その日暮らし

田舎に暮らすこの虫は「カネ、カネ、カネ」と鳴くという。

雲と自由が棲むという里で百姓に成りきれるかな?

夢屋四十八手(寄り切り)

2009-10-31 13:06:40 | 四十八手
「夢屋いろはカルタ」を卒業し、本日よりお題を一新して「夢屋四十八手」
現在、日本相撲協会では、決まり手を70種類に整理しておりますので、以降70日間は、日々お題に悩む必要が無くなります…^^;
同じ肉弾戦でも、男女の交わりと勘違いされた方は、自主退場願いますm(_ _)m

まずは、初日ですから私の大相撲に関する話題から…。
私は「巨人、大鵬、玉子焼き世代」であり、山形県と言えば『柏鵬時代』を挙げずには居られません。ご当地出身の横綱「柏戸」こと、鏡山親方は早世されましたが、横綱「大鵬」は、今年目出度く「文化功労章」を受賞されたようでございます。山形県民としては、横綱「柏戸」を応援すべきだったのでしょうが、幼き夢屋は、千秋楽決戦でも強さの際立つ横綱「大鵬」を応援していたような気がします。その頃から、強い者(長い物)には巻かれよ的性格が培われたのかもしれません…とほほ。「剛の柏戸」は速攻が身上で、本日のお題である「寄り切り」や「寄り倒し」が決まり手としては多かったような…と薄れた記憶の中で思い起こしております。その実直さは、山形の県民性を体現された方のようです。

           
11月3日には、雪マークが予報されている山形でありますから、朝の寒さが辛く思える毎日ですが、「山形青菜」の葉に小さな蝸牛を見つけました。
「速攻の柏戸」に対して、此方「鈍足のカタツムリ」とは絶妙な取り組みですが、「カタツムリ」のウンチクを語らせるとこれがまた長くなりますので別の機会に取っておきます。「山形青菜」は、先週最後の間引きをした株を重量比6%の塩で下漬けしておきました。この節、「おみ漬け」など作って、お袋に食べさせようかなどと考えてのことですが、ここでハタと困ってしまったのが漬けダレの分量が分からないこと。ネットで調べれば、ある程度のことは分かるのでしょうが、我が家の味が、どんな分量だったのか…古老の味を思い出しながら再興してみようと思います。
今週末から、雪囲いの下準備や青菜・大根の収穫、日干しなど冬を迎える準備に追われることになります。事に追われ始めると溜息となり、事を楽しめば、これもまた遊びに変化します。何事も遊び心で臨めば、また楽しからずや…などと、やせ我慢の言葉を吐いていると、
           
同じ青菜の葉の間で出家したはずの『アマ執政』が、顔面蒼白で固まって居りました。聡明にして、時に『夢屋国王』をも豪快に「寄り切る」ほどの彼にしては、情け無いことに「ウ・ン・チ」が切れておりません。寒さで基礎代謝能力が一段と落ちて来ているのでしょう。彼らも冬ごもり間近のようであります。


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京の夢、大阪の夢

2009-10-30 21:40:25 | いろはかるた
「夢屋いろはカルタ」は、遂に48日目の千秋楽を迎え…『京』。
「色はにほへど…浅き夢見しえいもせす。」で終わるものと暗記していた「いろは」でありますが、48番目の句が『京の夢、大阪の夢』であるようで、夢の話を語る時の枕言葉のようなもの…「京の夢」とは官位を得て立身出世する夢であり、「大阪の夢」とは商売繁盛し富を得る夢であるとか…。
さて、私のH.N.『夢屋』は、ジョージ秋山作『はぐれ雲』に登場する問屋場「夢屋」から拝借したものであります。「男というものは、両の手のひらを組んで熱い思いをグッと握りしめても、指の間からその思いがフツフツとたぎり出さなくなったら男稼業もお仕舞いだ…。」などという原作にはない、恩師の教えを心の何処かで噛みしめながら、日々飄々と生きることを良しとして、ここまで生きて参りました。
もう20年も前の話ではありますが、県内高校生(生徒会役員)の討論会にオブザーバーとして参加する機会がありました。彼らが夢を語る場面があったのですが…、
「時間とお金があったら、ログハウスを建ててみたい。」
「カラオケボックスで、目一杯歌いたい。」etc.
大人たちは決して意見を述べていけないという設定でありましたので黙って拝聴しておりましたが、進行役が行き詰まり、最後に間違えてオブザーバーの感想を求めてしまうという失態を演じてしまったため、私は嫌われることを覚悟で思いを述べました。
「若者が夢見ることは頼もしいが、それを実行に移し、夢を叶えようという意欲が感じられない。総じて、君たちの夢はお金と引き換えに叶えようとする、タラレバの夢だね…。」実に嫌味なオヤジに映ったことだろう^^;
           
