暘州通信

日本の山車

論攷 斐太ノ工 九

2010年04月29日 | 日本の山車
論攷 斐太ノ工 九

 「これは仮説である」
 史実は措いておいて、古事記、日本書紀その他の諸説による通史によれば、皇紀は、西暦紀元前七一一年に生まれた神武天皇にはじまり、即位は西暦紀元前六六〇年二月十一日と比定され、二月十一日は、日本建国の記念日となっている。
 イワレヒコ(磐余彦・いわれひこ)後のジンムテンノウ(神武天皇)は、四十五歳までは日向の高千穂にいたが、兄のイツセノミコト(五瀬命)らとともに船で東征することになった。高千穂を出立して日向から海路を筑紫の宇佐に向かい、速吸之門まで来たとき、宇佐津彦、宇佐津姫に招かれたが、このとき侍従の天種子命と宇佐津姫を娶わせ(結婚させて)ている。宇佐津彦、宇佐津姫の住まいを「宮」としているのは、このころはすでに宇佐は神宮であったことをうかがわせる。
 筑紫国崗之水門を発ち、安芸国【埃宮】に到達した。埃宮とは【多家神社】だとされる。イワレヒコ(磐余彦)らは、安芸を発ち吉備国に入り、高島宮に行宮をつくって三年滞在したとされる。吉備の高島宮は、高嶋宮ともいうが、特定できず、岡山県岡山市南区宮浦の高島神社を有力な神社とされるものの 、ほかにも高島神社があり論社となっている。安芸、吉備いずれの国にもすでに神宮があった。
 宇佐津姫はイワレヒコの軍勢に従っていたが安芸の国で死去している。儚い人生であった。
 やがて吉備の国を出立し、浪速の国、茅渟の海にいたり、ここから河内国を大和川沿いに遡上し、龍田まで至ったが道が険阻で先に進めなかったとある。龍田まで至ればそこはもう大和盆地で先にすすめめないような
険阻な地ではない。おそらくここでも地元有力者らの強固な反撃に遇ったのであろう。
 イワレヒコらはいったん兵を退き、生駒山の西麓を北に進み、生駒山を経て中州へ向かおうとしたが、ここで、迎え撃ったニギハヤヒ(饒速日命)、ナガスネヒコ(長髄彦)らの軍勢と孔舎衛坂(くさえざか)で激しい戦闘になり、この戦いでイワレヒコの兄、イツセノミコト(五瀬命)は重傷を負い、やむなくイワレヒコは茅渟の海まで兵を引き、ここからの上陸を断念して海路を南にとるが、イツセノミコトは受けた手傷が重く、紀伊国竃山で死去した。イワレヒコらはさらに南下し、熊野の地で陸に上がり、八咫烏の道案内で莵田の地に入った。大和に入るとふたたびナガスネヒコ(長髄彦)との戦闘になった。
 戦はイワレヒコに不利であったが、たまたま現れた金色の鵄(とび)がイワレヒコの弓にとまったことから戦況がかわり、ナガスネヒコ(長髄彦)の妹であるミカシヤヒメ(御炊屋媛)を妻に迎えていたニギハヤヒノミコト(饒速日命)は、義兄であるナガスネヒコを殺してイワレヒコの軍門に下った。

□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
◇日本の山車 ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/ypjcd447/
◇日本の山車 ホームページ
http://hiyou.easy-magic.com/

◇八咫烏神社    2009.8.7
2010/2/8(月) 午後 2:10
... 秦氏、加茂氏と関わりの深い神社のようです。           【 日本 ... その後、ナガスネヒコと戦い、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)と戦いました。  そのさなか、イワレヒコより先に天降っていた天津神・邇芸速日命(ニギハヤヒ)が参上し ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/katukarei81/32198057.html

◇(ポタ)二色ノ浜から池上曾禰遺跡
2008/6/15(日) 午後 5:26
... おきながたらしひめ命(この4名は住吉神社と同じ神様) 神武東征の話です。 神武軍が大阪湾に上陸した時に「ニギハヤヒ」の部下の「ナガスネヒコ」の軍勢に襲われ 大和入りを拒まれます。 その時、神武「イワレヒコ」の兄の「イツセヒコ」が矢傷を負い ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/willow_wind202/55710004.html

◇日本の真実
2005/2/27(日) 午前 2:23
日本神話を歴史に書きかえれば以下の如し(神社傳承学より)  大陸より來た? スサノオノミコト ... そののち天照大神の孫のイワレヒコがスサノオノミコトの五男ニギハヤヒの娘 ... この時ニギハヤヒの妻の兄ナガスネヒコが猛反対して神武天皇一行が大きな災難を ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/asihippari/241234.html

