論攷 斐太ノ工 九
「これは仮説である」
史実は措いておいて、古事記、日本書紀その他の諸説による通史によれば、皇紀は、西暦紀元前七一一年に生まれた神武天皇にはじまり、即位は西暦紀元前六六〇年二月十一日と比定され、二月十一日は、日本建国の記念日となっている。
イワレヒコ(磐余彦・いわれひこ)後のジンムテンノウ(神武天皇)は、四十五歳までは日向の高千穂にいたが、兄のイツセノミコト(五瀬命)らとともに船で東征することになった。高千穂を出立して日向から海路を筑紫の宇佐に向かい、速吸之門まで来たとき、宇佐津彦、宇佐津姫に招かれたが、このとき侍従の天種子命と宇佐津姫を娶わせ(結婚させて)ている。宇佐津彦、宇佐津姫の住まいを「宮」としているのは、このころはすでに宇佐は神宮であったことをうかがわせる。
筑紫国崗之水門を発ち、安芸国【埃宮】に到達した。埃宮とは【多家神社】だとされる。イワレヒコ(磐余彦)らは、安芸を発ち吉備国に入り、高島宮に行宮をつくって三年滞在したとされる。吉備の高島宮は、高嶋宮ともいうが、特定できず、岡山県岡山市南区宮浦の高島神社を有力な神社とされるものの 、ほかにも高島神社があり論社となっている。安芸、吉備いずれの国にもすでに神宮があった。
宇佐津姫はイワレヒコの軍勢に従っていたが安芸の国で死去している。儚い人生であった。
やがて吉備の国を出立し、浪速の国、茅渟の海にいたり、ここから河内国を大和川沿いに遡上し、龍田まで至ったが道が険阻で先に進めなかったとある。龍田まで至ればそこはもう大和盆地で先にすすめめないような
険阻な地ではない。おそらくここでも地元有力者らの強固な反撃に遇ったのであろう。
イワレヒコらはいったん兵を退き、生駒山の西麓を北に進み、生駒山を経て中州へ向かおうとしたが、ここで、迎え撃ったニギハヤヒ(饒速日命)、ナガスネヒコ(長髄彦)らの軍勢と孔舎衛坂(くさえざか)で激しい戦闘になり、この戦いでイワレヒコの兄、イツセノミコト(五瀬命)は重傷を負い、やむなくイワレヒコは茅渟の海まで兵を引き、ここからの上陸を断念して海路を南にとるが、イツセノミコトは受けた手傷が重く、紀伊国竃山で死去した。イワレヒコらはさらに南下し、熊野の地で陸に上がり、八咫烏の道案内で莵田の地に入った。大和に入るとふたたびナガスネヒコ(長髄彦)との戦闘になった。
戦はイワレヒコに不利であったが、たまたま現れた金色の鵄(とび)がイワレヒコの弓にとまったことから戦況がかわり、ナガスネヒコ(長髄彦)の妹であるミカシヤヒメ(御炊屋媛)を妻に迎えていたニギハヤヒノミコト(饒速日命)は、義兄であるナガスネヒコを殺してイワレヒコの軍門に下った。
□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
◇日本の山車 ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/ypjcd447/
◇日本の山車 ホームページ
http://hiyou.easy-magic.com/
◇八咫烏神社 2009.8.7
2010/2/8(月) 午後 2:10
... 秦氏、加茂氏と関わりの深い神社のようです。 【 日本 ... その後、ナガスネヒコと戦い、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)と戦いました。 そのさなか、イワレヒコより先に天降っていた天津神・邇芸速日命(ニギハヤヒ)が参上し ...
http://blogs.yahoo.co.jp/katukarei81/32198057.html
◇(ポタ)二色ノ浜から池上曾禰遺跡
2008/6/15(日) 午後 5:26
... おきながたらしひめ命(この4名は住吉神社と同じ神様) 神武東征の話です。 神武軍が大阪湾に上陸した時に「ニギハヤヒ」の部下の「ナガスネヒコ」の軍勢に襲われ 大和入りを拒まれます。 その時、神武「イワレヒコ」の兄の「イツセヒコ」が矢傷を負い ...
http://blogs.yahoo.co.jp/willow_wind202/55710004.html
◇日本の真実
2005/2/27(日) 午前 2:23
日本神話を歴史に書きかえれば以下の如し(神社傳承学より) 大陸より來た? スサノオノミコト ... そののち天照大神の孫のイワレヒコがスサノオノミコトの五男ニギハヤヒの娘 ... この時ニギハヤヒの妻の兄ナガスネヒコが猛反対して神武天皇一行が大きな災難を ...
