暘州通信

日本の山車

10588 「暘州」とは?

2007年01月10日 | 日本の山車
「暘州」とは?

このごろ「暘州」とは? との質問をよく受ける。
飛騨は「ひだ」の音に文字をあてたに過ぎず、斐太、悲陀、飛弾などとも書かれるが「ひだ」の音に文字をあてたに過ぎず、その語義にはとくに意味がない。
かって国名はすべて一字であらわされており、のちに二字になった。
飛騨地方は「暘=ひ」の国・太陽の国すなわち暘州といわれてきた。だから、暘州(ようしゅう)は飛州とも同義である。
関東各地に見られる氷川神社の起源は出雲とする説があるが、島根県の簸川、広島県の比婆など古代の出雲文化の流入であろう。
茨城県の常陸(日立)、宮崎県の日向、大分県豊前日田などは、飛騨とおなじく「暘」の国かもしれない。
春分・秋分の日に常陸に昇った太陽は黄道をたどると、信州諏訪を経て飛騨高山乗鞍岳(奥の院)、位山(本宮)、水無神社にいたるといわれる。
高山市の東部にある上野平(うわのだいら)は広大な台地であるが巨大な建築物(大神殿)があったと推定する。
松森以外は木がない。戦前地元の女性操縦士が着陸したことがある。
上野平は縄文遺跡の宝庫で、おびただしい事物を出土し、おおきな人面石(太陽神の象徴ともいう)があった。その後の耕地整理、土地改良事業が繰り返され、いずこかへ消えてしまった。
東部の旧丹生川村(現、高山市)には日抱宮、日輪社(神社)、日面などがあり、太陽信仰の面影をとどめている。江戸時代お伊勢さんが飛騨にお移りになったといわれ、街道は大賑わいしたという。日面は両面宿儺ゆかりの地でもある。
旗鉾の地名は、三韓征伐から帰った神功皇后が陣中で用いた旗と鉾を奉納して、三韓征伐の祈願が成就したことを感謝したことに因むといわれる。
ブログ・ランキングに参加しています。

  日記@BlogRanking




●965 安曇氏と穂高

2007年01月10日 | 日本の山車
安曇氏と穂高

安曇氏は海人族にあてられ、ワダツミ(綿津見)の系譜に配されており、滋賀県の安曇川、安土は古代に安曇氏の定着した場所とされる。
では、長野県の安曇氏はどこから移入したか?
この謎解きには宗像三神とのかかわりを省くわけにはいかない。
宗像大社は福岡県宗像市田島2331に鎮座する。
宗像大神を祀る神社は全国に六千あまり社あるといわれるその総本宮である。
玄界灘に三島があり、沖ノ島には、沖津宮のタゴリヒメノカミ(田心姫神)を祀る。
島からは、鏡、勾玉、金製の指輪など、約十二万点の貴重な遺物がみつかり辺津宮神宝館に所蔵、展示され一般に公開されている。許可なく島には上がれないが、特に女性はこの島に渡るのを禁じられている。
中津宮にはタギツヒメノカミ(湍津姫神)を祀る。
辺津の宮にはイチキシマノカミ(市杵島姫神)を祀り、三宮の総社とされている。この三宮を総称して宗像大社という。
辺津宮には、宗像大神が降臨したと伝えられる「高宮祭場」があり、神籠(ひもろぎ)、あるいは磐境(いわさか)といい、祭の原点とされている。
宗像大社は、「ミチヌシノムチ(道主貴)」ともいい、 交通安全のためにお供えされた、人形、馬形、舟形という石製の形代(かたしろ)が国宝として保存されている。 古代より、道の神様としての篤い信仰を集めていたことを表しており、遣唐使も交通安全のために必ず参拝をしている。
長野県への移入経路は伊勢湾から、木曽川を遡上してきたものと推定する。
松本市の須々木水神社のおそらくすすき氏? は和歌山の出自だろう。五十猛を祀る
伊太祁曾神社も和歌山県に本宮がある。岐阜県高山市(旧丹生川村)、飛騨市(旧神岡町)には伊太祁曾神社が数社あり、乗鞍岳山頂にも祀られるが、これも、紀伊から伊勢湾をを経て信州安曇野にはいり、北アルプスを越えて飛騨に入ったものだろう。
飛騨地方の伊太祁曾神社と道祖神、庚申の分布はほぼ一致する。
そうすると、住吉神、熊野神、諏訪神とはどのように折り合いがついたのか? という疑問が起きてくる。

ブログ・ランキングに参加しています。

  日記@BlogRanking