お金などと言う物は腐る物でもないのだから、あっても「くたま(邪魔の方言)」に成るものでもない。しかし、貧乏人の考えるお金の遣い方は、例えば宝くじが当った場合を考えてみても、一戸建てのマイホームが欲しいとか、車を買い替えたいとか、その程度の発想で止まってしまうようであり、貧乏人は貧乏人なりのお金の遣い方しか発想出来ないようであります。
そこまで大見栄を切るのであれば、お前の夢を聞かせて欲しいということになりますが、所詮私も貧乏人、発想も貧困であります。
今年一年、古老に代わって農作業を完結し、また、フツフツと若き日の思いが湧きあがってきました。近所の休耕地を活用してビオトープを作りたい。フランス人アンリ・ファーブルのような余生を目指している訳ですが、さほどお金が必要な訳でもなく、必要なのは私自身のやる気と根気だけというちっぽけな夢であります。
しかし、HPやブログという発表の手段が、いとも簡単に手に入れることができるようになった世の中は、とても便利なものですが、結局、お金との交換という高校生に訓垂れたオヤジにしては、情けない現状ではあります。
さて、明日からは、新たな四十八手を考えて、夢の続きを語りますので、どうぞ、御用とお急ぎでない方は、お付き合いのほどを…とほほ。
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雀百まで…

2009-10-29 19:59:40 | いろはかるた
「夢屋いろはカルタ」は47日目を迎え…『す』 上方カルタでは、お題の「雀百まで踊り忘れず」であり、江戸カルタでは「粋が身を食う」と相成ります。明日は、いよいよ夢屋一座も千秋楽を迎えることになりますので、何か名文をなどと、要らざる事を書きながらマス目をうめております。
今日は、とても濃い一日でした。朝の打ち合わせに始まり、人生相談や経営コンサル、書画骨董の品定めに、重機や土地の売却交渉、最後はメンタルヘルスに関する要望など…。一体、私は一日何をやっているのだろう?
こんな時は、火星の樹海を眺めながら、また人生を振り返るのであります^^;
ブログ仲間で同級生のHN『貧乏父さん』も、リストラで大時化(オオシケ)の海を何とか泳ぎ切り、就職内定に漕ぎ着けたとの一報が入りました。私たちの年代に成って来ると、やる気と経験、資格だけでは容易に仕事が見つからない…年齢の壁という厳しい現実が目の前に立ちはだかります。
かつて、一国の首相がパフォーマンスでハローワークを訪れ、「将来どうしたいかという大きな夢を持たなきゃ企業は採用してくれないよ…。」などと、若者に勝手なコメントをして自己満足しておりましたが、御曹司で大株主で、就活など縁の無かった方の発言であり、我々オヤジが夢を語ったところで、脛をかじる子どもたちに、どうやって飯を食わせるか…という現実に、語る夢は悪夢へと変わってしまうのであります。何はともあれ『貧乏父さん』良かった良かった…^^;
           
