暘州通信

日本の山車

00452 伊砂砂神社例祭

2007年01月05日 | 日本の山車
伊砂砂神社
祭九月一三日に燈明祭が行われる。
かって山車が曳かれたが現在は解体して保存されている。

汎論
旧中山道沿いにある。応仁二年(一四六八)に建立された本殿は室町時代の建築で重要文化財の指定を受けている。
燈明祭は文明元年(一四六九)に雨乞いのお礼にはじまったという「花踊」が奉納される参考
佐々婆神社
久佐々神社
篠原神社
はおそらく渡来系の神社と考える。関連があるかもしれない。

02528 大八臺の屋臺囃子と浦上玉堂

2007年01月05日 | 日本の山車
02528 大八臺の屋臺囃子
 高山の屋臺で演奏される屋臺囃子のなかでも、八幡祭の「大八」はとりわけ著名である。大八臺で演奏される「大八」を、そのままか、または何んらかの形で編曲して演奏する屋臺は、八幡祭の金鳳臺、豊明臺、鳳凰臺鳩峰車などであるが、秋の八幡祭の屋臺のみにとどまらず、春の山王祭の石橋臺、崑崗臺、鳳凰臺、琴高臺、青龍臺惠比壽臺、大國臺などでも演奏される。
 大八臺が正調「大八」であるのは当然として、他の屋臺組でもこれを編曲した「大八崩し」が演奏される。しかし、かっては曲名はおなじでも、その大八崩しは演奏される屋臺組によって微妙に音色や調子が異なったものである。
 これは、囃子を指導する師匠や口伝に個性があり、伝承の課程で各屋臺組独自の曲に変わっていったからである。
 「大八」という屋臺囃子は高山の祭囃子固有の優雅なお囃子で、他には例を見ない。
 では「大八」はどのような過程からうまれたのだろうか?
 江戸時代、文化五年、ふたりの子供をつれ、背中に琴を背負った浦上玉堂が高山を訪れた。もとは白だったであろう着物とも思えない衣服は、長旅にすっかり汚れ、ほこりと汗にもつれた蓬髪は、見る人の眉をひそめさせた。この姿で玉堂は各地を旅し、しばしば物乞いと間違えられて追い払われた。ふたりの子供は春琴と秋琴である。
 玉堂の旅姿を伝える古書はこう誌している。
 玉堂はこの足で、千種園に田中大秀を訪ね旅装を解いた。
 大秀は、京都で本居宣長に学んだとき、玉堂を知り、琴の教えを受けた昵懇の間であった。この玉堂の高山訪問は驚喜をもって歓迎された。
 大秀が玉堂の来飛を望んだのにはいまひとつおおきな理由があった。
 下一之町の屋臺の改修にあたり、大秀はその相談を受けていた。国学者である大秀は、従来他の屋臺とは趣を変え、すべて和風で仕上げる構想を練っていたが、おなじ高山町内で漢学の学問所を開く赤田臥牛もこれには賛成していた。
 しかし、各地を放浪する玉堂の所在を掴むのは、至難のことで、臥牛は「白雲中の鶴を探すより難しい」といって嘆いた。
 その鶴が高山に舞い降りたのだから、そのよろこぶは一様ではなかった。
 文化五年、玉堂は水戸藩で逗留し、薬種商の感章堂主人の岩田健文に、琴の指導をしたことがつたえられているが、高山を訪れたのはこのあとのことではないかと考えられる。水戸から高山へ道筋は不明だが、中仙道を碓氷峠を越え、さらに野麦峠を経て高山入りするという旅程だったのではないだろうか。
 高山に旅装を解いたのは、旧暦の七月。暑い夏の盛りであった。
 歓迎を受けた玉堂がさっそく弾琴の披露をしたのは言うまでもない、
大秀は笙、篳篥、琵琶の名手でもあり、玉堂に和して旧交をあたためた。
 その席には赤田臥牛も招かれた。
 玉堂の琴に話しがおよんだ。
 いま一「こと」といえば「筝」をさすのだろうが、「琴」にはこの「筝」と「琴」がある。
おおきな違いは、筝は「琴柱(ことじ)」を立てるのに対し、「琴」はこの琴柱がない。玉堂や大秀が弾いた「こと」はこの「琴」のほうである。
玉堂が大切にしてどこへ行くにも携えた琴は、やはり高山にも持ってきていた。
 大秀は、この玉堂が持つ「琴の複製作りたい」と希望したところ、玉堂は快諾した。しかし、問題はその材料であった。
 大秀からこの話を聞いた臥牛は意外な提案をした。
 臥牛の手元に老杉の材があるというのである。
 この杉は、浅水の地で、日夜、千年の歳月をせせらぎを催馬楽の音として聞きその生命を終えた。その杉材は、ほとんどお堂の建造に用いられたが、いくらかの余材があり、縁あって臥牛の手に入った。
 臥牛はその杉材を提供すると申し出たのである。
玉堂の琴を手本に「鑑造(複製)」する依頼に応じたのは、彫刻の名匠、中川吉兵衛であった。
 吉兵衛は十日ほどでこれを作り上げたが、玉堂はその間付きっきりだったという。
出来あがるや、玉堂は白木のままの琴に絃をはり試し弾きをした。
 固唾をのんで見守る大秀や人々の前で弾き終わった玉堂は、首を傾げていたが、もういちど弾き終わるや破顔して「自分のもつ玉堂琴にまさるも劣らない」と絶賛した。
 大秀が喜んだのは言うまでもない。
 玉堂は大秀を訪ねるほか、飛騨にはもうひとつの目的があった。
 それは「催馬楽」の旧地である、阿左美豆(あさみず)の地を訪ねることであった。
 話しを聞いた一同はその不思議な因縁話に驚いた。
 大秀は、日を選んで酒肴を調えさせ、羽根の阿左美豆の地に玉堂を案内して一日清遊したが、玉堂は出来あがった琴を
携え、浅水の地で川傍の石上に坐って数曲を弾き、さらに自ら編曲した「催馬楽」を披露したが、この曲を聴いて感動しないものはいなかった。
 玉堂は、名工、中川吉兵衛をたたえ、この琴は「漆をかけなくても、このままで申し分ない」といい、「浅水琴」と命名した。

