山の記憶 (百名山・二百名山・三百名山)

山スキー、その他の山行もあります。

四国八十八ヶ所札所めぐりを振り返って(その3) 

2021年02月04日 | ちょっとそこまで

各お寺さんのご本尊は、お寺によって違う。同じ宗派なのだからご本尊も同じでなけねばいけないような気がします。確かに弘法大師は、真言宗のお寺には必ずおられる。しかし、ご本尊となるとそれぞれ異なるのは気になる。

 いっそ仏教だから、お釈迦様をご本尊にすれば良さそうにおもうのだが・・・・。真言宗では、お釈迦様は釈迦如来として祀られているが、意外と少ない。真言密教では、ご本尊は大日如来ということになっていて、釈迦は大日如来が地上に姿を現したもの、いわゆる化身という考え方のようです。

 釈迦の教えは、数百年後大きく二つの潮流となり、一つの流れが中国経由で日本にやってきたいわゆる大乗仏教。この教えは、表面的には釈迦の教えを基本としてはいるが、実際は違う。仏教学者の中村元さんは、その著書の中で、このことを指摘しておられます。大乗仏教、特に真言宗は仏教ではあるが釈迦仏教にあらず、異質のものであるとする考え方を時々目にすることがあります。インドで誕生した仏教は、現在インドでは廃れてしまい、仏教以前の過去の教えであったバラモン教に先祖帰りした感があります。密教の儀式は、バラモン教の儀式とよく似ているようです。

 バラモン教では、ブラフマンという絶対的な存在(神?)があり、人が誕生するときにこのブラフマンの一部(アートマン)が体に宿り、死ぬとまた元のブラフマンに帰ると信じられています。釈迦が否定したのは、この構図、構造、その実態的なものなどでそれが仏教という宗教となったという経緯があります。

 現在のインドの多くの人々は、死ねばまた元いた場所に帰れる(帰りたい)と信じているとある本で読んだ記憶があります。生まれ変わりの思想も、こんな考え方の中から生まれてくるようです。

 日本でも似たような考え方の宗教がある。それは、浄土系の教えだけれど、この教えは、「死ねば阿弥陀様の元にいける、いわゆる往生して仏となれる」という信仰だ。浄土系の信者は、日本で一番多いとされているから、考えようによっては日本もインドもそう違わない。

 昨日4日、初めて中村元記念館にいった。同じ島根県にいながらいくことがなかった。場所は八束町で、いわゆる大根島の支所の2階にある。静かな環境で落ち着いた感じがする。一見図書館のようだが、本の貸し出しはないかわりに読書室がある。

 職員(?)の方が2名でおられたが、客は一人もいなかった。さすがに仏経関係の資料・書籍は多く圧倒された。今後しばらく通うことになるかもしれない。

 

                                                 (その3)

 

                   

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