外回りを終えて、日の暮れかかる裏庭を歩いていると、日中壁際で「日向ぼっこ」をしていたと思われるアマガエルが、芝の上をねぐらに帰ろうとしておりました。彼らはきっと枯葉のベッドで今晩眠るのだろうと勝手に想像し、丸い愛くるしい瞳を見ていたら、一日の喧噪も忘れてしまいました。
子どもたちの寝顔や笑顔こそが、お父さんの活力源でありましたが、3人の子どもも家を離れてしまい、お父さんの癒しは、「アマガエル」の円らな瞳となっております。
アレレ。今日のお題は『雀百まで踊り忘れず』でした。
幼い時に身に着いた習慣は、年を取っても身から離れないという例えでありますが、私の場合、身に着いたのは「貧乏性」であり「恥(人の目)」であるような気がします。
我が家の狭い農地に這いつくばりながら、子どもの頃させられた『落ち穂拾い』…私がお袋に「何で拾うんだ。」と聞きますと、お袋は「拾ったところで収量が上がる訳ではないが、無造作に捨て置くことは、人に見られたら恥ずかしいことなんだ…。」などと教えたものです。効率性といった見地からは、絶対に理解できない「恥」の心であり、こうした教えがいつの間にか身に着いてしまったような気がします。かつて学生時代に上野の山で見た、ミレーの『晩鐘』は、私の心の原風景のような気がして、もう再び本物を見る機会はないだろうなどと思いながら、人の波に逆らいながら、半日、絵の前で眺めていた自分を思い出しました。
おっと、巻頭「火星の樹海」は、我が家の庭石のコケでありますm(_ _)m
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背に腹は変えられぬ

2009-10-28 20:33:50 | いろはかるた
「夢屋いろはカルタ」も46日目となりました…『せ』ということで、江戸かるたでは『背に腹は変えられぬ』と相成ります。
差し迫った苦痛・苦境を脱するためには、少々他の犠牲を払うのもしょうがないといった意味でありますが、「こりゃ、背に腹は変えられねぇ…」と言う逃げ口上を使ってその場をしのぐことが多いような気がします。
直近の事例を挙げれば、本日の画像は、この夏撮り貯めたものであり、夢屋画像集ボツ庫に収蔵されていたものですが、台風の余波で撮影が出来ないとこうして古いボツ画を掲載するしかなくなり、これも小さな「背に腹」状態であります。
大きな事象で言うならば、多くの農家は、土地を担保に「総合商社のうきょう」に多くの債務を抱え、二進も三進も(ニッチモサッチモ)立ち行かない状況が見え隠れします。子どもの進学や農業機械の更新、家の新築など、世間並みと言われる生活を求めた結果、的確な経営診断もないまま融資を受け続けた結果の失態…ある意味、体の良いサラ金地獄と同じような状態の方が見受けられます。世に「有るようで無いのが金。無いようで有るのが借金。」と言われる所以であります。
           
中々腹の内を見せてくれない「アマガエル」の腹の画像を狙うとこんな感じでしょうか…^^;
しかし、考えるに…日本と言う国家自体が借金塗れの状態で、いつ倒産してもおかしくない。そもそも貨幣などというものは、国家の保証によって価値が維持されているものなのですから、いくら銀行に億単位の蓄財をしても「日本国」が倒産すればただの紙くずな訳でありまして…老後の心配より、国家の心配をすることの方が先決なのかもしれません。
古老の死によって、莫大な遺産を相続することとなった(古老は、古物収集癖があったので、莫大なというよりは…数多くの古い物といった表現が適切ですが…)私、夢屋でありますが、その処分に困っております。
親子で価値観が違うと、古老の大切なお宝も、私にとっては唯の瀬戸物であり、ゴミであり、厄介な盆栽であります。国家もまた同じで、国民との価値観の違いが生じると、ダムの堤体も高速道路も、所詮処分のできない粗大ゴミ…都市部に生活のみなさん^^; 道路一本だって、政府が管理を放棄したら、その道路に隣接する土地の価値などというものは、一気に暴落してしまうのですから…。凡そ、この世の資産などというものは、所詮仮初めのものでしかありません。価値として不変の物は、「親子愛」であり「夫婦愛」であります…この「夫婦愛」もいささか変節いたしますが、この際『背に腹は代えられぬ』ということで、せっせと「おかあちゃん」に媚を売る夢屋であります。
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門前の小僧…

