山車4臺、子供屋臺6臺を曳く。3日は宵宮、4日は大幟を先頭に神楽殿、4臺の山屋臺、5臺の子供屋臺を曳く。見送り幕などは丹後ちりめんの里にふさわしい見事なものである。
山車
・梅谷 大幟 子供太鼓臺
・下地 神楽臺 子供太鼓臺
・上地 山屋臺 浦島山 藝芸屋臺 太鼓臺 子供太鼓臺
・大道 山屋臺 春日山 藝屋臺 太鼓台 子供太鼓臺
・奥地 山屋臺 倭文山 藝屋臺 太鼓臺 子供太鼓臺
・中坪 山屋臺 八幡山 藝屋臺 太鼓臺 子供太鼓臺
祭は、大幟を先頭に山屋臺や太鼓臺が御旅所に集まり、賑やかに囃しながら町中を神社まで巡行する。途中で神招きの儀礼も行われる。三河内祭とよぶ祭礼は、古くは旧暦の8月朔日であったが、明治時代に春祭となり、近年になって5月3日に宵宮、4日に祭礼がおこなわれている。
華やかな屋臺囃子を奏する。なお、かっては近江長浜の影響を受けた藝屋臺を曳き、子供歌舞伎の上演もあったが近年は巡行していない。
この日、村境の御旅所に集結し、二輪の臺車に大きな幟を立てた大幟を先頭に、神楽臺、山屋臺12臺がにぎやかに、神社へと神幸する。途中神招きの儀式もおこなわれる。祭りにかかる人々は、各町内のハツピを着用して屋臺を曳く。
ちりめんの産地らしい祭であり、豪華絢爛な丹後の誇る祭である。山町の記録によると、江戸時代の末期にはこうした屋台が出揃っていたことが知られる。
山車
・梅谷 大幟 子供太鼓臺
・下地 神楽臺 子供太鼓臺
・上地 山屋臺 浦島山 藝芸屋臺 太鼓臺 子供太鼓臺
・大道 山屋臺 春日山 藝屋臺 太鼓台 子供太鼓臺
・奥地 山屋臺 倭文山 藝屋臺 太鼓臺 子供太鼓臺
・中坪 山屋臺 八幡山 藝屋臺 太鼓臺 子供太鼓臺
祭は、大幟を先頭に山屋臺や太鼓臺が御旅所に集まり、賑やかに囃しながら町中を神社まで巡行する。途中で神招きの儀礼も行われる。三河内祭とよぶ祭礼は、古くは旧暦の8月朔日であったが、明治時代に春祭となり、近年になって5月3日に宵宮、4日に祭礼がおこなわれている。
華やかな屋臺囃子を奏する。なお、かっては近江長浜の影響を受けた藝屋臺を曳き、子供歌舞伎の上演もあったが近年は巡行していない。
この日、村境の御旅所に集結し、二輪の臺車に大きな幟を立てた大幟を先頭に、神楽臺、山屋臺12臺がにぎやかに、神社へと神幸する。途中神招きの儀式もおこなわれる。祭りにかかる人々は、各町内のハツピを着用して屋臺を曳く。
ちりめんの産地らしい祭であり、豪華絢爛な丹後の誇る祭である。山町の記録によると、江戸時代の末期にはこうした屋台が出揃っていたことが知られる。
面降山の東麓に鎮座する鍬山神社の秋季大祭。
「丹」の歴史には謎が多い。丹後の元伊勢は内宮、外宮があり、神殿は三重県の伊勢神宮とおなじつくりだが、その成立は伊勢より77年先だとされる。
景初年号のある三角縁円獣鏡の出土、浦島・羽衣伝説、丹波・丹輪(大阪南部)・伊丹の関連、出雲系の事物。丹後の国があって、丹前の国がないことなど口丹波の祇園祭として親しまれる、「口丹波」とは、丹前なのか?
