◇33920 願人踊
秋田県八郎潟町
京都の六波羅蜜寺(西光寺)は空也上人の開基と伝えられ、運慶四男の康勝作といわれる空也像がある。俗に「食うや食わず空也上人」などといわれるが。平安時代、胸に小鉦子をかけ、愛していた鹿を殺された悲しみで、その鹿角を杖頭につけ、朝には命あることを喜び、夕べには死期の近づいたことに感謝し、念仏を唱えて各地を遍歴したと伝えられる、その声明は唱える声は仏になって立ち上ったという。踊念仏、六斎念仏の開祖といわれる。
京都市中京区蛸薬師通堀川東入る亀屋町にある「空也堂(極楽院)」も空也上人の開基とされ、この地は六斎念仏発祥の地とされている。京都の町中を、念仏を唱え、鉦子や太鼓を叩いて、踊り念仏を唱えたのが六斎念仏のはじまりだといわれる。六斎念仏は、江戸時代には念仏踊を中心とする従来の六斎念仏から発展したもののほかに、浄瑠璃等を取り入れて、風流化した「芸能六斎念仏」が登場した。
現在は、この空也堂と光福寺(京都市左京区)の二流に分かれて伝わる。
念仏踊は、踊手と歌い手が分かれて演じられ前者の念仏を唱えながら踊る踊念仏と区別されている。念仏踊は、菅原道真が讃岐国司だったころ行った「雨乞踊」が起源とされう。さらにこれが、
「念仏踊」になったのは、法然上人が讃岐に流されたとき、この踊を見て台詞を念仏に変えた
「念仏」を唱える踊りをはじめたことによるとされていて、香川県綾歌郡綾川町滝宮では「滝宮の念仏踊」が行なわれている。いまも全国に残る「念仏踊」の起源とされる。
願人踊りは富山県の小矢部市、おなじ富山県の大沢野町(現在富山市)につたわり、大沢の町では山車が曳かれる。
さて、八郎潟町の願人踊であるが、こちらは「願人坊主」によりおこなわれてきたとの伝承がある。願人坊主とは、依頼人に代わり、神仏への代参や代垢離をしていたひとたちのことで、この集
団はのちに僧体お門付芸人にもなっていった。藤沢派(羽黒派)と鞍馬派の二派に分かれていたといわれる、門付藝の演目は、願人踊、阿呆陀羅経、ちょぼくれ、ちょんがれなどで、俗曲のかっぽれや浪花節などにまで及んだといわれる。歌舞伎舞踊の長唄「まかしょ」、清元「浮かれ坊主」などにも影響を及ぼしている。
八郎潟町に願人踊が伝わったのは江戸時代初期と推定されている。五月上旬、市神社祭で奉納踊を演じた後に各家々を門付けして回り、町流しの門付では、願人踊の途中で、仮名手本忠臣蔵五段目の山伏「定九郎」と爺ちゃ「与一兵衛」のかけあいなどの寸劇が披露されで観衆から喝采の声が上がる。
この門付藝の願人は紫の頭巾をかぶり、傘鉾を奉持する。
八郎潟町の願人踊は三重県方面からの伊勢音頭の系統を引くと言う解説がある。平安時代に起源を持つと言われる六斎念仏、念仏踊、風流などの要素が入っているように思われる。
秋田県八郎潟町
京都の六波羅蜜寺(西光寺)は空也上人の開基と伝えられ、運慶四男の康勝作といわれる空也像がある。俗に「食うや食わず空也上人」などといわれるが。平安時代、胸に小鉦子をかけ、愛していた鹿を殺された悲しみで、その鹿角を杖頭につけ、朝には命あることを喜び、夕べには死期の近づいたことに感謝し、念仏を唱えて各地を遍歴したと伝えられる、その声明は唱える声は仏になって立ち上ったという。踊念仏、六斎念仏の開祖といわれる。
京都市中京区蛸薬師通堀川東入る亀屋町にある「空也堂(極楽院)」も空也上人の開基とされ、この地は六斎念仏発祥の地とされている。京都の町中を、念仏を唱え、鉦子や太鼓を叩いて、踊り念仏を唱えたのが六斎念仏のはじまりだといわれる。六斎念仏は、江戸時代には念仏踊を中心とする従来の六斎念仏から発展したもののほかに、浄瑠璃等を取り入れて、風流化した「芸能六斎念仏」が登場した。
現在は、この空也堂と光福寺(京都市左京区)の二流に分かれて伝わる。
念仏踊は、踊手と歌い手が分かれて演じられ前者の念仏を唱えながら踊る踊念仏と区別されている。念仏踊は、菅原道真が讃岐国司だったころ行った「雨乞踊」が起源とされう。さらにこれが、
「念仏踊」になったのは、法然上人が讃岐に流されたとき、この踊を見て台詞を念仏に変えた
「念仏」を唱える踊りをはじめたことによるとされていて、香川県綾歌郡綾川町滝宮では「滝宮の念仏踊」が行なわれている。いまも全国に残る「念仏踊」の起源とされる。
願人踊りは富山県の小矢部市、おなじ富山県の大沢野町(現在富山市)につたわり、大沢の町では山車が曳かれる。
さて、八郎潟町の願人踊であるが、こちらは「願人坊主」によりおこなわれてきたとの伝承がある。願人坊主とは、依頼人に代わり、神仏への代参や代垢離をしていたひとたちのことで、この集
団はのちに僧体お門付芸人にもなっていった。藤沢派(羽黒派)と鞍馬派の二派に分かれていたといわれる、門付藝の演目は、願人踊、阿呆陀羅経、ちょぼくれ、ちょんがれなどで、俗曲のかっぽれや浪花節などにまで及んだといわれる。歌舞伎舞踊の長唄「まかしょ」、清元「浮かれ坊主」などにも影響を及ぼしている。
八郎潟町に願人踊が伝わったのは江戸時代初期と推定されている。五月上旬、市神社祭で奉納踊を演じた後に各家々を門付けして回り、町流しの門付では、願人踊の途中で、仮名手本忠臣蔵五段目の山伏「定九郎」と爺ちゃ「与一兵衛」のかけあいなどの寸劇が披露されで観衆から喝采の声が上がる。
この門付藝の願人は紫の頭巾をかぶり、傘鉾を奉持する。
八郎潟町の願人踊は三重県方面からの伊勢音頭の系統を引くと言う解説がある。平安時代に起源を持つと言われる六斎念仏、念仏踊、風流などの要素が入っているように思われる。
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