2009-10-27 11:07:57 | いろはかるた
「夢屋いろはカルタ」は45日目…『も』 残すところあと3日となりました。
江戸カルタでは『門前の小僧、習わぬ経を読む』と相成る訳ですが、普段から見聞きしていると、いつの間にか学び取ってしまうことの例えであります。
「観自在菩薩行深般若波羅密多時…」仏門では、一部の宗派を除いて一般的に唱えられる「般若心経」の冒頭でありますが、私の場合、写経などという高尚な行為としてではなく、筆字の練習用に稀に書き取りをすることがあるのですが、必ずと言って良いほど、この冒頭の「密多時」で行き詰ってしまうのであります。
まったく私の思い込みに過ぎませんが、凡そ語学に堪能な方は、音(オン)として捉えることが得意な方ではなかろうかと思います。私の場合、構文や意を理解しようとしてしまうので、語学は大変苦手です。子どもたちが親の口まねで語彙を増やしていくように、あるいは流行り歌を口ずさむように、音として耳から入る詩(単語の羅列)が、素直に耳から入る方こそ語学の才のある方と勝手に決めつけております。門前の小僧さんは、「色即是空 空即是色」などと一字一句を理解しようなどと思わずに経を読むのでしょうから…^^;
           
昨日までの陽気とは打って変わり、とても冷たい雨が一日中降り続きました。有り合わせのキャベツの種子を播いたのか失敗だったろうかなどと、反省しながら、なかなか成長しないキャベツの畝を眺めていますと、葉の裏で雨宿りをする『コカマキリ』を見つけました。彼らは、キャベツ畑を訪れる蛾やハエの類を捕らえて食べるのであろうと勝手に解釈しておりますが、モンシロチョウの幼虫を食べることがあるのだろうか…などという新たな疑問にぶつかりました。秋口に定植したキャベツには、相当数のモンシロチョウの卵が産み付けられていたのですが、初期のネキリ虫による被害や新芽の食害さえ防げれば、そこそこのキャベツは収穫できるはず…と経験的に思っておりますので、たいした薬剤散布も行っておりません。我が家のキャベツの葉に産み付けられた卵の数に対してモンシロチョウの発生数が極端に少ないような気がします。意外に寄生蜂や病気で羽化できるまで育たないものなのですが、それにしても指で摘んで捨てる数が少ないような…。本来、うれしい誤算も疑問の種に変わってしまいます。
「ノゲシ」の腰ミノを付けたアマガエルは、本日のご愛嬌。夢屋一座のコスプレ「浦島太郎」を演じていただく予定でしたが、上手に着けられず、失敗作品としてお蔵入りとすべき画像をネタに使ってしまいました…^^;
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貧乏ヒマ無し

2009-10-26 20:16:30 | いろはかるた
「夢屋いろはカルタ」は44日目…『ひ』。本日のお題は、江戸カルタ『貧乏暇無し』であります。貧乏で生活に追われ、寸分の時間に余裕も無いような様を表す言葉であります。
このところ週末は、家の掃除に追われる日々となっております。古老の遺品を片付けながら、茶の間を整理しておりますと壁のクロスにとてつもないカビが…。結婚以来、初めての二人暮らしとなった夢屋夫妻は、そこそこに相手を思いやりながら、喧嘩もせずに仲良く暮らしておりますが、何せ留守番の居なくなってしまった家庭ですから、玄関の鍵を直したり、壁紙の張り替えを依頼したりと築20年を経過した家の手直しに出費が嵩みます。
           
