暘州通信

日本の山車

◆01339 楢泉庵 横山家 11

2016年03月06日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 11

琴高臺 本町
貫名海屋と琴高臺
儒者として、書画家として名高く、ことにその書は江戸時代の三筆といわれ能書で知られる。阿波徳島の人で、本名は吉井氏。画ははじめ藩の絵師、矢野典博に狩野派を習ったが後に南画に転じた。書はおなじ徳島の西宣行について宗法を学んだが、成長するに従い自分が武士として不適なのを悟り僧となることとした。叔父を頼って高野山に行き、そこで空海の古法帳を臨摸して書家としての腕を磨いた。その後中井竹山の「懐徳書院」に入りのちには塾頭まで進んだ。この懐徳書院は片山北海一派の「混沌社」とともに、当時大坂における二大学派の一つであった。
このころ伊丹郷町より懐徳書院に学ぶ人が多く、加勢屋七兵衛、紙屋七郎右衛門、岡田著斎らがあった。この懐徳書院の門人に岡田著斎があったことがのちの谷口與鹿の後半生に大きな関わりを持ってくる。岡田著斎は通称を鹿島屋利兵衛といい、岡田糠人の父である。酒蔵業を営むかたわら学び、懐徳書院では三ツ村崑山ともっとも親しかった。 著斎は中井履軒の薫陶を受け、その著述である「七経孟子逢原」三十冊を模写した物が今に伝わる。與鹿はまたこれを借りて模写したのである。文政八年(一八二二)十月十五日に死去した。中井履軒は晩年幽人と号し、宗学を修めたが文化十四年(一八一七)八六歳で死去した。履軒は甥の蕉園(中井竹山の子)とともにしばしば伊丹に遊んだ。
 海屋は四国、中国から九州を歴遊したが、長崎では僧鉄翁らと交友があった。
その後東海道から中仙道を漫遊して江戸に出たが、天保八年(一八三七)に高山に入り翌九年(一八三八)までおよそ一年間滯在した。
 海屋の作品は飛騨地方に数多く残されているが、その多くは新装なった赤田誠修館に滞在した。 海屋の滯在の足を長引かせたのは、本町一丁目に建造中の「琴高臺」であった。
 海屋は高山滞在中に松倉山東中腹にある寥郭堂にあそび、漢詩を残している。
 琴高臺は旧臺名を「布袋」といい、文化四年まで曳いた。そのあと改造されて、琴高臺と名を変えた。命名は赤田牛だったが、じつは富山県の八尾に琴高臺があったことからそれ以上の屋臺を建造しようという意欲があった。
 天保九年(一八三八)春の山王祭りにめでたく竣工して曳かれたが、この年の屋臺曳順は記録によると、
番外 神樂臺
 一 三番臾
 二 太平樂
 三 黄龍臺
 四 五臺山
 五 大國臺
 六 龍神臺
 七 殺生石
 八 石橋臺
 九 崑崗臺
 十 琴高臺
十一 南車臺
十二 鳳凰臺
十三 黄鶴臺
十四 麒麟臺
宮本 青龍臺
 の十六臺総揃いで、高山の町は大火、大飢饉をわずか数年で立ち直り、
見事な復興をなしたのだった。 いまはこのうちの何臺かは失われ、この豪華な曳き揃えを見ることは出来ない。 琴高臺の臺名は、中国の「列仙伝」にある琴高仙人の名を取ったもので、琴高は趙の国の人であった、宗の康王に仕えていたが、河北から山西地方を二百年にわたって放浪し、ある日祭壇を設けて潔斎し「龍の子をとってくる」といって水に潜っていった。
皆は水辺で待ったが、果たして約束の日が来ると赤いおおきな鯉に乗って帰ってきた。皆は驚いたが、琴高はそのまま祀堂にすわったまま一ヶ月、ふたたび水に戻っていったという。布袋から琴高臺に改称されたのは、文化十二年(一八一五)のことで、二十四年を経た天保九年(一八三八)ようやく名実備わった優美な姿を現したのだった。
設計、彫刻、鯉の作品いずれも谷口與鹿。大幕は與鹿の下絵をもとに藤井孫兵衛が画き、新宮豊次郎が刺繍をした。
 與鹿の生家があった同じ組の屋臺で、このとき與鹿は十七歳であった。
