暘州通信

日本の山車

◆00160 浜松凧揚祭 三

2010年03月19日 | 日本の山車
◆00160 浜松凧揚祭 三
□汎論
 浜松祭には華美を尽くした山車(御殿屋臺)が百数十臺曳かれる。はじまりは、凧あげに使われる大凧をはこぶ臺車だったという。
 まさに風薫る五月、遠州灘に面した中島砂丘では壮大な凧揚げ合戦が行われる、六畳から十畳はあろうかという大凧をあげ、他の凧と競り合って綱を切る荒業が競われる、凧糸を切られた凧は、折からの風に乗って舞い上がる。過去には房総半島まで飛んだ例があるそうである。凧糸は太く丈夫なものを綯い(ない)、糸の縒り(より)には硝子を砕いて練りこむ秘術が使われたこともあったという。いまは不公平にならないように「浜松凧あげ会館」のなかで、専門職員が凧糸を製作している。
 凧あげは、神社に属しない民俗行事で、当然山車も神社に繋属しない。しかし、第十三区(ブロック)は、十月の蒲神明社の祭礼にも曳く。凧揚げの前夜は前夜祭が行われ、各所から山車(御殿屋臺)が続々と集まり、繁華街の鍛冶町あたりは大混雑となる。掛け声をかけあい、ラッパを吹き鳴らし、肩に手を置いた男女らが蛇行しながら威勢良く街を練る。参加町内が多いので十五区(ブロック)に分けられる。参加町内は江戸の火消組のように「町組、町印」を持つところが多い。
 山車は、浜松まつり会館にも新しく建造された御殿屋臺が展示されているが、次第に重層(二層式)大唐破風屋根の山車に移行している。当初の山車は、凧を積んで浜辺の砂丘まではこぶ無蓋の荷車形式だったと推定される。
言い伝えによると、大正期には床を張らない、屋臺の中に人が入って歩行する、いわゆる「底抜け屋臺」があったといわれ、花屋臺を
経て単層唐破風屋根の山車へと移行していったと考えられる。
 浜松の山車は戦後に建造あるいは改修されたものが多いが、西伊場組(西伊場町)の山車は戦前の作とされおそらく市内に現存する山車の中では一番古いと推定される。昭和二十年代にかけて、単層唐破風屋根の山車が建造されており、奴組(馬込町)の山車は、戦後でもっとも早い時期に建造された山車ではなかろうか。さ組(佐藤中町)の山車は、やはり単層大唐破風素木造の山車で、昭和二十八年の建造、工匠は愛知県豊川市の花田栄一の出造りだったという。彫刻は阿部豊雲である。
 浜松の山車の形が次第に整ってゆく過程で掛塚祭で曳かれている山車の工匠が参画したものがあるが、基底には掛塚(旧竜洋町)の形態が取り入れられていることも考えられよう。昭和三十年代に入り、次第に重層の豪華な山車が建造されるようになってきている。この傾向は、近隣の山車にも影響を与えており、水窪町、春野町、旧天竜市二俣祭の山車にも御殿屋臺が見られるようになっている。
新組(新町)の山車(御殿屋臺)は、昭和六十三年の建造で、三層大唐破風造りである。現在の山車は、良材を用いた緻密で精巧な造りのものが多くなっている。
 天狗連(千歳町)の山車は、昭和二十七年、高塚房太郎。彫刻は江坂鐘平、兵衛親子によるが、木組を三手先まで組む出組造りとなっていて腕の冴えを見せている。八幡組(八幡町)の山車(御殿屋臺)は桃山式重層大破風造りといわれ、工匠は高塚房太郎。彫刻は早瀬利三郎で、昭和三八年の建造とされるが、総漆塗山車なのが浜松では珍しい。


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