さなくても、作品は後世に残っているのよねぇ…。


小野川温泉「尼湯」…入湯料200円^^;

はてさて、「赤芝観音」は、こちら「小野川観音」の途中にあり、実に非効率な『巡礼』をしていることに今さらながら気付くのでありますが、『裏目的』の腰痛治療には差し支えないのであります。本日は外観美しい「尼湯」へ入湯…中に入って驚いた。狭い、古い…『Oh!ノスタルジック!』と叫べば救われる。男女仕切りの上の空間から「あっづいどき、うめでいいんだぞぁ~。(温泉が熱いなら、水で温度を下げていいんだよ。)」なんて、どこぞのバァちゃんが、子連れの若妻に掛けた声が響き渡る。(妄想の世界をさまよっております^^;)
名を留めることも、技を残す術(すべ)もない『おやじぃ』ではありますが、「乃至無老死 亦無老死尽」…老いも死も無い訳ではないが、かと言って老いや死がある訳でもない。ならば、もう少しだけ俗世を楽しんで彷徨ってみることにいたしますよ。

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心のありよう…伝奇

2024-02-24 07:53:41 | 巡礼

「伝奇」とは…起こりえないような話^^;

「理想と現実」「苦楽を共にする」などと、相反する言葉を並べますが…理想では、悠々自適な生活を夢見ても、現実には、その日の糧を得るためにせかせかと働き続けなければいけない。『おやじぃ』の場合は、半日パソコンに向かって糧を稼ぎ、午後からは心の赴くままに『小さな旅』をしている訳だから「悠々」とは言わないまでも「自適」な生活を楽しんでいるはずである…欲を言うならば、もっと『遊び』たい(笑)
昨日はアルバイト仕事の取りまとめで時間に追われ、少々遅めの出立…置賜三十三観音 第23番 川井観音を訪れてみました。「桃源院(曹洞宗)」は伊達家の評定衆「鬼庭左月」によって創建された寺院らしく、独眼竜政宗の仙台移封とともに、宮城県大崎市に移ったらしい。現在のお寺は、地元に残った方々によって再興されたようであり、観音堂には茂庭村(福島県)の『さる姫伝説』が伝えられているようでありますなぁ…。『大蛇の難』(この場合、盗賊や悪い領主の類だろうと思うのだけれど…)を逃れるために『さる姫』なる人身御供(大体、大蛇が女人を求めるとは思えないもの^^;)を立てるのだけれど、こちらの観音さまが身代わりになって退治してくれたのだとか…鬼庭家の始祖は、那須の辺りに居住していたらしいから、茂庭村への侵攻を『悪政の大蛇退治』として語り継がれたモノに違いないなどと、お堂の『縁起』にまで勝手な解釈をしております…ハイ、お仕舞い。
「桃源院」という院号から、古代中国 陶淵明の「桃花源記」の現代語訳を読み直してみました。「桃源郷」は、戦乱を逃れて外界とは隔絶した場所であると…。


「米沢ラーメン」の再興…ショッパイ^^;