このときの様子を玉堂は「浅水琴記」としてに残している。
 浅水橋は、いわゆる催馬楽の歌曲なり。
 戊辰の歳、余は飛騨の高山に遊び叢桂園の主人訪う。
 主人、嘗テ国風を善くす。固より余が知音なり。
 琴酒の余、余に二謂って日く、浅水橋は昔本州の益田川に在り 橋断ゆること今に二百又余年。 
 是を憾となすのみ。
 余行きて其の処に至り、 川上に琴を把りて浅水の曲を鼓す。
 山雨新たに晴れて、流水潺々たり。
 心を洗い思いを滌いで去る。豈に主人、此の巻を出して題を索む。
 展観すること数四。
 酒を呼んで此を書す。
    
大秀もまた、浅水橋について和歌を詠んだ。

浅水の橋の古こと万代に
しらべ伝へむ琴ぞ此こと

このあと玉堂は、大秀の需で、大八臺の改修工事に意見を述べ、屋臺囃子の作曲と、その演奏の指導を行ったが、やがてできあがった曲を演奏する指導を受けたのは屋臺組を差配していた「大八」の人々であった。
 この屋臺と、優雅な屋臺囃子に満足した屋臺組では、この事跡をながく記念するため、改修なった屋臺を「大八臺」と名づけた。
 このとき「文武」「蘚花」などの琴曲も教えられたというが、屋臺囃子としていつごろまで演奏されていたかはわからない。
 大八臺の上臺には衣桁が五つ備えられ、それには、担当する楽器により五式に色分けされた伶人衣装がかけられていた。
 いまは小幡に変っている。
 秋祭に曳かれる「大八臺」を見ることなく、屋臺囃子「催馬楽」を聞くこともなく玉堂は二人のこどもを連れて飛騨を去った。
 浦上玉堂はこのあと、大秀の紹介で古川町の酒造家である蒲家に一夜の宿を借り、もとめられて「曳杖野檎図」をのこしている。
 船津(神岡町)では、大森家にわらじを脱いだ。
 さらに越中富山を経て、金沢に至り、暫らく滯在したあと、会津に向かった。
 大秀が玉堂を飛騨古川の酒造家である蒲家に紹介した書翰があるが、それによると、

 玉堂先生御出拙家に六十日程御遊、尤拙家は右の事故八幡山勝久寺等に被居候。
 詩画等も被致誠に天下第一の風流士に御座候。
 何卒御世話奉了等潤子共今夜一宿御願申上候。

 とあって、玉堂が高山に滯在したのはおよそ二ヶ月あまり、高山を離れたのはいまの十月中旬から下旬頃だったと思われる。

 玉堂が高山滞在中、中川吉兵衛により二面の琴が作られた。一面はさきの「浅水琴」で、今一面は謝礼として赤田臥牛に贈られた。
その琴は、赤田誠修館にしばらく保存されていたが、
臥牛の二代目である章齋のとき、谷口與鹿に譲られた。
 與鹿はかたときもこの琴を手放さなかったというが、こんどは、與鹿がこの琴を手本にしてもう一度つくることになった。
 その琴が、上一ノ町の屋臺「麒麟臺」の下臺に彫刻される「唐子遊戯図」のなかで唐子が弾琴する琴である。
(寥郭堂文庫資料)

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