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「弘前大学教授殺人事件」と那須隆さん(その2)

2009-02-07 | ■社会/政治
那須隆さんの再審開始は、奇跡的に「真犯人」が名乗り出たことによるところが大きい。

しかも、その真犯人とは、那須さんの家のすぐ近くに住む男だったのです。彼の名前については、鎌田氏は、著書『弘前大学教授殺人事件』では、ほかのすべての関係者と同様、本名を出していますが、那須さん死去に際する新聞連載「那須隆さん 無念の一生」では、「T」と匿名にしています。「Tはもし存命なら78歳になっているはずである。ときどき、どうしているだろう、と思ったりする。いまでも仙台で暮らしているのかどうか。」(2008年12月22日付け東奥日報)。彼がまだ生きているかもしれないことを思えば、鎌田氏は、さすがに新聞で本名を記すわけにはいかなかったのかもしれません。

那須さんより7歳年下のTは、那須さんの弟と小学校の同級だったこともあり、那須さんとも幼なじみでした。那須さんや弁護士は、あるいは捜査陣の一部でも、Tが犯人ではないかという疑いを持っていました。Tは同時20歳で、松永家の裏のダンスホールに入り浸り、ここで出入りする弘前大学付属病院の看護婦の間でも評判が悪かったという。那須さんが逮捕された10日ほどあとには、病院の看護婦詰所にしのびこんで逮捕され、余罪の追及を受けたTは、それ以前に女性を襲った事件についても自供しています。拘留されたTは、那須さんと同じ留置場に入れられました。その時は、Tも那須さんがもちろん弘大教授夫人殺害容疑で逮捕されたことは知っていましたが、あの事件は実は自分の犯行であるとは、その時にはとても言い出せなかったでしょう。あちらは女性を脅してちょっと怪我をさせたどころではない、殺人罪ですから。                                             ではなぜ彼は、事件から22年も経た後に、真犯人として名乗り出ることになったのか。                                            那須さんは、10年間の服役中、常に再審請求に一筋の希望をつないでいました。しかし、「新証拠が現れない限り、冤罪者救済の再審制度も役にはたたない」のです。事件から時が経過すればするほど、「新しい証拠」が出てくる可能性は低くなる。歯がみする思いを抱えながらも、獄中での時間はいたずらに流れていきます。

刑が確定して5年ほどたつと、模範囚であった那須さんに仮釈放の話が出てきました。更生保護委員会の担当者の面会で、被害者に対してどう思っているかという質問に対し、那須さんは、「わたしは無実ですから、被害者に詫びることはなんにもありません」と答えたという。せっかくの仮釈放のチャンスは、そのため何度も潰えています。まあ考えてみれば当たり前の話で、やってもいないのに、すみませんと頭を下げる人はいない。

ただ、これまで警察の取り調べでも、裁判でも、また獄中にあっても、一貫して無実を叫び続けてきた那須さんも、老いた父母のこと、また自分自身の健康状態のことも考えた末、「「自白」と引きかえに「自由」を手にする道を選んだ」のです。更生保護委員会の面接で、彼は初めて「自分がやったことを認めます」と口にします。それは、那須さんにとって、どんなにつらいことだったろうと思います。でも、まずは「自由」を手に入れなければ、再審請求の道も広がらないということだったのでしょうか。

出所してからの那須さんは、ある会社で仕事も得、のちには妹の夫が建てた銭湯の管理人を務めるようになりました。その間、結婚もし、夫婦二人で静かな生活を送っていました。再審請求への道を開く「新しい証拠」が出てくる可能性などほとんどない中、たった一つの奇跡、「真犯人」が名乗り出たのは、そんな時だったのです。

宮城刑務所に収監されていたTは、ある日、三島由紀夫の割腹自殺(1970年11月)のニュースをラジオで知る。日本の将来を憂い、自らの死をもって警告を発した三島の行動に刺激されたTは、同房の仲間に「おれたちのように悪いことばかりしてきた人間でも、更生なんかできるもんだべが」とぼそりとつぶやいたという。そして、思い切ったように、自分が人を殺していることを告白したのだという。

いかにも気弱そうに見えるTのその言葉を、仲間たちはハッタリだと思い、誰も信じようとしなかった。「俺の代わりに、ひとり、この刑務所に入っていたんだ」と言われても、逆にからかわれる始末。しかし、その時の仲間の一人が、出所後にTに再会し、Tの話の真偽を確かめるために弘前までわざわざ2度も調べに出かけていきます。2回目の時には那須家を突然訪れ、真犯人がいる、と伝えています。彼もまた、警察や裁判で、理不尽な扱いを受けてきた男でした。だからこそ、「犯罪者」という烙印を押された者の家族たちの苦しみや悲しみも、十分察することができたのではないでしょうか。

こうして、弁護士らも立ち上がり、那須さんの再審への道が開かれていきました。鎌田氏は、そのいきさつを、『弘前大学教授夫人殺人事件』で、「追いついた真実」という秀逸な章名のもとで描いています。

ただ、鎌田さんの新聞連載によれば、「その勇気をふるった行為も、絵に描いたような美談にはならなかった」。つまり、地元では、那須さんとTという「ムショ仲間」がつるんで仕組んだ金稼ぎの芝居、と疑う人も少なからずいたようなのです。どうすれば「金稼ぎ」になるのか私にはわかりませんが、那須さんにとっては、そういう声があがること自体、いたたまれないものだったのではないかと推察します。鎌田氏は、その背景にあるのは、「余所者(よそもの)への冷たい目」だと書いています。那須さんは、源平合戦の時の弓の名手として知られる那須与一の直系の子孫であり(晩年は栃木県大田原市の那須与一記念館の名誉館長も務めていた)、根っからの津軽人ではない。Tも「北海道から流れついた貧乏人」。どっちも「余所者」なのです。確かに、津軽にはヨソ者を排除しようとする文化がなきにしもあらず…。

鎌田氏は、この連載の掲載紙である東奥日報紙も、「1971年7月14日から、T告白を批判する記事を連載した」とバッサリ。「真相語らぬ"真犯人"背後に黒いうわさ飛ぶ」などというタイトルが並ぶ連載企画です。事件発生時の報道もそうですが、犯罪事件のマスコミ報道は「警察発表」をもとにしていることが多いことから、「えてして警察寄りになる」。そのため、最初から容疑者=犯人というイメージを読者に植え付けかねない。「変態性欲者の犯行」と書けば、逮捕された那須さんがそうだと思いこんでしまう。

裁判員制度がいよいよ間近に迫った今、「容疑者」はあくまで「容疑者」(被疑者)である(でしかない)という意識を持つことに、わたしたちはもっと「慣れ」なければいけないのではと思います。ご自身の意思とは裏腹ではありますが、那須さんがその人生を賭けて示してくれたことを、わたしたちは大事にしていかなければなりません。


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2 コメント

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ありがとう (りっちゃ)
2014-11-04 00:38:34
通りすがりですが、読んで良かった。良い記事でした。ありがとうございます。
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Unknown (通りすがり)
2014-01-28 19:59:01
那須氏は与一の血縁上の子孫ではありません。
江戸時代に養子が何度か入っているため
与一の血統自体は絶えています。
那須家が弘前に住んでいたのも
江戸時代に養子をもらった縁がある津軽家を頼ったからです
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