さて、時は少々さかのぼり、「米沢ラーメン」を外食していたら、お小遣いも尽きてしまう。ならば、冷凍食品で『元祖米沢ラーメン』を再現できないかと挑戦してみたのだけれど…説明書き通りのお湯でスープを溶いたらショッパイ!具材不足は、白髪ネギで補って、原価300円といったところかな?そして『俄か般若心経尊者』は、ひとつの悟りの境地を拓くのである。「色即是空 空即是色」…この世の存在は、全てが虚構(空)である。『吾、日に三度、空を悟る』…これを「空腹」という(笑)
はてさて、「無眼耳鼻舌身意」…赤ん坊でさえ、母親の姿を追い、その声や香りを求め、乳を求め抱っこを求めて泣きわめく。それが人の『煩悩(我欲)』の始まりとするならば、人は『煩悩』から逃れることなど出来ないのではなかろうか?「桃源郷」は、乱れた世の中から逃れ、市井の人々が外界と隔絶した場所に創り出した理想郷ではあるけれど、求めても二度とたどり着けなかった場所である。「能除一切苦 真実不虚」…「苦しみ」もまた、人が創り出す概念であるから、「苦」から逃れる必要もないと般若心経は説いているようでありますが、生身の人間は、これを「虚しい・空しい」と言う。「桃源郷」や「苦しみ」さえも心の内にあるならば、俗人は、空腹を食で満たし、心の空しさは美しいもので満たすに限りますよ。お堂に施された「籠彫」が素晴らしかった…善政の時に現れるという「麒麟」も「急流を昇る鯉」の画像も全てピンボケである。さぁ、もう一度出直しを…「理想」も「苦しみ」も心の内に創られた概念だとすれば、何度でも、出直し、創り直しは利くはずであると悠長に構える『おやじぃ』でありますよ。残りの人生少なくともね(笑)

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病気平癒祈願…イボ?

2024-02-23 09:34:06 | 巡礼

仏敵の侵入を防ぐ「金剛力士」…

一夜明け、外は冬景色に変わっておりました。まだ2月だというのに、冬の終わりを告げるような重く湿った雪である。(雨の中ではあったけれど、昨日の完成検査は正解でした^^;)ならば、今日は完成報告書を取りまとめ、関係官署に届ければ今年度予定工事のひとつは完了でありますよ。しかし、頭の中では、今日はどこの観音堂を巡るかを考えている。第24番桑山観音…昨日の失敗を教訓に、お寺の来歴を調べ、ご利益を調べ、『適当般若心経』を唱えないようにプリントアウトして入念に準備。(仕事もこれだけ真剣に取り組めば失敗しないはずなのにねぇ^^;)
書類を届け終え、普門寺(真言宗)に向かうと車の轍は一本…この時期、参詣者も居ないらしい。本堂から離れた足跡もない観音堂に向かうと立派な山門がありまして、「私は仏敵てはございません。」と断りを入れながら『御尊顔』を拝謁いたしますと、右手の『阿行像』が大きく口を開けている。いや違う…『仏敵』は最強のチャレンジャーだったらしく、右のグーパンチ一閃!屈強の金剛力士の顔面は粉砕骨折状態だった^^;(金剛力士像は、風雨に晒されることが多く、保存状態の悪い像が多いらしい。お陰さまで、仏像内部のノミの跡など『観察』することができましたけれどね。)肉眼では、格子に遮られて中々状態が分からないのですが、携帯のカメラのレンズは小さいから、格子の間から撮影すると全身像が写せることに気付きましてね…なるほど、『ドアスコープ』の原理かいと納得し、次なる『ノゾキ』の際には活用できると、また良からぬ方向へ『助平心』がうずくのでありましたとさ(笑)


そう、コレコレ、病気平癒の石

さて、本来参詣すべき聖観世音菩薩…『カンニング般若心経』を準備して全文を唱えてみる。観音堂を一周してみると、背後には「勢至菩薩」が守りを固めていらっしゃった。正面に無造作に置かれた『賽銭壺』は防犯カメラで守りを固めていらっしゃいましたよ。(アタシャ、手を掛けたりしませんが…^^;)そうそう「鰐口」下に置かれた石を撫でれば病気が平癒する…折角の『御利益』に与からないのも損である(お賽銭も投じていないのにねぇ…)から、石を撫でて『時限爆弾』を抱えた腰のあたりを撫でてみると、アラ不思議…無理やり軽くなったような気になっておく。大体ねぇ、こちらの「観音さま」の『御利益』は病気平癒でありますが、この石は『イボ取り石』ですから~復習して分かった事実(笑)
はてさて、山門の金剛力士は、寺院への『仏敵』の侵入を防ぐ役割を担う…『仏敵』とは、教義の妨げになるモノと解釈すれば、己の意に反するものは全て『仏敵』となり、場合によっては他の宗派さえ『仏敵』として排斥する集団もあるようである。「般若心経」にいう「遠離一切顛倒無想(おんりいっさいてんどうむそう)」…誤った妄想からの心の解放と解釈すれば、『敵』を創るのも己の心の内にあるのかも知れない。老化して目に見える『イボ』を気にして石を当てるより、心にできた『イボ』に、この『イボ取り石』を使った方が良いのかも知れないねぇ(笑)

