暘州通信

日本の山車

◆伊丹明倫堂

2005年12月23日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆伊丹明倫堂
 隠元が日本に来るにあたってはときの将軍の熱い帰依が有った
寺院を建立する場所を探していたところ、宇治に有る地に決まり、この地に黄檗宗の萬福寺を建てられることになった。
この地は近衛家の所領であったので、寺の代替地として伊丹が与えられた。
江戸時代になり各地に大名が所領する各藩が定まったが、この伊丹はそのまま公家の所領する「摂領」というめずらしい形態の町として発展していくが、この町が「伊丹郷町」現在の伊丹市である。
領主は近衛氏で、町内の経営は大名の国元家老に相当する年寄りによって運営されたしかし、伊丹が大きく飛躍したのは、摂領時代池田市から次第に移った酒造業の興隆である。
この伊丹郷町に学問所が設けられ「明倫堂」と名づけ、塾頭に迎えられたのが橋本香坡である。
香坡は上野国利根郡沼田(群馬県)の城下に文化六年(一八〇九)、二月、橋本紋右衛門の長男として生まれた。
幼名を圭太郎といった。通称は半助、大路ともいう。香坡、小梅道人、毛山、載盆子、適園、静庵などの号がある。
沼田(沼田市)は沼田盆地の高原の中に隆起した奥利根の入口にあたり、沼田台地に成立した城下町で、北は上越国境の谷川岳千ノ倉、万太郎。西は赤谷河、三国峠。東は赤木、武尊等の裾野が片品川の渓谷に沿う。
沼田は戦国時代武田、上杉、北條による覇権争奪の争いの場となった場所で、上杉謙信は沼田の地に陣を進め、ここで武田勢の上野進出を抑えた。その後、武田の幕下であった信州の真田氏に属し真田氏は自ら沼田に城を築き豊臣氏にしたがった。その後真田昌幸の子、信幸はこの沼田を領した。
 その後豊臣と徳川による争いに、信幸は徳川に属し、父の真田昌幸、兄の真田幸村は豊臣に従うことになり兄弟親子が敵味方に別れて戦う事になったのは戦国の習いとはい悲惨であった。よく知られるところである。
結果は豊味の敗北となり父の真田昌幸、兄の真田幸村は敗北し、滅亡した。
徳川氏についた真田信幸の妻は本多忠勝の娘であった。
寛文、元和のころ信利の代になってから改易となり、事実上真田家は滅亡した。天和元年のことである。
 高崎の安藤対馬の守により沼田城は破却されることになった。突然主を失った家臣たちはそれぞれ流浪のみとならねばならなかった。
それからのち二〇年。沼田は代官による支配下におかれていた。
 寛保2年になると土岐丹後の守頼実が駿河田中城主より領主として赴任して沼田城は再度建築することになり、以後明治維新までの一二七年の治世におよんだ。
 土岐家は美濃の土岐郡に始まるが徳川時代は譜代の臣であったが、封じられたときは沼田三万五千石というが本地沼田後は二万石である。河内(大阪府)と美作(岡山県)にに飛び地があり、あわせて一万五千石 河内は志貴永久替えの二郡、美作では湘南、あいだ、正保九の三郡で、この飛び地の管理を大阪に倉屋敷をおいておこなっていた。
香坡の父は頼順、頼功に主として仕えたが、香坡は頼寧、頼之の二代に仕えた。
頼実は正徳三年に家督をついで享保十三年寺社奉行となり十五年七月大坂城代になり、十九年六月には京都所司代に進んだ。
 橋本香坡の先祖との交渉はこの頼稔のとき京都所司代のとき仕官したときに始まる。寛保二年、老中に進んだときは駿河の国田中の城主であったが上州の沼田城に転封になったのに従い沼田にいたったものである。
大阪は飛び地一万五千石を管理する大切な場所であった。
土岐頼寧に信任の厚かった香坡の父にこの任が与えられた。出世である。
橋本家は元々関西の人で、「橋本氏家譜略記」によると、橋本家はその先祖をさかのぼると河内の国の人で、南北朝時代に楠公に仕え色々手柄があった。
いわゆる楠八進の一人だったという。
延元元年五月、楠正成は湊川の戦において戦死したが、このときやはり数々の戦功を立てながら戦死したのであった
その後世の中が落ち着いてからはその子孫は父祖の地である河内に住んだ。
やがて十三代のとき丹波篠山の観音寺に転居した。
橋本正一の母は、夫の清国の冥福を祈って一尼寺を建てて出家した。
国成という一子があり、父といっしょに湊川の戦いに参戦したが、父はここで河内に帰ることを命じた。
国成は苦戦の中、戦列を離れることを渋ったが、父より再度、この戦況を正成の子正行に知らせよと命じられ湊川をはなれたが、このときすでに楠正行もまた四条畷の戦いで戦死していたのであった。
 その後篠山において六代くらい続いたあと、京都にでて公家の広橋家に仕え、さらに土岐氏に仕えたのである。これが土岐家の臣となった始めである。 このときの土岐家の当主が頼実で、京都所司代の役目にあった。土岐氏はいうまでもなく美濃の出身である。 天文元年据え尾は大坂の倉屋敷に勤めていたが宝歴八年に沼田に移住し。、天明三年に辞職し、同六年八十四才で没した。墓は坊新田の量言寺に定めた。
これが橋本家の概略である。

 橋本家は大坂河内で楠氏に仕え、丹波篠山を経て京都に出、ここで土岐氏に仕えて沼田に移り、父の代になって大坂の地に戻ったのであった。
そのあと、香坡が十五歳のとき父にしたがい大阪堀川にある沼田藩邸に移り、ここで篠崎小竹門にはいって儒学を学ぶこととなったが英才で、四才子と言われるほど頭角をあらわし推されて伊丹の明倫堂塾頭をうけることにし、父母を伴って伊丹に居を移したのであった。

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