祭は10月1日から26日におよび、10月20日は御出祭とも呼ばれ、鍬山神社より鍬山宮、八幡宮のそれぞれの御輿が御旅所に出御し、25日の本祭まで鎮座する。
亀山郷長杉原守親が著した、延宝9年(1681)の「丹波の國桑田郡矢田郷矢田社之祭法」によると、鍬山神社の祭は、古くは旧暦9月1日から晦日までの1ヶ月間行われていたという。この二十四日のところに、舟造、御鉾飾とあり、同日樫舟をつくり、鉾を飾ったことがうかがわれる。舟造りとは興味ある表現で、樫舟をさす。
江戸時代後期には各町内に鉾が造られ、巡行したようで、山、鉾の曳き順は、京都の祇園祭と同じように籤引きによったといわれる。
鍬山神社は、社記によると、和銅2年(709)に創祀されたといい、「延喜式」に記載される古社である。祭神は大已貴尊を鍬山大明神として祀る。
山車三輪山鉾があるが、大和大三輪神社の祭神も大已貴で、その関連もうかがわれる。
永万元年(一一六五)より、譽田神を八幡宮として併祀し、9月29日には、藝に優れた人によって猿楽が上演、奉納されたとある。
「看聞御記」、「丹波國桑田郡矢田社之祀記」などによると丹波猿楽の本座としても隆盛をきわめたようである
天正四年六月、明智光秀が桑田郡に入って亀山城を築いたが、このとき鍬山神社の祭礼はことごとく廃止された。また祭礼の廃止にあわせて神樂、競べ馬、相撲、猿楽などの祭に関わる娯楽も一切癈された。しかし、明智光秀はこのわずか六年後の天正10年6月2日、本能寺に織田信長を討ったが、つづく山崎の合戦では豊臣秀吉に破れ、亀岡は秀吉の支配となり、亀山城主には養子の羽柴秀勝(織田信長の四男)がはいっている。
その後歴代の城主は、神領を寄進するなど崇敬も厚かったが、岡部長盛の城主のとき、鍬山宮、八幡宮の社殿を造営し、慶長15年(1610)には猿楽が復興された。
神官は別当職として菱田氏をおき、のちに僧舎一棟を建てて僧侶に神事を行わせたが、僧坊は大智院といった。
「引山記」によると、鍬山神社の祭は、表番と裏番があり、城主が在国の表番の年は、御輿や曵山を城内まで曳き入れて上覧に供し、城主が江戸詰めで裏番となる不在の年は、御輿のみ御旅所まで渡御され、曵山は出なかったとある。
「旅籠町会議所所蔵文書」には亀岡祭の山車は舁山四臺、曵山六臺、飾山一臺(もとは曵山)の十一臺が記録される。
既述のように、亀岡祭には延宝9年(1681)風流の「樫舟」を曳き、船中には南社前の榊(賢木)をたて、十人の楽人が大鼓、笛、鼓で楽を奏し今様を謡い、曳く方向を操舵する木挺は四人、曳子は十六名であったと記録される。現在見られる舁山や山鉾よりも前に「樫船」とよぶ曵山があった。
杉原氏の写生図が、四季の祭と年中行事に転載されているが、その挿画には龍頭の船首、四輪の車輪を持つ山車で、船腹は幕で覆い、下部の幕は波模様が描かれている。
その上を覆う幕には大きな鳥(鳳凰か?)が描かれる。唐破風の屋根を持つ御殿風の造りであったようだ。
花氈は花毛氈ともいわれるが、稲荷山の御装束箱の箱書きに「寛延四年未年九月吉祥日」とあるのがもっとも古い記録で寛延4年は(1751)にあたる。
高砂山の御人形箱ならびに道具入箱には「宝暦五乙亥歳九月」(一七五五)。
三輪山の御装束箱に「宝暦七年丑九月寄寄附」(1757)。
八幡山は建造記録があり、「宝暦十三年癸未年九月、新たに山を造営して八幡山と号奉る」とあって、いずれも九月になっているのはその年の祭に、はじめて用いられたことを
しめしている。
山車
・翁山
・八幡山
・難波山
・三輪山
・武内山
・高砂山
「丹」の歴史には謎が多い。丹後の元伊勢は内宮、外宮があり、神殿は三重県の伊勢神宮とおなじつくりだが、その成立は伊勢より77年先だとされる。
景初年号のある三角縁円獣鏡の出土、浦島・羽衣伝説、丹波・丹輪(大阪南部)・伊丹の関連、出雲系の事物。丹後の国があって、丹前の国がないことなど口丹波の祇園祭として親しまれる、「口丹波」とは、丹前なのか?