追記:そうそう、これが昔ながらの元祖「米沢らーめん」…中華ぞば。チャーシュー、ナルト、シナチク、海苔にネギのトッピング。(お隣のモツ煮は余計ですが^^;)
今朝、勤め人時代にお世話になった上司の訃報が入ってきた。ご冥福をお祈りいたします。 合掌

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見たままに…『ヒバゴン』

2024-02-22 08:34:59 | 巡礼

置賜三十三観音 第28番札所ですが…

久し振りの雪の予報に『おやじぃ』は、ハタと困ってしまいました。2月の雪など当たり前のことではありますが、令和5年度の受託仕事である水路整備工事の完成検査の日だったのよねぇ…検査のために除雪作業をしていただくのもお互い無駄だから、現場の雪解けを待って検査日を設定したはずなのにねぇ。人生とは得てしてこんなものである。最近、『俄か般若心経通』を名乗っているから、心の有り様が少しずつ変化し、有るがままにを受け入れられる気構えが出来上がりつつある。(ホントかねぇ?)結果は「雨」…これも『御仏のご加護』と、どこまでも自分に都合よく考えることにしております^^;
「年金受給を前にして、お気楽な生活をしている。」と友人『ノロ社長』の厳しい指摘を受けながら、「ちゃんとお仕事もしてまっせ。」とばかりに、完成検査を無事終えて、残りの時間は巡礼と『腰の温泉治療』に充てる余裕の仕事ぶりである。隣り町の南陽市内の観音堂もあと2ヶ所となり、その内1ヶ所は熊野大社脇道3㎞、大型車通行不可とあるから見送り、こちら第28番札所「宮崎観音」を訪れてみた。このところ「大木」に目を奪われることしきりでありまして、境内にはよく刈り込まれた『ヒバゴン』があった!いつものように本堂前で『適当・般若心経』を唱えたものの、ふと思う…こちらは曹洞宗の寺院で、「一仏二祖」が教義のはず。ご本尊として、本堂に鎮座する訳も無し…観音堂は別の場所にあるようですなぁ^^;(いい加減さもここまで来ると上等だわ。また出直すことにいたします。)草木にも感謝し、その成長を願って建立されるという「草木塔」を見つけ、「無眼界乃至無意識界」…目で見たり感じ取ったり出来ない世界観を、目で見たままに『ヒバゴン』と名付けてしまう俗世に生きる『おやじぃ』でありますよ(笑)


常にこの世は変化し続ける…

さて、『ノロ食べログ』で評価の芳しくない町内のラーメン店…お隣のラーメン店駐車場に『ノロ社長』の車があるのを承知で、『おやじぃ』は事の真偽を確認に入店してみた。(若い頃は、毎日食べても飽きのこない味だった気がするのだが…)まずは、スープをひと口…醤油味が以前と比べて強いかなぁ?(スープのダシのせいかも知れない。)そして、スープをもうひと口…脂ぎったスープでもないのに、舌の上に脂を感じてしまう何故?麺もチャーシューの味も以前と変わらない気がしますが…。バアちゃんとお袋さんで切り盛りしていたこのお店も若手に代替わりして、味付けが変わってしまったのか、そもそも『おやじぃ』の舌が老化したのか、耳から入った『情報』がそう感じさせてしまうのか…『変化』は世の常、それぞれに変化しているのかも知れないねぇ。
はてさて、綱正寺の「草木塔」…決して古いモノではないと思えるのだけれど、日本国内には160基(現代のものも含め、200基以上との説もあるようです。)約9割が山形県置賜地方に集中しているとか…。『おやじぃ』が好きな自由律俳句の「種田山頭火」の作品にも「草木塔」という句集がある。山口県出身の「山頭火」が何故に「草木塔」なのか…どうやら俳聖 松尾芭蕉の足跡を追って「奥の細道」を旅し、新潟県村上市あたりで「草木塔」の話に触れたとの書き込みもありました。残念、我が置賜地方を訪れた訳ではなかったのよねぇ…。「あるけばかつこう いそげばかつこう」「松はみな枝垂れて 南無観世音」etc.人生を急ぐ必要も無し、「分け入っても分け入っても青い山」…『変化』を楽しみ、『変化』を受け入れながら、もう少し「分け入って」みますかねぇ(笑)

