山の記憶 (百名山・二百名山・三百名山)

山スキー、その他の山行もあります。

礼文・利尻そして早池峰(その6)

2018年08月30日 | ぶらり

 利尻鴛泊港から稚内に向かう。船を待つ間、港のまわりを歩いて見る。ペシ岬は、此の港を見下ろすかのようにどっしりとしている。ここに登れば、出船入り船の向こうに稚内方面が見えるはずだ。夏なら、灯台の下で一夜を過ごすのも良いかもしれない。日頃見られない風景(夜景)が期待できるだろう。

 ペシ岬の根っこあたりに、3年前までは1軒の喫茶店があった。プロの写真家の方が喫茶店を経営しながら写真活動をしておられた。樺太の写真を見せてもらった。しかし、昨年訪れた時、店は閉じられていていた。隙間から中をのぞいたが、ガランとして何か漁具のようなものがおいてあった。元々は、東京あたりの方のようだったが、どうされたのだろうか?                           

                                          ペシ岬

                             

 港のあちこちにあるちょっとした空き地や隘路には、花が咲いている。あまり注意されそうにないようだが、よく見ると意外と絵(写真)になる。

                            

 自転車を船に押し込み、稚内へ。ひさしぶりに我が車に戻る。これで一応この度の北海道は終わったが、せっかくなのですこし寄り道をする。まず、稚内にある樺太記念館へ。

                                                   

                           

  稚内には、樺太からの引き揚げ者が多いのだろう。それにしても、樺太のことはあまり知られていないのが現状ではないか。沖縄ほどのたたかいはなかっただろうが、大勢の人々が戦争の犠牲になっているのは事実だ。いま、かって樺太が日本領土だったことを知っている人がどれくらいいるのだろう。

 樺太へは、あの宮沢賢治も訪れている。写真にあるような汽車を見て、物語のヒントを得たというようなことが書いてあった。また、昭和の大横綱大鵬はここで生まれ、終戦に伴い奇跡的に北海道にたどり着いている。撃沈された引き揚げ船を、途中で下りたため助かった。父親は、白系ロシア人だが、この人達はロシア革命の折、祖国を離れた人々のことで、後にロシアに帰ってきてからレッテルを貼られて隔離され続けた人々だそうです。大鵬は、父親と引き離されて日本へ帰り、後に角界に入り活躍するが、父親とは会えずじまいだったようです。ただ、消息は知れたらしく、現在で父親の関係した地に大鵬の記念碑が建っているようだ。

 この後、宗谷岬を回り猿払の道の駅に泊まる。

                                       道の駅とキャンプ場

              

 道路を隔てて、記念碑が建っていた。

                                        松浦武四郎 宿営の地(後ろの海はオホーツク)

                       

  翌朝、「道の駅天塩」周辺をぶらつき、サロベツ原野をのぞいて「道の駅石狩」へ。

 

  

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