暘州通信

日本の山車

論攷 斐太ノ工 二

2010年04月23日 | 日本の山車
論攷 斐太ノ工 二

 「斐太ノ工」の遠祖はどこまで遡れるか。これは政史からややそれるため、資料を渉猟してみてもはなはだ少ないことがわかる。日本史とは伝統的に皇国史をたててきており、国史の研究には、いま猶その傾向がつよい。史論はどのように立派な論をたてても、実証される史実が明らかになれば、一夜にして覆される。
 たとえば、大国主命と大物主の命は同じ神か、異神か。近年著名となった高松塚古墳の被葬者は、中国人か朝鮮人か、壁画の人物は中国か、朝鮮か。論議はいろいろなされても断定できない期間が長すぎる。つまり、わからないということだろう。
 また、「邪馬臺國」はどこにあったか。邪馬台国に関する研究書ははなはだ多いが、いまだに畿内か、九州かさへ不明のままである。研究が史論にまで昇華しない。卑弥呼を埋葬した墳墓が見つかれば実証され。どのような立派な考察や、論議も実証された結果の前には霧消することになる。
 ゆえに、歴史学者は臆病になる。もっと大胆な推理や、研究が出てきてもいいのではないだろうか。

 筆者は、【日本の山車】を考える上で、「これは仮説である」と前置きして、これまでも諸問題をとりあげてきた。このたびの「論攷 斐太ノ工」もその思惟と思想の延長上にある。誤りをただすにはやぶさかではないので、ご意見や異論のある方はご遠慮なく指摘していただきたい。
 
 いささか飛躍するが、はじめに概説して方向を示すと、斐太の工の遠祖は物部氏とおなじ、ニギハヤヒノミコト(饒速日命)と推察する。そして、古代においては、大物主の命、物部氏、カモ氏と共存関係にあったと考えられる。これが時代が下がるにしたがって、中臣氏と強く結びつき、また石上氏と強いてゆくが、権力の抗争からは距離を起き、カモ氏と同じように一族安泰の方途をとっている。