趣味の畑はと言いますと、正直ほったらかし状態。9月下旬に定植したキャベツは、ご覧のようにネキリ虫に見事に倒されております。
           
根元の土をかき分けますと、丸々と太った「カブラヤガ」、俗称:夜盗虫の幼虫が出てきます。「ブチッ(頭の血管が切れる音)」、「ブチッ(夜盗虫が潰される音)」の順番で、哀れ夜盗虫は駆除されるのが通例ですが、そこは喪に服している夢屋でありますので、無益な殺生は今のところ控え、影響のないところへ放り投げるに留めました。
イチゴやタマネギの定植など、秋作業は大幅に遅れているのですが、今年はしょうがないかぁ~。大体、古老が大切にしていた盆栽や万年青(オモト)は、ここ3年程植え替えをしていないので、気づくと根腐れを起こしている状態です。人の趣味の世界まで保証する余裕は無いのですが、古老が亡くなって、盆栽を全て枯らしたなどと言われるのもシャクなので、畑の一角に地植えして勢いが復活すればなどと、余計な仕事も増やしている自分がおります。
「貧乏暇無し」とは、まさに今の自分にぴったりの言葉である。などと、自ら納得しながら、スーパーの白菜が1/2カット50円の値段を見て、畑の野菜の生育に気をもんでいる自分が少々情けなくなる今日この頃であります。
間引いた「山形青菜」で『おみ漬け』を漬け込んでやろう…などと、暇がないと口説き(文句)ながら、新たな仕事に手を出す貧乏性なオヤジであります^^;
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縁は異なもの…

2009-10-25 19:46:25 | いろはかるた
「夢屋いろはカルタ」も遂に43日目…『ゑ』。江戸カルタでは、「縁は異なもの味なもの」と相成ります。男女の出会いの機微を例えた諺でありますが、物好きな夢屋は、部下の結婚式のスピーチのために新郎新婦が出会う確率を計算し披露したことがあります。
夢屋の住む「高畠町(新婦の出身地)」とお隣の「米沢市(新郎の出身地)」の25~35歳の男女人口数による組み合わせの数を調べたところ、ジャンボ宝くじの1ユニットの1等当選確率と同等の組み合わせの数がありました。これがお隣の町の人口や山形県内の人口、さらに全国的な広がりを考えますと男女1カップルが成立する確率は、天文学的な数字になるのではないか…これが夢屋の研究成果でありました。
この秋、オータムジャンボを久々に購入しましたが、数字は当選番号にかすりもしない状態であり、当選したらこうしよう、ああしようなどと考えるものの実質当選することなどあり得ない確率と言わざるを得ません。それでは、天文学的数字の組み合わせで成立したカップルが幸せに成る確率はと言いますと…100%でもあり、0%でもある。二人の努力によって、幸せになれる確率は変化するのであります…ちょっと格好が良いスピーチでしょう^^;
           
たまには、真面目に洒落たスピーチもやっちゃうのです。
我が家の古老が亡くなってから四、七日を迎えようとしております。今日は、茶の間を中心に大掃除を敢行したのでありますが、埃やゴミの出るわ、出るわ…^^;
掃除に飽きて、軒先の『アマガエル』に目を向けますと迷彩色のくっきりとした個体がいるではありませんか!思わず「ソルジャー」という名前を付けてしまいました。彼は彼で何を考えているのか知るよしもありませんが、運良くこの冬を乗り切ることができれば、来春、出会いの季節を迎えることでしょう。『菊』の花言葉は、「私を信じてください」「破れた恋」etc.どうなることやら…。

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知らぬが仏

2009-10-24 23:17:25 | いろはかるた
「夢屋いろはカルタ」は42日目となり、『し』であります。江戸カルタでは『知らぬが仏』と相成るわけですが…。
深まる秋の昼下がり、お日さまに誘われて、今満開の『セイタカアワダチソウ』を眺めておりますと「アブラムシ」と天敵『ナナホシテントウムシ』とが急接近。食べられてしまうのか…との淡い期待を他所に、アブラムシはテントウムシの横を難なくすり抜けて行きました。このアブラムシは、恐らく『セイタカアワダチソウ/ヒゲナガ/アブラムシ』余りにも名前が長いので、本来の名前に区切りを入れてみました。これと似た種に『キク/ヒゲナガ/アブラムシ』という名前のアブラムシがおりますが、宿主が『セイタカアワダチソウ』なので、恐らくという言葉を入れて同定してみました。いずれにしても長い戒名であり、有難いというよりは舌を噛んでしまいそうな名前だということに気を取られ、次の瞬間には名前を忘れ去られてしまう悲しきアブラムシであります。
           