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仲睦まじく「相生」の…

2024-02-21 10:25:30 | 巡礼

「相生の松」が一般的でありますが…

防寒具も必要のないような陽気から、一気に冷え込みましてねぇ…こういう年は天候不順に悩まされるかも知れないなぁ…(知らんけど^^;)今さらながらの『極楽浄土』への道を求める旅か、話題のネタを探す旅か、次第に近間の観音堂が残り少なくなりまして、昨日は飯豊町の「黒沢観音」まで足を伸ばしてみました。(とは言え、片道30分程度でありますが^^;)それでは、覚えたての般若心経を唱えまして「…無眼耳鼻舌身意(むげんにいびぜつしんい)」…『おやじぃ』は、この辺になると必ずつかえてしまうのでありますよ。『五感・六根で知る得る喜怒哀楽に振り回されない。』という教えなのかも知れませんが俗世を生きていますからねぇ…そうした境地には達し得ない。ありがたい「観音さま」を後に、何かないかと探し回っておりますから…それが『つかえる』原因かも知れない。
ほれほれ、そうこうしている内に、参道で「相生の松?」を見つけましたよ。いやいや、これは『相生の赤マツとヒバ』である。「相生」とは、2本以上の木が同じ根から生え出ていること。転じて、夫婦が仲睦まじいことを指すそうでありますが、この場合は『異種同根?』…古くは中国の白居易(白楽天)の「長恨歌」という詩には「地に在りて願はくは 連理の枝に為らん」という一節があるようです。この場合は、枝が絡み合い、しまいにはひとつの木目となることを指す慶事のようでありますが…「連理の枝」というチェ・ジウさん主演の韓流映画もありましたけれどね…。あと100年もすれば、ちょっとした観光名所になるかも知れない…その時『おやじぃ』は生きていないから、責任は持ちませんけれど(笑)


「六地蔵」にも意味がある…

さて、「観音さま」が行を深め、会得した『空』という概念を『おやじぃ』ごときが知れる訳もない。『相生の赤マツとヒバ』、「連理の枝」さえ『銭』に変わらんかねぇなんて考えているのだから…。ただね、少しだけ「観音さま」に心が浄化されたのか…『相生の赤マツとヒバ』を見ながら、樹種(国)が違っても、お互いの立場を理解し合い、仲良く共に生き残れないものかなどという思いが湧いてくるのでありますよ。根(人間)はひとつなのにねぇ…。
はてさて、少しだけ『不垢不浄』の念を抱いたところで、また俗世を振り返る。ウクライナとロシア間の紛争は未だに治まらず、国会は、不信任案決議、裏金問題と揉めているようである。もしも『畜生道』『餓鬼道』という来世に『制裁の場』があるとするならば(これまた、人間が後付けで考え出した正道へ導くための教えかも知れないけれど…)放って置いても『その道』に堕ちるはずである。しかし『人間道』はなぁ…「無眼耳鼻舌身意」…「五感で感ずるものに振り回されるな」では解決しない。むしろ、『五感で感じるものに振り回されるのが人間界である。』と解釈すべきなのかも知れないねぇ…「相生」は「相老」とも掛けて、夫婦などが年久しく長らえることにも使うようである。これからは『老害』ではなく、『経験』を長く生き残るための『智恵』に変えるお年頃なのかも知れないなぁ…「観音さま」はおひとり様で巡ってますけれど(笑)