論攷 斐太ノ工 八

2010年04月29日 | 日本の山車
論攷 斐太ノ工 八

「これは仮説である」
 古代に祀られた日本の神を概観すると三氏族の祀神は共通点があるものの、氏族によりその祭祀と祭神の扱いに差異がある。
 海神氏が 祀ったと推定される神には、
志賀三神
 ウワツワタツミノノカミ 上津綿津見神
 ナカツワダツミノカミ 中津綿津見神
 ソコツワダツミノカミ 底津綿津見神
トヨタマヒメ 豊玉姫命
宗像三女神
 タゴリヒメカミ 田心姫神
 タギツヒメカミ 湍津姫
 イチキシマヒメカミ 市杵島姫神
アマテルカミ、オヒテルカミ(天□留神(□は文字なし、抵の右の旁)
ほかがある。福岡市東区三苫六丁目の【綿津見神社】には、本地佛として大日如来があるが、これは後祀であり、創祀時はアマテルカミ、オヒテルカミだったろうと推察される。兵庫県神戸市垂水区宮本町五-一にある【海神社】は延喜式神名帳に記載される古社内社(名神大社)であり、伊和神社、粒坐天照神社とともに播磨三大社に数えられているが、創祀には神功皇后が揚げられている。注目すべきは、祭神が海神三神である、ウワツワダツミノカミ(上津綿津見神)、ナjカツワダツミノカミ(中津綿津見神)、ソコツワダツミノカミ(底津綿津見神)であり、住吉三神の、ウワツツオノカミ(上筒男之神)、ナカツツオノカミ(中筒男之神)、ソコツツオノカミ(底筒男之神)ではなく、さらに古くは、あまじんじゃ、たるみじんじゃ、とよばれ、日向大明神の称号もあったといわれる。神功皇后の創祀よりさらに古い海神氏、あるいは一族である物部氏により祀られた神社だったかもしれない。
 京都府宮津市の【籠神社(このじんじゃ)】の祭神には、アマテルミタマノカミ(天照御魂神)アマテルクニテルヒコホアカリノミコト(天照国照彦火明命)、ニギハヤヒノミコト(饒速日命)の名がある。物部氏の創祀になる神社だったと推察される。また、宮津市からあまり遠くない、京都府加佐郡大江町には、皇大神社、通称「元伊勢神社内宮」、「元伊勢神社外宮」があり、内宮の祭神は、アマテラスオオミカミ(天照皇大神)となっている。三重県のお伊勢さん「伊勢神宮」の元伊勢の意味とされているが、大江町の伊勢神社の創祀は三重県の伊勢神宮の創祀より七十七年古く、元の祭神がアマテラスオオミカミ(天照皇大神)だったとは考えにくい。創祀時の祭神は籠じんじゃとおなじようにアマテルミタマノカミ(天照御魂神)アマテルクニテルヒコホアカリノミコト(天照国照彦火明命)、ニギハヤヒノミコト(饒速日命)などの祭神が祀られる物部氏の創祀になる古社だったと推定される。


枚聞神社のご祭神
2010/1/3(日) 午後 3:52
... 鹿児島県南九州市知覧町  豊玉姫神社   鹿児島県指宿市今和泉   豊玉媛神社 枚聞神社のご祭神が豊玉姫であるとする白尾国柱の考えはなかなか興味深い。豊玉姫は綿津見神の娘。山幸彦(火遠理命・天津日高日子穂穂手見命)の妻。 ...
三苫・綿津見神社/八大竜王神
2009/6/14(日) 午後 2:32
三苫・綿津見神社   鎮座地・筑前国糟屋郡三苫郷(福岡市東区三苫)  祭神  志賀三神 豊玉姫命   末社  竈門神社 須賀神社 黒津神社 稲荷神社 三寳大荒神社 若宮社 虚空蔵菩薩       大日如来  祭礼  元始祭 1月7日 祈年祭 ...
綿津見神社(三苫)
2009/3/18(水) 午後 6:13
次は、綿津見神社(三苫)に向かいます。 海沿いの農道をクネクネ行くと2分ほどで到着! 祭神は志賀三神(底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神)、豊玉姫命でした。 境内裏に回って階段を下りていくと、三苫海岸が眼前に広がりますヽ(^o^)丿 気になる ...
三苫・綿津見神社の巻一
2009/1/14(水) 午前 7:56
@  三苫海岸に面した丘陵に座す綿津見神社  ご祭神は       志賀三神 豊玉姫命 竈門神社 須賀神社       黒津神社 稲荷神社       三寳大荒神社 若宮社 虚空蔵菩薩 大日如来  境内に記された 「 鎮座由来 」 は以下  香椎 ...
三苫の綿津見神社
2008/12/9(火) 午前 11:55
昨日の八大龍王さんがいらっしゃる綿津見神社の本殿です。 昔は、神も仏も民衆にすれば同レベルでしょうから、救ってくれれば誰でもいいわけで。 明治政府が勝手に分けただけの話ですよね。 祭神は スサノオ 志賀三神(宗像三女) 宇迦之御魂 ...