暘州通信

日本の山車

◆00561 三島神社祭

2010年04月17日 | 日本の山車
◆00561 三島神社祭
静岡県周智郡森町仲横町
三島神社
□祭は十一月上旬。
□山車(屋臺)
・水哉社 本町
現在の山車(屋臺)は、昭和五十五年の建造。工匠は太田昭夫。
彫刻は富山県南砺市(旧井波町)志村孝士。
創建は江戸時代。幕末文久三年の大喧嘩で廃臺となる。
明治二十四年に再建。
大正十一年建造の山車は、鳳雲社(大門)を経て菊川市(旧菊川町)へ。

・谷本社 城下
現在の山車は三代目か?
昭和五七年の建造。工匠は鈴木久一、戸塚由夫、岩本三郎。
彫刻は富山県南砺市(旧井波町)井波彫刻協同組合の中山亮策。
明治二十五年建造の山車(屋臺)は菊川町日之出一丁目に譲渡された。

・凱生社 天宮(あめのみや)
現在の山車は二代目か?
昭和十一年の建造。
工匠は鈴木久吉、松浦定吉、松浦寅次郎、山本一太郎。
彫刻は中山由太郎政勝。

・北街社 新町
現在の山車は四代目か?
工匠は寺田勝郎。
彫刻は富山県南砺市(旧井波町)の志村孝士。
嘉永年間建造の言い伝えがある山車は、菊川市伊達方を経由て菊川市(菊川町)堀の内東栄町に譲渡された。
明治二六年建造の山車(屋臺)は春野町熊切へ譲渡。
昭和四年建造の山車(屋臺)は若宮団地に譲渡。

・明開社 明治町
明治一八年に町が開かれた。
開町わずか四年後の明治二十二年に山車(屋臺)が創建される。
現在の山車は二代目か?
昭和九年の建造。
工匠は小栗富太郎、内藤新平他。
彫刻は早瀬利三郎。
漆塗は初代村松定助。

・比雲社 仲横町
山車の創建は、明治二二、三年頃と伝わり、現在も金守神社に保存されている。
現在の山車は二代目か?
平成五年の建造。工匠は森町栄町の山本建築。
彫刻は富山県南砺市(旧井波町)の井波彫刻協同組合。

・鳳雲社 大門
蓮華、西脇、西金屋、森山の四地区合わせて大門という。以前は延命寺の五地区を大門と称した。
平成元年一〇月製作。工匠は森下伸之。彫刻は吉江立最、早瀬宏。
先代は昭和五十五年本町より譲り受けたが平成元年に菊川市(旧菊川町)に譲渡されている。

・龍生社 西幸町
昭和四十八年に開かれた新しい町。
昭和五十五年の創建、工匠は小栗新太郎。
彫刻は早瀬宏。

・湧水社 南町
昭和五十九年に栄町より分離独立した。
昭和六十年の創建。工匠は寺田勝郎。
車工匠は村松利雄。
彫刻は富山県南砺市(旧井波町)の志村孝士。
漆塗は村松菊郎。

・睦栄社 戸綿
現在の山車は、昭和五十三年の建造。工匠は花島辰男。車工匠は村松利雄。彫刻は山田峨聖。
初代の山車は、大正十四年に下宿の山車を譲受けたが、車輪は仲横町から譲り受けたもの。菊川市(旧菊川町)の日吉町へ譲渡されている。

・藤雲社 栄町
昭和六十二年の建造。工匠は山本庄平、和夫親子。
彫刻は富山県南砺市(旧井波町)の志村孝士。
車は村松利雄。

・桑水社 下宿
現在の山車は三代目か?
大正十三年の建造。
工匠は松浦清太郎ほか七名による。
彫刻は宮本丹次。
昭和五十九年に大改修が行われている。工匠は山本庄平。
創建は江戸時代後期と伝わる。
明治初期に再建。

・沿海社 川原町
昭和二年の建造。
工匠は太田寅太郎、太田亮平、太田徳太郎他。
彫刻は早瀬利三郎。
漆塗は初代の松村定助。
昭和五十六年に大改修が行われた。工匠は山本庄平。
彫刻は富山県南砺市(旧井波町)の志村孝士、および中山亮策。
創建は明治十九年。