同じアワダチソウの花では『日本ミツバチ』が口吻を伸ばして、盛んに蜜を集めております。今年は、春先から『西洋ミツバチ』が原因不明の大量失踪事件や大量死事件を起こし、果樹農家で入手困難と成り、果樹価格に影響を及ぼすのではないかなどと話題となりましたが、在来種は個体数こそ少ないものの、どっこいこうして生きています。移動性が強かったり、蜜を集める能力が『西洋ミツバチ』に比べて劣るという人間様のご都合主義により、利用されていませんが、中々の働き者です。
           
さらに、数種類の「アブ」が秋の日差しを浴びながら、盛んに蜜や花粉を舐めております。彼らは間近に迫っている自分の死というものを知る由もありません。「知る(知覚)」ということと「知っている(知識)」ということは、比較的寿命の長い哺乳類に与えられた特質かもしれませんが、こうして花を訪れ吸蜜している様子を見ていると、累代にわたって遺伝子に刷り込まれた現象と片付けてしまうのではなく、何らかの知恵や知識を持っているのではないかなどと考え込んでしまいます。
いずれにせよお日様の下で、昆虫たちは平等に生きる権利を与えられております。そこには喰うものと喰われるものの関係は存在しますが、『セイタカアワダチソウ』の蜜を独り占めしようなどという不心得者は存在しませんし、彼らにすれば十分な食料と秋の暖かな日差しは、平和な世界を維持するのに過不足ない環境であると言えます。
一国の首相の総資産額が14億円有ろうと無かろうと『知らぬが仏』、いやいや、知ったところで興味の無い話でありましょう^^;
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身から出た錆

2009-10-23 17:12:20 | いろはかるた
「夢屋いろはカルタ」は41日目、『み』。
江戸カルタでは、「身から出た錆」…自業自得の意であります。日本では、「判官びいき」という言葉があるように弱者に同情的な感情を抱く傾向があり、「身から出た錆」という言葉も己の行いを戒める一方、強者の悪行に対し、強者自らが何らかの形で苦しむことを期待するかのような傾向があるように思えます。
一例を挙げれば、時代の寵児とまで持て囃された「村上某氏」や「堀江某氏」は、被告人として世間に叩かれており、無期懲役の判決を下された「菅家某氏」に対しては、杜撰な裁判体制を大きく批判する報道がなされております。
しかし、オピニョンリーダーとして世論を喚起してきた「マスコミ」の謝罪や反省の弁は一切聞いたことがないような気がするのですが…。
小さな窓から世間を眺めていても、限定された風景しか見ることができませんが、少々窓を広げてみたとしても、所詮一方的に流される情報から正確な事実をつかむなどということは、無理な世の中なのかも知れません。
           