 この屋臺の学術考証は、二代目誠修館二代目の赤田章斎、意匠、工匠技術は中川吉兵衛が指導した。
この年海屋は六十一歳であった。飛騨の匠の技に驚嘆し、京都に帰ってからもその強い印象を人に語った。
この海屋の来飛は、のち谷口與鹿の運命を決めることになる。 
□汎論
 岐阜県高山市は、いまでも旧国名の「飛騨」をつけて「飛騨高山」とよばれることが多い。「飛騨」の語義は不明とされるが、古い表記は「斐太」である。島根県の簸川、関東に多く見られる氷川などに通じる「ヒ」の國で、茨城県の常陸、大分県の日田、宮崎県の日向(ひゅうが)などに通じる。新潟県には斐太と斐太神社がある。奈良県には、滋賀県には「飛騨」の地名がある。「ヒ」は古代出雲系氏族にちなむと考えられる。
 熊本県も噴煙をあげる阿蘇にちなんで「火の國」とよばれるが、こちらは「ヒの国」ではない。
 高山は左甚五郎に代表される名工、「斐太の工」でよく知られるが、その系譜には謎が多い。全国には斐太の工が建立した神社、仏閣、また彫刻にも優れたものが多く残るが、これらは斐太の工が各地を遊行移動しながら建立したものが多い。また、江戸の蔵前、難波の天満、京都の二条などに出先を構えて、社寺建築受注の出張所がおかれていた。しかし、普通は半農、半工の暮らしだったようである。
 春の高山祭は、旧山王祭である。明治の以後は日枝神社と改称されたが、祭はいまでも「山王祭」とよばれており、東京の日枝神社の祭を「山王祭」とよぶように、定着した呼称には愛着と伝統がある。高山祭の山車は夙に有名であるが、その淵源は、豊臣秀吉の死去七年目の慶長九年(一六〇四)八月十二日より十八日までに齋行された、「豐国大明神臨時祭禮」に遡る。
 豐国大明神臨時祭禮には、長らく豊臣秀吉とともにあった「金森氏」の、長近(ながちか)、可重(ありしげ)親子が、奉行として加わり、臨時祭禮の終了後に拝領した品々を領国飛騨高山に伝え、町衆が高山の鎮守とした山王宮の祭禮にこれら拝領品を用いた祭が行われた。これが春の高山祭「山王祭」の濫觴である。
 春の高山祭「山王祭」で曳かれる山車「屋臺」は、
・樂臺 上一之町上組の歴史は、太鼓臺にはじまり、あらゆる山車(屋臺)に先行する 。現在の形態は露臺式で、御神幸の獅子舞の演奏を行う。厳密に言えば山車でも、屋臺でもない。
・三番叟 上一之町中組は二層の上臺前部に張り出された機関樋のうえで、機巧人形によ る三番叟で、鈴の段、黒き翁が演じられる。三番叟人形は神の依代である。
・麒麟臺 上一之町下組。
・石橋臺 上二之町、神明町は、ながらく休止していた機巧人形による獅子舞が近年復活 した。
・五臺山 上二之町中組は、江戸時代に中国の故事、「邯鄲(かんたん)」にちなみ、盧 生が能楽の「邯鄲」にあわせて舞う機巧人形戯があったと伝えられる。
・鳳凰臺 上二之町下組は、高山の山車(屋臺)のうちでも京都祇園祭の鉾に似ており真 木を高く上に鉾をたてていたが、現在は短くなっている。下部を「網かくし」で覆う。・惠比壽臺 上三之町。
・龍神臺 上三之町中組には、もと八幡祭の旧山車大八臺より、人形「猩々」を譲り受け 、のちに機巧を行う屋臺となった。機巧人形猩々(龍神)が依代となっている。
・崑崗臺 片原町は上臺で林和靖(りんなせい)と唐子の機巧戯をおこなう山車(屋臺) だったが現在は休止している。林和靖と唐子が依代である。
・大國臺は、上臺の俵の上に本座人形、大國主命がのる。
・青龍臺は、江戸時代に「娘道成寺」が演じられていて、狂言の役者が依代だったことが ある。
・琴高臺 本町一丁目。
 樂臺以外、山車(屋臺)と日枝神社には関連がない。
建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料

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