暘州通信

日本の山車

日本の山車 長野県総論 二 更新

2014年02月10日 | 日本の山車
日本の山車 長野県総論 二 更新

 【穂高神社】は、安曇野を開拓した海神族(綿津見氏)を祀る神社で、北アルプスの穂高岳を神南備山とし、上高地の明神池畔、安曇野の里宮にそれぞれ祀られる。海神族は、長崎県の対馬、壱岐、の【海神神社】、福岡県の【志賀海神社】など九州北部に起源を持つ氏族として知られるが、その先が不明で、西方よりの渡来説大陸からの渡来説、韓半島(朝鮮半島)からの渡来説ほかがある。海洋族として知られ、滋賀県の安曇川、安土、愛知県の渥美半島などは綿津見氏につながると考えられる。このほか【海部・かいふ、あま、あまべ】と名づけられた名称は、徳島県の【海部】、愛知県の【海部】などはいずれも海神族(綿津見氏)と深い関係が推察される。ほかにも海浮(かいふ)、養父(かいふ)などがあるが、こちらの関連性は不明である。
 長野県の海神族(綿津見氏)の定住した地の近くには、波多、和田の名称がつけられた地がある。和田峠、和田町(現長和町)、和田神社などはその例である。秦氏は韓半島(朝鮮半島)から渡来した新羅系(しらぎけい)氏族とされるが、海神族(綿津見氏)とは、いくつかの確執を経て講和し、出雲氏の成立へと進んだと推定される。
 仮説になるが、海神族(綿津見氏)が信濃入りした経路として、北九州、瀬戸内、紀伊半島を周り、伊勢湾、木曾川を遡上。木曾を経て松本平が考えられる。
 このあと、出雲氏は、日本海を沿岸部に沿って北上し、糸魚川、あるいは信濃川に沿って信濃入りしたと考えられる。
 安曇野市、松本市の【御船・おふね】とよばれる山車は海洋族である海神族(綿津見氏)と密接な関係がありそうである。
 長野県諏訪市四賀、長野県東筑摩郡の四賀村などの【四賀】は、福岡県の【志賀島】近畿地方の滋賀県の【滋賀】に共通する海神族(綿津見氏)ゆかりの地と考えられる。



日本の山車 長野県総論 更新

2014年02月10日 | 日本の山車
日本の山車 長野県総論 更新
 長野県は本州中部地方の中央に位置し、新潟県、富山県、岐阜県、愛知県、静岡県、山梨県、埼玉県、群馬県の八県と接する。一方海には接しない山国でもある。その面積は一三、五六二・二三キロ平方メートルと広大で、富山県の四、二四七・六二キロ平方メ-トルの約三倍強もある。長野県成立以前には、明治四年(一八七一)、府県統合により、伊那県、松本県、高島県、高遠県、飯田県、名古屋県の一部、高山県(飛騨)が合併し、筑摩県となり、さらに翌年の明治五年(一八七二)には、筑摩県が分割されて、高山県は岐阜県に編入された。
 長野県は、【北信】、【中信】、【東信】、【北信】と四大ブロックに分けて論じられることが多いが長い歴史の過程で形成された文化にも差異がある。このことは昭和二三年に、長野県を二つに分ける分県論が起き、県議会にかけられる議案となった。ところが議決寸前で県民の「信濃の国」大合唱により否決されたという話がよく知られるが事実ではないらしい。
 長野県が信濃國として長い歴史のなかでその地歩を維持できたのには、諏訪氏の存在が大きい。いわゆる古代の【國譲り】で、出雲氏は、大和朝廷より、日本の統治権の譲渡を迫られ、オオナムチノミコト(大己貴命)は不承ぶしょう承知したものの、園子、タケミナカタノミコト(建御名方命)はこれを聞き入れず反対したため、信濃一国に封じられることとなった。この結界を示すために四本の御柱をたてるようになったとする説があるが、認めがたい。
 御柱を立てる神社は、長野県を一歩出るとほとんど見ることはなく、山梨県、群馬県、鳥取県の智頭町、新潟県の新発田市などの数例が見られるに過ぎない。
 長野県の山車を論じるにはまずこの御柱を最初にあげなければならない。
 飯田市、南木曾には、山車に母衣をかけ、山車全体を一匹の獅子に見立てた山車が曳かれる。このような例は鹿児島県南部、茨城県の総社およびその周辺に知られる。著しい隔離分布をする。