この秋に山で見つけた「どんぐり」で、『弥次郎兵衛』を作ってみました。今夜のおかずは、「どんぐり」だけで育てたという「イベリコ豚」のメンチカツ。「どんぐりだけで…」この辺のくだりの謳い文句が、広告としては眉唾ではなかろうか…などと思いつつ、美味しくいただきました。
子どもの頃「どんぐり」は、戦争ごっこの武器でありましたが、食えないと教え込まれておりますので、きっと苦い(渋い)のだろうという思いで、頭は固まっております。私たちが「カブトムシ」を取るために大切にしていた「クヌギ」の木は、今思うに「コナラ」の木であり、本物の大きく丸い「クヌギ」のどんぐりを拾ってきた友人が、英雄に見えたものでした。
昔はキリで慎重に穴を開けてもらったものですが、今や電気ドリルで難なく心棒用の穴を貫通させることができます。ロウソクの火にかざしながら、竹ひごを曲げていきますが、子どもの頃は、火に近づけ過ぎて良く焼き切ってしまったものです。微妙なバランスを保たせながら『弥次郎兵衛』の完成であります。
『弥次郎兵衛』の台座は、先週土曜日の産業まつりで購入したキャンドルスタンドであります。「養護施設の子どもたちの作品」でありますが、素焼きの色と桜の花びら、形に惚れ込んで買ってしまいました。「養護施設」とわざわざカッコ書きしましたのは、どうも私の深層心理には上からの目線があるようで…「何かを買ってやらなければ」的な気持ちが見え隠れします。こうした上から目線で購入したものは、失礼ながら、最終的にゴミと化してしまいます。したがって、同情的な気持ちを排し、純粋に必要な、商品として価値があると判断したものしか買わないという厳しい目で商品を見るように心掛けておりますが、気持は『弥次郎兵衛』のように微妙なバランスの中で立っていることも事実であります。
純粋にと言いつつ、心の錆が出る瞬間であります。
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目の上のタンコブ

2009-10-22 20:54:30 | いろはかるた

「夢屋いろはカルタ」は、40日目…『め』
江戸カルタでは「目の上のたんこぶ」、とにかく気に障るものや邪魔になるものの例えであります。しかし、一般的には職場の上司や先輩、親を指す場合が一般的ではないでしょうか。
「こぶ」から連想するのは、昔話の「こぶとりじいさん」でしょうか…。木の洞で眠っている内に夜も更け、鬼の宴会で得意な踊りを披露する。次の日の晩も踊ることを約束させられた「じいさん」は、約束の証として「こぶ」を取られてしまう(取っていただく)ことになる訳ですが、昔話には必ず教訓のためのオチや相反する行動を取る「悪者」が存在し、根性の悪いとなりのじいさんが、下手な踊りを代わりに披露して、余計なこぶを付けられてしまうというお話でした。
しかし、よく考えてみますと、こぶを付けられてしまったこの「じいさん」の罪は一体何だったんだろう?「自分も邪魔なこぶを取ってもらおう」という心理は、「根性の悪さ」から来るものでもなく、自然な発想と思われるのですが、幸と不幸を分けたものは、踊りが上手かったか下手だったかということ位にしか思えません。「安易な人真似は宜しくない。芸は身を助ける。」この辺りが話の落とし所かと思われますが…。
           
職場の裏庭の置き石に出来た水溜りの「おたまちゃん」たちは、遂にこの一匹だけになってしまいました。季節はずれのアバンチュールは、秋深まるこの季節にまだ、尾っぽを付けたままの「おたまちゃん」を残す結果となりました。彼女の兄弟たちは、鳥に啄ばまれたのか自然死なのか、次々に姿を消していきましたが、彼女だけはこうして手足が分化し、頭もカエル独特の角ばった形に変化してきました。煙草を吸いに裏庭に逃げ込むオヤジたちのアイドルは、このまま成長し、来春を迎えることができるのでしょうか?「煙草を吸う野蛮な」オヤジたちの心にも、「おたまちゃん」の成長を願うなどという良心とやさしさは残っているようであります。
           
裏庭に訪れる「ベニシジミ」でさえ、翅を広げて、お日様の暖かさを精一杯身体に蓄えようとしている季節。「おたまちゃん」の巣立ちを心待ちにしているのですが、おや、本日のお題は「目の上のたんこぶ」でした。「こぶとりじいさん」の話に話題を振りながら、『こぶとり』を文字変換しておりましたら、『小太りじいさん』と変換されてしまいました。現代の「こぶとりじいさん」は、踊りとカラオケ大好きな「小太りじいさん」ということになるのでしょうか…^^;
お腹に貯めた「こぶ」を取ってくれる鬼は、どこかにいないものでしょうか?

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