一言、云いたいね

社会の状況を見て一言云わせて貰う

最近感じたこと、法律は性善説でいいのか

2011-11-29 06:04:22 | 日記
法律を制定するときに、基本的に考えることは、この法律がもし守られなかったらどのように対処するのか、ということだ。罰則規定を設けるのか。罰則のない法律は、守られることが前提に立って作られており、法律違反があることを考慮していない。従って、法律というよりも規範に近い。
現在、多くの法律が施行されているが、罰則のない法律も幾つか含まれている。これらの法律は果たしてどのように運用しているのか。人間がいて、日本人以外の民族も多くなり、生活も多様化し、宗教も多くの種類が信仰されるようになってきた現状を見ると、罰則のない法律は意味を成さなくなる可能性が高い。
ということは、法律を作る前提として、性善説にたって作ることが正しいことになるのだろうか。犯罪が増加し、特に悪質な犯罪が低年齢化してきている。家庭教育や学校教育で法律の基本を教えることが殆どないことを見ると、性善説で法律を考えるのは無理があるといえそうだ。性悪説がここに登場する。
法律は守らなければ成らないし、守られなければ成らない。守ることが前提になっているのに、罰則規定がないということは、守らない人間に対して何も出来ないことになる。説得という言葉があるが、最終的には人間性である。法律を守れない人間に対して、説得だけでは限界がある。そこで罰則という手段を講じる必要が出てくる。罰則規定を設ける意味は、罰則を受けることによって法律の存在を示すこことなのである。処罰を受けて初めて法律の厳しさを感じることに成る。
最近話題になっている自転車走行についても、罰則規定を適用することで、ある程度事故を未然に防ぐことが出来る。但し、道路行政の不備については早急に改善しなければならない。
悪質な犯罪に対する罰則については、現在の規程されている罰則は軽いのではないかと思われるものがある。強盗殺人、強姦殺人などは原則死刑にすることにすべきではないか。アメリカでは、強盗殺人や強姦殺人という第1級殺人は死刑である。犯罪者を教育によって立ち直らせることが出来る犯罪は限られている。総ての犯罪に同じような教育計とする考え方には最近の風潮には馴染めない。犯罪を抑制できないから、人道的な問題から死刑反対という人たちがいる。刑罰は犯した罪に対して処罰されるものである。犯罪抑止効果が刑罰の重さで、ある程度できるものもある。刑罰が重いから、死刑が存在するから、犯罪を抑止できる、という考え方である。
法律を性善説で捉える考え方は、人間は総て正しいことを行う、という前提がある。現在の世の中で果たしてこの考え方が正しいのだろうか。大手企業の犯罪を見ても、国立大学の法学部出身者が犯罪を犯しているのである。人間は総て犯罪予備軍である。誰でも、何時、どこで犯罪を犯してしまうかもしれない、というのが人間である。法律は守るために作られるのである。従って、法律違反をすれば処罰の対象となる。これが法治国家の基本である。
コメント (4)
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