・慶雲社 向天
昭和六十一年の建造、工匠は鈴木弥平、芳彦、考治郎、敏広。
車は村松利雄。
彫刻は富山県南砺市(旧井波町)の志村孝士、および中山亮策。
漆塗は初代松村定助。
創建は昭和二年。飯田城北に譲渡された。
(順不同)

□汎論
 三島神社の創祀は遠州森の宮山にある三島神社。一説に、創祀は平安期頃まで遡るといわれるが詳細は不明。
 静岡県三島市の三嶋大社は、オオヤマツミノカミ(大山祇神)、コトシロヌシノカミ(事代主神)の二神を祭神として「三嶋大明神」と総称する。阿波神(三嶋明神の后)、伊古奈比命(三嶋明神の后)、楊原神が配祀されている。延喜式神名帳には名神大社と記載される古社。伊豆國一宮で、総社でもある。
 伊豫の大山祇神大社は、愛媛県越智郡大三島町三浦(宮浦)にあり、延喜式神名帳には名神大社と記載され、大山積神社、三島大明神、大三島神社などともよばれる古社。祭神はオオヤマツミノミコト(大山祗命)である。伊予國一宮である。
 オオヤマツミノミコト(大山祗命)は、アマテラスオオミカミ(天照大神)の兄にあたり、コノハナサクヤヒメ(木花咲耶媛)は、オオヤマツミノミコトの娘、姉にイワナガヒメがいる。コノハナサクヤヒメは、神話ではニニギノミコトの妃で、ホデリノミコト(海幸彦)と、ホスセリノミコト(山幸彦)の母とされている。
 静岡県三島市の三嶋大社と、伊豫の大山祇神大社は、その創祀について諸説があるが、筆者はオオヤマツミノカミ(大山祇神)は、古代の海神氏に近い「カモ氏(賀茂氏、加茂氏、鴨氏)が祀る神社として、カモ氏の名称が付けられた古い地はカモ氏系の三島神社が祀られたと推察する。祭祀の前後を考慮すれば、おそらく、伊予國の大山積神社が先であろう。

 遠州は広沢虎造の浪曲「清水次郎長列伝」なかでも「三〇石舟」はよく知られる。往年の人気者だった森の石松の出生地であり、静岡県には古い人ならよく知られた「遠州〇〇、伊豆◇◇」の俗諺がある。森祭は威勢のよい「遠州森の喧嘩祭」として名高い。
 森の三島神社は、森祭が行われる神社で、その所在地である宮山は、森町の地名のもとになっている。長い歴史を経て発展してきた森町は周辺各地にあった集落が統合され、祭も併合され、合同祭のようになっている。山車が曳かれるようになった歴史には不明なことが多いが、江戸時代文久三年の大喧嘩は今も語りつがれる喧嘩として知られる。このとき、本町の山車(屋臺)が大破した記録があり、幕末期には山車(屋臺)があったことは確かである。現在見られる森の山車は二輪、屋根のない露臺式の山車で上臺に人形が飾られる。前面は正面に御簾を懸けその周りを桁状笠木がのる框枠で囲まれる。框枠は素木、黒漆塗り、中には青貝の螺鈿研ぎ出しの優美なものもあり、左右には自慢の彫刻が立つ。
 喧嘩の多かった江戸末期から昭和中期ころまでは、山車も相当乱暴な曳き方をされてていたと推察されるが、近年は、きびしく規制されている。これにともない三社も次第に豪華賢覧に仕立てられるものが多くなり、一定の形式に集約されているようある。
 山車囃子は、地元の曲のほかに江戸の三社囃子の系統をお曳くものがある。半纏(法被)には、「吉原つなぎ」の紋様が見られ、ここにも静岡県各地に見られる江戸の祭の影響が及んでいる。
 神社では、舞児による「舞児還し」が行われる。舞楽を奉納する子供を「舞児(まいこ)」と呼び、毎年各町から一名が選ばれ、三島神社で舞楽を奉納する。舞児は祭の最終日は神社から自宅までの帰道を歩行
によらず若衆が屋臺と肩車で送る。京都祇園祭長刀鉾の稚児、北陸地方各地で行われる子供歌舞伎の役者とおなじように神格化した姿が見られる。
 取材に当たっては、地元の岩本氏のご好意にあずかった。誌して感謝の意を表し、厚くお礼申し上げる。

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