その日暮らし

田舎に暮らすこの虫は「カネ、カネ、カネ」と鳴くという。

雲と自由が棲むという里で百姓に成りきれるかな?

夢屋王国(古老の思い出5)

2011-09-16 04:25:29 | 夢屋王国

昼休みの散歩コースである「大沢山」の山道にイタドリの花が咲いていました。花というよりは「萼(がく)」だろうと思うのですが、それならイタドリにも実が着くのでしょうか?
27歳の時、私の祖母は亡くなりました。親父の涙は、一度しか見たことが無いと言いましたが、実は、祖母が無くなって親父が仏壇に向かっているとき、微かに肩が震えていたこと、そして、棺桶が火葬場の炉に入れられるとき、親父が後ろを向いていたこと…人には涙を見せたことはありませんでしたが、涙を流していたようです。
姉夫婦と私たち夫婦にそれぞれ子ども(二姫)が授かり、親父がポツリと漏らした言葉「俺は、一生男の孫を抱けないようだ…。」男とは不思議なもので、会話などしないくせに、男子の誕生を待っている。跡継ぎなどという言葉は、今時流行らないのだけれども、どこかで『位牌持ち』の誕生を待っているのであります。
3年後、長男『ポン太郎君』が生まれた時の喜びようは尋常ではありませんでした。それまで、食べた食器すら片付けたことの無い親父が、オシメの交換をし、オンブして寝かしつける。長女・二女には一切手を掛けたことが無かったのに、そんな姿は子煩悩なオジイちゃんという評価を得るようになったのであります^^;

その長男『ポン太郎君』の大学進学が決まり、神奈川県に引っ越してから、急激に親父の体調が崩れていくのであります。リュウマチ性肺炎…主治医から忠告は受けておりましたが、間質性肺炎が一気に進行するとは私も想定外のことでありました。一旦退院は出来たものの、82歳の年齢には堪えたようであり、さらに、ボケが進行しはじめました。
痴呆症というよりは、簡単な物忘れなのでありますが、漢字が思い出せない、人の名前が出て来ないなどと悩むようになりました。しかし、彼にしてみれば、痴呆症の進行する妻がいて、自分自身も痴呆症が進行すれば、私たち夫婦に多大な心労を与える…そのことだけを心配していたようであります。お盆を自宅で過ごしたものの、再入院。

その時の親父の肺は、真っ白に変化しておりました。「俺が死んだら、妻の年金は下がるのか?」「綾子(従妹)が最後のお別れに来たようだ。」「俺の貯金は、ここに仕舞ってあるから、こういうふうに使ってくれ…。」
体調は快方に向かっているはずなのに、亡くなる1週間ほど前から不吉なことばかり口走るようになりました。
「明日から、大部屋に移れるそうだ。」
「それは、体調が良くなった証拠だよ。」
そんな会話をした帰り際の背中越しに、彼が「お前だけは、無理すんなよ。」と掛けてくれた言葉が、私が聞いた最後の親父の言葉になってしまいました。実は、帰り際、ナースステーションに寄って、親父が個室から大部屋に移る予定があるかどうかを確認したのでありますが、そんな予定はないと強く否定されたのであります。ボケ症状を心配する親父にこのことを伝えるべきか、このまま帰るか、散々悩んだ挙句、私は伝えないことを選んでしまいました。
翌日、硬直した親父を自分自身が発見することになるだろうとは思いもせずに…。
男の親子は会話が無い…しかし、古老が亡くなる半年間は、今までの不足を補うように会話をしたような気がします。腕相撲の勝利で親父を乗り越えたと思ってから37年目、親父は水田反収14俵という、新たな課題を息子に残して、余りにも潔く、この世を去ってしまったのであります。
(終わり)

コメント (2)
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