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美女と野獣…エマ

2024-02-20 10:48:18 | 巡礼

「エマ・ワトソン」じゃないほうの「絵馬」…

『おやじぃ』が突然思い立った『小さな巡礼の旅』も7ヶ所目…そろそろ数をかぞえておかないと、あやふやになりそうなところである。大体ねぇ、三日前に訪れた「上小菅観音」から『腰の温泉治療』に立ち寄った川西町の温泉施設「まどか」へ向かう途中にある「置霊観音」であるから、巡礼の効率が悪過ぎる。(良いのよ、いいのよ、1ヶ所ずつ巡ることで『御利益』がある…ホントかねぇ^^;)
ましてや、「観音さま」よりも周りにある『何か』に興味を持ち始めているから、既に脇道へと大きく反れ始めているのでありますよ。にわか仕込みの「般若心経」も、書写して「…是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減…」までは何とかそらんじることができるようになった…「羯諦 羯諦 波羅羯諦…」ん~この「絵馬」は何じゃ?明治23年との記載があるし、奉納者の名前も記してある。信心深い方々の奉納と思いつつ、お堂を一周すると裏手に全く同じ構図の「絵馬」がありまして、重ねてみたら奉納者のお名前が一致する…もしかすると複製したものかしら?(勝手な想像でありますが…)別の絵馬には、『平成△年〇×(氏名)復元』などという書き込みのあるものもある…文化財にもならない地元の民俗資料などはこういう扱いなのよねぇ…絵心のある加筆者の気持ちも分からなくはないけれど、拙い筆致に『残念!』という気持ちも湧いてくる。そうした雑念は捨てまして、正面に掲げられた「絵馬」について考えてみた。観音様の掛け軸を拝む者あり、踊る者あり…もしかすると『観音講(女人講)』の様子かしらと想像したところであります。


山門脇には『杉巨木』の痕跡が3本…

さて、神道では「大宮子安神社」…『お宮講』として女人の会が催される集落も残っているようでありますが、「観音講」…『結婚してから子どもが産める年齢までの女性が参加する「講」で「安産」「子育」祈願のためのものでした。(鹿嶋市HP原文まま)』との記述もある。舅姑や旦那の悪口を吐き出してストレス発散するのもヨシとはするが…。お経の中には「血盆経」なる経文が存在し、本来は、『血の池地獄』へ堕ちた人の救済するためのお経だったらしいのだけれど、日本では。室町時代以降、そして江戸時代には、女性の経血のみが強調され、女性はことごとく『血の池地獄』に堕ちると説かれた時代もあったらしい…。
はてさて、「絵馬」から想像する風俗…ハリーポッターシリーズや「美女と野獣」に出演した「エマ・ワトソン」も、女性の権利確立のために積極的に活動し、発言しているようでありますなぁ。「絵馬」を見ながら「女人講」の光景ではないかと想像しつつ、「女人講」ならば「男子」がひとり踊っている姿があるのは合点がいかない。つまり~無意識の中で、「女人講」は女子だけの会と決めつけている『おやじぃ』がいる訳でありますよ。いつの時代でも『女性に理解のある男性』が居ても良いし、『女性にウケる男性』が居ても良いのである。ひとり真面目に掛け軸に手を合わせる女性も居るが、多くは料理や歌、踊りに興じているようである。『古さ(年齢)』と『巨大さ』を誇示しても、芯が腐って害を与えるようになれば、大杉も切り倒されるが如く…『おやじぃ』の場合は、切り倒される前に退くことにいたしましょう。「色即是空!」覚えたての言葉を直ぐ使いたくなるんだわなぁ…意味を知ってから使っては如何かな(笑)

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