暘州通信

日本の山車

◆01339 楢泉菴 横山家 44

2016年07月01日 | 日本の山車
  ◆藤本鐵石と楢泉菴 横山家

 藤本鐵石は、文化一三年(一八一六)生ー文久三年(一八六三)歿。諱は真金、字は鑄公、通称を学治、津之助といった。画号として、鉄石、鐡寒士、都門、売菜翁、吉備中山人などを用いている。
 備前国御野郡東川原村(現、岡山市)の出身で、二四歳のとき岡山藩を脱藩したあと、現在の、山形県、東京都、神奈川県、富山県、 石川県、福井県、 岐阜県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県、 京都府、大阪府、兵庫県、 奈良県、 和歌山県、鳥取県、 島根県、岡山県、 広島県、山口県、香川県、 徳島県、愛媛県、高知県、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県などひろく諸国を遊歴した。各地に遺墨がつたわる。
 楢泉菴 横山家とのかかわりについては、出羽庄内の斉藤家は、同家の清川八郎が、のちに、山岡鐡舟と深いかかわりが生じてくる。信州(長野県)小布施の高井家とは、九條家の御用を承っていた事情があり、九條実道孝氏より「務存精要」と書かれた書が下賜されている。九條道孝氏の節子氏は、大正天皇の皇后である。言い換えれば、昭和天皇の母方の祖父であり、今上天皇の曽祖父にあたる。
 藤本鐵石が、楢泉菴 横山家を訪問したのは、高井家の紹介だったのではないかと推察される。鐵石は、ここで山岡鐡舟と出会い、鐡舟は、飛騨郡代だった父親の小野朝右衛門の代参ということで、鐵石とともに伊勢詣での旅に出る。この道中、鐡舟は、鐵石の所持していた、【林子平】の著である『開國兵談』を借覧し、おおいに感ずるとこころがあったという。
 このあと、鐵石の紹介で、廣瀬淡窓の弟である【廣瀬旭荘】が、楢泉菴 横山家を訪ねることになる。
 旭荘は、万延元年に越中入りしたが、五十嵐篤好は金沢まで出向いて迎えた。旭荘は、篤好らから歓待され、高岡(現、高岡市)、新湊の放生津(現、射水市。氷見(現、氷見市)をめぐり、牧野村(現、富山県高岡市下牧野)の【東弘寺】で、『高柳山六勝』を作っている。
 船津朝浦(現、岐阜県飛騨市神岡町朝浦)の大森曲亭は、田中大秀の門人であるが、また、篤好の門人でもある。おそらく旭荘は、越中東街道を経て大森曲亭方に宿泊し、高山に至ったと推察される。

  横山家に到着した旭荘は、横山家の庵名を【楢泉菴(ゆうせんあん)】と名付けた。

 【天誅組義挙】は、江戸時代の終わりをつげ、やがて来る明治維新の黎明ともいえる義挙であった。孝明天皇の大和行幸にあわせて、天誅組は兵を挙げて五條代官所を襲撃、代官鈴木源内の首級をあげ、代官所に火を放った。ところが、孝明天皇は、奈良県と京都府の県境にある、笠置までは行幸あったものの、ここで、急遽、大和行きを中止されたことから、天誅組は宙に浮き、紀伊藩、津藩、彦根藩らに攻められ、義挙はあえなく潰え、兵士らは四散し、その総裁であった藤本鐵石は吉野の鷲家口(わしかぐち)で戦死。また、かつて浪速で、岡鹿門とともに、【雙松岡塾】を結成していた【松本奎堂】もそのあとを追ったのであった。



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