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不識塔その2─斎藤主(つかさ)の生涯

2004-12-21 | ■青森県
地元の人は不識塔を「主(つかさ)の塔」とも呼んでいます。「主」とはこの塔を建てた斎藤主という人の名前にちなんでいます。以下、「西目屋村誌」を参考に、彼がなぜこの不思議な塔を建てたのかをたどってみます。

斎藤主は、万延元(1860)年、西目屋村の隣に位置する弘前市に生まれました。父は弘前藩士でしたが、廃藩置県後、今別町で私塾を開いており、彼は母のもとで育てられました。12歳の時上京しようとして家出、秋田県大館で見つかり、家に連れ戻されるという事件を起こしています。

彼が東京行きを果たしたのは17歳の時。小さい頃からの特技を生かし、書家になるべく様々な職を転々としますが、結局、明治10(1874)年に勃発した西南戦争に乗じる形で警察官に採用されています。しかしそれも長続きせず、彼は一旗揚げようと北海道に渡ります。各地で役人生活を送りながら、英語や測量学、天文学などを習い、その知識を生かして北海道の奥地から千島、国後などの調査・測量に従事しました。

明治18(1885)年、26歳の時に故郷の青森に戻り、青森県庁土木課に配属されるものの、2年後には会計長として大阪の土木会社に入社、西日本各地の土木工事に関わることになります。一時的に請われて香川県庁や兵庫県庁の土木担当を任されたりもします。またこの間、九州鉄道土木工事測量の時に知り合った下宿屋の娘ナヲと結婚しています。

彼が三たび青森に戻ってくるのは明治28(1895)年、36歳のことでした。任された仕事は、弘前市の陸軍第八師団の兵営建設。前年には日清戦争が勃発、当時の日本は軍需に火がつき始めた時代でした。

翌年には、奥羽線の青森と秋田の県境にある矢立峠のトンネル工事に着手します。難工事と言われたこの事業を、彼は全国各地での鉄道工事の経験を生かして見事完成させています。

明治35(1902)年、彼は独立して、弘前で土木建築請負業を始めました。手始めに請け負ったのは、弘前駅の新築。さらに日露戦争(1904-05)による軍需景気もあり、順調に業績を伸ばしました。現在、弘前市のシンボルの一つとなっている旧弘前市立図書館の建設費用を寄付した篤志家5人にも名を連ねています。

さて、彼が独立した明治35年は青森県を2つの悲劇が襲った年でした。一つは、例の「八甲田山雪中行軍」。もう一つは、大凶作です。

東北地方には、およそ30年周期で冷害による大凶作が起こっていますが、この時の凶作は特にひどいものでした。彼は中津軽郡の郡長を訪ねて金一封を寄付、特に西目屋村の窮状がはなはだしいというので、さっそく赴いてみると、村人は米も麦はもちろんソバや豆まで食べ尽くし、ワラビの根を掘って食いつないでいるという惨状でした。

彼は、西目屋村を救いたいと考えました。まず着手したのが田畑をうるおす水路のトンネル工事でした。村人が動員され、きちんと日当を支払ったので生活に困り切っている村人は喜んで働いたといいます。

この成功に力を得た主は、次に原野の開墾に乗り出しました。とにかく、村人一人あたりの耕地が200坪に満たないという状況を何とかしたいと考えたのです。彼は、私財4千円を投じて広大な原野を購入、その代金の半分は村の積立金とし、残りの半分は村人たちで分けられました。ところが、思わぬ現金を手にした村人たちの思惑との行き違いもあり、開墾事業はなかなかうまく進みませんでした。山地には杉の植林を手がけようとしますが、何十年も先のことより目の前の窮状に苦しむ村人たちは誰一人手を貸そうとはしませんでした。

彼は開墾予定地に家を建て、一家で移り住んでまでこの地の開墾や開発に力を尽くすのですが、その思いと熱意が村人には伝わらなかったということでしょうか。

彼のすごいところは、開墾に加え「観光事業」にいち早く目をつけていることです。西目屋村には「暗門の滝」という景勝地がありますが、そこまでの山道を整備して観光客を呼び込もうとしたわけです。宣伝も怠ることなく、弘前の新聞社に写真を撮らせて新聞に掲載させたりもしているのです。

晩年には、仏門への関心から、たまたま山形県米沢市にある上杉謙信ゆかりの曹洞宗広泰寺が廃寺同然となっていることを知り、これを西目屋村に移して自ら住職として再興しました。52歳の時のことです。

明治45(1912)年秋、広泰寺のすぐ近くに異様な形の塔が姿を現しました。不識塔です。「開拓記念」のために作られたと伝えられていますが、彼は遺言の中で「死後遺体を塔の下部に埋葬すること」と言っているように、自身の墓所として建てたということも考えられます。大正8(1919)年、主が亡くなると、実際、その遺体はアルコール漬けにされて塔の祭壇の下に埋められたそうです(最近、弘前市に改葬)。

波瀾万丈の生涯の中で、斎藤主が最後に永住の地と定めたのは未開の原野でした。ぬくぬくとした人生に背を向けるかのような、そして、常に先取の精神にあふれていた彼の生き方には惹かれるものがあります。

なお、「不識」とは、「知らない、不知」という意味ですが、広泰寺を開基した上杉謙信の庵号が「不識庵」だったことに由来するものと思われます。

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