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オリンピックの話◆第7話 冷戦下の不参加問題

2004-08-18 | └オリンピックの話
戦争による中断を経て、オリンピックが復活したのは1948年の第14回ロンドン大会からです。

折しも東西冷戦が始まり、オリンピックも否応なくそんな政治の波に乗らざるを得なくなります。東西両陣営は、オリンピックでより多くのメダルを獲得するため、選手強化にしのぎを削りました。オリンピックは、国力を誇示する絶好のチャンスとなっていくのです。これでは「ヒトラーの五輪」と同じですね。

オリンピックはあからさまに政治の道具として使われました。それがもっとも顕著に現れたのが、オリンピックの不参加問題です。

1979年、米国のカーター大統領は、ソ連のアフガニスタン侵攻に対する制裁措置として翌年に予定されていた第22回モスクワ大会への不参加を呼びかけました。西側諸国はこれに応え、次々と不参加を表明しました。結局、国際オリンピック委員会(IOC)加盟145か国・地域のうち、モスクワ五輪参加は80か国・地域にとどまりました。

日本においても、日本オリンピック委員会(JOC)が臨時総会を開いて協議、最終的に29対13(棄権2)で不参加を決定しました。246人の選手団の派遣は見送られたのでした。柔道の山下選手、マラソンの瀬古選手といった有力選手は涙をのんであきらめるしかありませんでした。

西側諸国でも、イタリア、フランスなど参加に踏み切った国は17ヶ国にのぼりましたが、これらの国は開会式で国旗を用いず五輪旗や各国オリンピック委員会旗で代用しました。

イギリスは、サッチャー首相がボイコットを訴えますが、イギリスオリンピック委員会(BOA)はこれに反発、五輪参加は個々の選手の判断に委ねるべきだとして参加を表明しました。ところが、参加選手に対する政府の圧力はすさまじいものがありました。頼りとする大企業の寄付が集まらず、往復の航空運賃や宿泊費などの参加費用は、一般市民からの寄付はあったものの、ほとんどが自弁となりました。この状況は、まるで17世紀の市民革命期を見るようです。マグナ・カルタ以来勝ち取ってきた権利を主張する市民と政府権力の対立。そんな歴史があってこそのBOCやイギリス市民の対応だったのではないでしょうか。

とはいえ、そんな成熟した市民社会を標榜するイギリスも、かつて19世紀にはインド中国、アフリカ大陸など世界各地に侵略し、大植民地帝国を建設していったのですが…。

それはともかく、モスクワ五輪では当然のように、ソ連、東ドイツといった東側諸国がメダルを独占(全204種目中でソ連が80個の金メダル獲得など)しました。閉会式では、通常なら必ず紹介される次回開催地の名が全く出てきませんでした。それは、4年後の開催地が米国、ロサンゼルスだったからです。

第23回ロサンゼルス大会(1984年)は、今度は東側諸国16ヶ国が不参加を表明する番でした。モスクワ大会ボイコットのお返しをしたわけです。このときにはさすがにソ連に反抗してまで参加を決めた東側諸国は現れませんでした。

冷戦が終結して初めてのオリンピックは1992年の第25回バルセロナ大会。既に「ソ連」という国は崩壊し、この大会には旧ソビエト連邦内の共和国が「EUN」(独立国家共同体)として参加しました。

冷戦下の不参加問題は、オリンピックが世界最大のスポーツの祭典である以上、政治と全く無関係には成り立たないということを如実に示していたと思います。

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