http://blogs.yahoo.co.jp/asihippari/241234.html
「これは仮説である」
史実は措いておいて、古事記、日本書紀その他の諸説による通史によれば、皇紀は、西暦紀元前七一一年に生まれた神武天皇にはじまり、即位は西暦紀元前六六〇年二月十一日と比定され、二月十一日は、日本建国の記念日となっている。
イワレヒコ(磐余彦・いわれひこ)後のジンムテンノウ(神武天皇)は、四十五歳までは日向の高千穂にいたが、兄のイツセノミコト(五瀬命)らとともに船で東征することになった。高千穂を出立して日向から海路を筑紫の宇佐に向かい、速吸之門まで来たとき、宇佐津彦、宇佐津姫に招かれたが、このとき侍従の天種子命と宇佐津姫を娶わせ(結婚させて)ている。宇佐津彦、宇佐津姫の住まいを「宮」としているのは、このころはすでに宇佐は神宮であったことをうかがわせる。
筑紫国崗之水門を発ち、安芸国【埃宮】に到達した。埃宮とは【多家神社】だとされる。イワレヒコ(磐余彦)らは、安芸を発ち吉備国に入り、高島宮に行宮をつくって三年滞在したとされる。吉備の高島宮は、高嶋宮ともいうが、特定できず、岡山県岡山市南区宮浦の高島神社を有力な神社とされるものの 、ほかにも高島神社があり論社となっている。安芸、吉備いずれの国にもすでに神宮があった。
宇佐津姫はイワレヒコの軍勢に従っていたが安芸の国で死去している。儚い人生であった。
やがて吉備の国を出立し、浪速の国、茅渟の海にいたり、ここから河内国を大和川沿いに遡上し、龍田まで至ったが道が険阻で先に進めなかったとある。龍田まで至ればそこはもう大和盆地で先にすすめめないような
険阻な地ではない。おそらくここでも地元有力者らの強固な反撃に遇ったのであろう。
イワレヒコらはいったん兵を退き、生駒山の西麓を北に進み、生駒山を経て中州へ向かおうとしたが、ここで、迎え撃ったニギハヤヒ(饒速日命)、ナガスネヒコ(長髄彦)らの軍勢と孔舎衛坂(くさえざか)で激しい戦闘になり、この戦いでイワレヒコの兄、イツセノミコト(五瀬命)は重傷を負い、やむなくイワレヒコは茅渟の海まで兵を引き、ここからの上陸を断念して海路を南にとるが、イツセノミコトは受けた手傷が重く、紀伊国竃山で死去した。イワレヒコらはさらに南下し、熊野の地で陸に上がり、八咫烏の道案内で莵田の地に入った。大和に入るとふたたびナガスネヒコ(長髄彦)との戦闘になった。
戦はイワレヒコに不利であったが、たまたま現れた金色の鵄(とび)がイワレヒコの弓にとまったことから戦況がかわり、ナガスネヒコ(長髄彦)の妹であるミカシヤヒメ(御炊屋媛)を妻に迎えていたニギハヤヒノミコト(饒速日命)は、義兄であるナガスネヒコを殺してイワレヒコの軍門に下った。
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◇日本の山車 ブログ
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◇八咫烏神社 2009.8.7
2010/2/8(月) 午後 2:10
... 秦氏、加茂氏と関わりの深い神社のようです。 【 日本 ... その後、ナガスネヒコと戦い、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)と戦いました。 そのさなか、イワレヒコより先に天降っていた天津神・邇芸速日命(ニギハヤヒ)が参上し ...
http://blogs.yahoo.co.jp/katukarei81/32198057.html
◇(ポタ)二色ノ浜から池上曾禰遺跡
2008/6/15(日) 午後 5:26
... おきながたらしひめ命(この4名は住吉神社と同じ神様) 神武東征の話です。 神武軍が大阪湾に上陸した時に「ニギハヤヒ」の部下の「ナガスネヒコ」の軍勢に襲われ 大和入りを拒まれます。 その時、神武「イワレヒコ」の兄の「イツセヒコ」が矢傷を負い ...
http://blogs.yahoo.co.jp/willow_wind202/55710004.html
◇日本の真実
2005/2/27(日) 午前 2:23
日本神話を歴史に書きかえれば以下の如し(神社傳承学より) 大陸より來た? スサノオノミコト ... そののち天照大神の孫のイワレヒコがスサノオノミコトの五男ニギハヤヒの娘 ... この時ニギハヤヒの妻の兄ナガスネヒコが猛反対して神武天皇一行が大きな災難を ...
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