祭は10月1日から26日におよび、10月20日は御出祭とも呼ばれ、鍬山神社より鍬山宮、八幡宮のそれぞれの御輿が御旅所に出御し、25日の本祭まで鎮座する。
亀山郷長杉原守親が著した、延宝9年(1681)の「丹波の國桑田郡矢田郷矢田社之祭法」によると、鍬山神社の祭は、古くは旧暦9月1日から晦日までの1ヶ月間行われていたという。この二十四日のところに、舟造、御鉾飾とあり、同日樫舟をつくり、鉾を飾ったことがうかがわれる。舟造りとは興味ある表現で、樫舟をさす。
江戸時代後期には各町内に鉾が造られ、巡行したようで、山、鉾の曳き順は、京都の祇園祭と同じように籤引きによったといわれる。
鍬山神社は、社記によると、和銅2年(709)に創祀されたといい、「延喜式」に記載される古社である。祭神は大已貴尊を鍬山大明神として祀る。
山車三輪山鉾があるが、大和大三輪神社の祭神も大已貴で、その関連もうかがわれる。
永万元年(一一六五)より、譽田神を八幡宮として併祀し、9月29日には、藝に優れた人によって猿楽が上演、奉納されたとある。
「看聞御記」、「丹波國桑田郡矢田社之祀記」などによると丹波猿楽の本座としても隆盛をきわめたようである
天正四年六月、明智光秀が桑田郡に入って亀山城を築いたが、このとき鍬山神社の祭礼はことごとく廃止された。また祭礼の廃止にあわせて神樂、競べ馬、相撲、猿楽などの祭に関わる娯楽も一切癈された。しかし、明智光秀はこのわずか六年後の天正10年6月2日、本能寺に織田信長を討ったが、つづく山崎の合戦では豊臣秀吉に破れ、亀岡は秀吉の支配となり、亀山城主には養子の羽柴秀勝(織田信長の四男)がはいっている。
その後歴代の城主は、神領を寄進するなど崇敬も厚かったが、岡部長盛の城主のとき、鍬山宮、八幡宮の社殿を造営し、慶長15年(1610)には猿楽が復興された。
神官は別当職として菱田氏をおき、のちに僧舎一棟を建てて僧侶に神事を行わせたが、僧坊は大智院といった。
「引山記」によると、鍬山神社の祭は、表番と裏番があり、城主が在国の表番の年は、御輿や曵山を城内まで曳き入れて上覧に供し、城主が江戸詰めで裏番となる不在の年は、御輿のみ御旅所まで渡御され、曵山は出なかったとある。
「旅籠町会議所所蔵文書」には亀岡祭の山車は舁山四臺、曵山六臺、飾山一臺(もとは曵山)の十一臺が記録される。
既述のように、亀岡祭には延宝9年(1681)風流の「樫舟」を曳き、船中には南社前の榊(賢木)をたて、十人の楽人が大鼓、笛、鼓で楽を奏し今様を謡い、曳く方向を操舵する木挺は四人、曳子は十六名であったと記録される。現在見られる舁山や山鉾よりも前に「樫船」とよぶ曵山があった。
杉原氏の写生図が、四季の祭と年中行事に転載されているが、その挿画には龍頭の船首、四輪の車輪を持つ山車で、船腹は幕で覆い、下部の幕は波模様が描かれている。
その上を覆う幕には大きな鳥(鳳凰か?)が描かれる。唐破風の屋根を持つ御殿風の造りであったようだ。
花氈は花毛氈ともいわれるが、稲荷山の御装束箱の箱書きに「寛延四年未年九月吉祥日」とあるのがもっとも古い記録で寛延4年は(1751)にあたる。
高砂山の御人形箱ならびに道具入箱には「宝暦五乙亥歳九月」(一七五五)。
三輪山の御装束箱に「宝暦七年丑九月寄寄附」(1757)。
八幡山は建造記録があり、「宝暦十三年癸未年九月、新たに山を造営して八幡山と号奉る」とあって、いずれも九月になっているのはその年の祭に、はじめて用いられたことを
しめしている。
山車
・翁山
・八幡山
・難波山
・三輪山
・武内山
・高砂山